八月の広島は大きな全国集会から小さな慰霊祭まで、街じゅうが原爆一色に染まる。
ロサンゼルスからは55年当時「原爆乙女」と呼ばれた笹森恵子さん(70)が来日した。 55年米国人ジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏の招きで渡米し、ケロイドの整形手術を受けた女性達二五人の一人である。 「広島女子商一年で、初めての学徒動員でした。真っ青な空に『あっ、きれいな飛行機雲』『どこ?』『あそこよ』と言ったのと、白い物が落ちてきたのが同時。次の瞬間、強烈な光線と爆風に倒され、どのくらいか何の音もしない何も見えない時間が過ぎました。赤ちゃんの泣き声がした途端に声や音が戻ってきました。人について段原小まで逃げて気を失いました。「水が飲みたい、飲みたい」と思っていると黄色の花が一面に咲いている花畑の中に一筋の小川が見えて、近づいていくとどんどん大きい川になって、ついに海になり、私はその中で黄金色に包まれて痛みも渇きもない幸せな気持ちになりました。その時、「この子は心臓が強かったけえもったんよ」という声で目が覚めました。両親が捜し出して戸板に載せて運んでいたのです。五日間、何も飲まず転がっていた訳です。次に気がついたのは千田町の自宅。たどんのように炭化した私の真っ黒な顔を父がハサミで切るとシュークリームのクリームのような黄色いウミが現れたそうです。上半身大火傷で目も開かない私に母はつきっきりで看病してくれました。」 原爆を落とした国で治療を受けた笹森さんの顔はにこやかで若々しいが顎には手術跡があり、両手指は曲がったままである。 「この手のおかげで看護婦にはなれませんでした。被爆のために正規の職業にも就きにくく年を取っても年金が少なくて生活が苦しい人が多いんです。アメリカに住んでいる被爆者が裕福だというのは大きな誤解です。アメリカの医療費の高さには皆が悩まされています。生命保険にも入りにくいし、入れる保険の掛け金は二倍高いです。」 現在アメリカにある二つの被爆者組織のどちらとも笹森さんは関わりを持って来なかった為、日本を出国後も手当が出るようになったことさえ知らなかったという。このたび彼女はアメリカの被爆者達から多くの手紙を預かって来た。その中には「日本政府はまるで美味しいエサを遠くに置いて『欲しければここまで来い』と言っているようだ」「何の為にアメリカに領事館があるのか」といった強い不満の声が溢れている。 「何もこれまで日本人がもらった手当と同じだけの莫大なお金を下さいと言ってるんじゃないんです。これからでいい。医療費の自己負担分だけでも払ってくれれば助かると言っているんです。広島からの検診団に検査だけしてもらうよりは、日系人のお医者さんもたくさんいるんですから指定医の契約を結ぶとか、その気になればいくらでも血の通った方法はあるはずです。高齢を押して無理して日本まで行って、親戚のない人はホテルに泊まらなきゃならない。それが出来ない人とできる人の間に、大きな新しい不公平が生まれているんです。それをどうするつもりですか」と問いかけた。 主催の「在ブラジル被爆者裁判を支援する会」代表の田村和之広大教授からは在外被爆者支援運動の到達点について説明があり、「健康管理手当の送金などが大幅に遅れている原因は、膨大な事務や対外交渉、連絡を地方自治体に背負わせているからではないか。やはりこれは国がやるべき仕事だと思う。七月の交渉でも厚労省は『法律上出来ません』の一点張りだった。敗訴したから渋々後退しただけで反省もなくこれ以上のことをやる気はなさそうだ。これからが正念場で、場合によっては新しい裁判の提起をも視野に入れつつあらゆる努力をしていこう」と呼びかけた。 足立修一弁護士は「今は『日本に来ないと被爆者になれない』という状況だ。援護法改正はひとつの目標だが、海外送金にしても、どこにも法律はない。手帳取得の為の渡日旅費支給など、「法外援護」もある。 例えば手当の申請先の都道府県知事は『海外においては領事館とする』と付記すればよいのだ。」と今後の可能性を示した。 広島選出の林紀子議員(共産党)や金子哲夫議員(社民党)も挨拶し、金子議員は「健康管理手当の一部疾病を除く支給期限撤廃が実現したのは在外被爆者の訴えによるところが大きい。援護法改正が根本的解決との意見もあるが、今の国会状況で法案修正が可能か。被爆者が生きているうちに手当を渡す為には少々問題があっても活用できるものは全て活用し、あらゆる角度から可能性を追求すべきだと思う」と述べた。 原水爆禁止世界大会(8・5)
今年初めから陝川の手当申請希望者達を引率して四度も広島にやってきている金日祚さん(73)さんは現在、河村病院に入院中。 朝から「韓国原爆犠牲者慰霊祭」に参加した後、会場に駆けつけ、演壇に上った。 「両親が親戚を頼ってきた京都で生まれて物心ついたら広島でした。父は朝鮮人相手の乾物屋をやっていました。昭和十五年から苗字は松本に変わり名は君代。日本軍が勝つと西錬兵場で提灯行列をしたりして気持ちは日本人でしたが『チョーセンジン』と苛められました。チマチョゴリを着ている母と一緒に歩くのがいやで、『私はどうして朝鮮人に生まれたかなぁ』とよく思いました。下の子の世話とかで小学校も一、二年しか行けない子も多かったけど私は卒業させてもらいました。それからゴム工場や広電、女子挺身隊で舟入の『桐原』という工場で働いた後、陝川出身の人と結婚。夫は江波の三菱の製作所で働いていました。あの日は夫が出勤して母と私は家にいました。当時朝鮮人は日本人から畑を借りてトタン屋根の長屋に十軒、二十軒、固まって住んでいましたがその家はドーンと倒れてしまいました。頭がパックリ割れるほどの大ケガをした母が先に這い出して私を助け出してくれました。イチヂク畑へ逃げて見た光景は今思っても涙が出ます。資料館の地下で『市民の描いた原爆の絵』を見ましたが本当にあの通りなんです。着物が破れてボロボロの人、皮膚を垂らしながら幽霊みたいに歩いていく人、『水、水、』と言いながら死んでいきました。 原水禁顧問の宮崎安男さんからは「学徒動員していた学校などは、作業場所も時間も全部わかっているはずなのに行政は証明を求める。二、三歳で被爆した人が被爆の状況を語れるわけはないのに要求する。今の手帳申請には本当に問題が多い。今年度、健康管理手当は物価スライド、介護手当は公務員給与引き下げに伴い初めて減額された。これも『国家補償』ではなく『福祉』だからだ。」と補足説明があった。 渡日治療中の被爆者―河村病院で 二十年前に入れた右足人工股関節の再手術の為、韓国の38度線以北にある山間の村から李順玉さん(72)が来日している。
李順玉さんの半生は「『ヒロシマへ』―在韓被爆女性三人の手記」に詳しい。被爆で両親を失い妹と帰国。貧しさで医者にも行けないまま病状が悪化。妹は自殺。現在は観光客に山菜などを売って生計を立てている。厳しい暮し向きを案じて、「李順玉さんを支援する会」(代表豊永恵三郎さん)が経済的に支援をしてきた。郭裁判の勝訴後、来日をためらう順玉さんに来日を勧めた。 「痛いのを堪えて商売しとるより、ゆっくり入院して足も治して帰った方がええじゃないの」と。手術は無事終わったと聞き、彼女の明るい顔を想像して病室に入った。ところが彼女は眉間にシワを刻んでベッドに座っていた。「痛いのと痺れで夜も五分と同じ姿勢でおられん。胸のここに火があるみたいで、苦しゅうて息が詰まるんよ」と山の新鮮な空気を懐かしがった。 「手術は若い時にするもんじゃね。歩いて帰れんかったらどうしよう。」と不安がった。 屋上でいいから出たいと言うが外は34度。「もう少ししたら落ち着いてくるかもしれんよ」と励ますことしかできなかった。 次に行くと随分表情が和らいでいた。
現場にいないと物事をひとくくりに考えがちだ。「日本に来られる人は来て、入院すれば全てよし」と思うのは誤りだ。年老いた被爆者は移動にも手術にも若い時とは比較にならない不安を抱えている。その心情を汲みとり、通院、手続き、日常のこまごまとした世話を焼く人達もまた、老いた。 アメリカの笹森さんも韓国の金さんも「来られない人こそ真っ先に手当を受け取るべきだ」と言い切った。自らの労をいとわず背後にいる人々の声を代弁する人、また法廷に立つ人の姿に、いつも粛然とする。 |