二十二人の「いのちかけた訴え」

フォトジャーナリスト 鈴木賢士
(在韓被爆者問題市民会議会員)

5月13日夕刻、JR浅草橋駅から降り立ったのは、釜山支部の5名だった。車貞述支部長と、長崎裁判で勝利を勝ちとった原告李康寧さんに2年ぶりの対面を果たし、あとの3名ともあいさつをかわす。「皆さんお疲れだな」というのが第一印象だ。釜山から船で博多港に渡り、博多から新幹線の長旅と聞けば無理もない。「飛行機より安く来られると思った」というが、実際は決して安くなく、いたずらに時間と疲労ばかりが増したようである。

「薬屋はどこ」という車さん、下痢が止まらないため、何となく顔がゆがんでいるように見える。案内した薬局で、強い下痢止めをすすめられたが、本人が昼食後正露丸を呑んだというと、両方強い薬だから8時間は置くようにと言われ、あきらめた。

元気者の李さんは東京駅などの乗り換えで、みんなの大きな荷物をひきうけ、大汗をかいたため、翌日は風邪気味になった。

今回、22名の訪日を迎えて最も気を使ったのは、宿舎と国会の往復で“迷子”を出さないことと、若くない皆さんの疲労と健康だ。げんに、体調不良を訴えた高齢の4名が東友会のお世話で診察を受け、そのうち1名は入院ということも起きている。このことにも現われているように、今回の訪日の最大の特徴は、高齢をひっさげ、病躯を押してのぎりぎりの行動であり、李廣善団長が言われた「最後の要請」だったということになろう。

それを受けて「韓日被爆者連帯 援護法適用を求める決起集会」が開かれ、議員懇などの働きで厚生労働大臣への面談や、国会・各党への要請行動なども実現した。目玉の一つ、坂口厚生労働大臣との会見について、李団長は「被爆者はどこにいても被爆者という言葉をいただいた。しかし、もっとじっくり説明したかったのに、十分な時間はなかった」と報告。いろいろやったけれども、手応えははっきりしないというもどかしさがにじみ出ている。釜山支部長車さんは、はっきり「不満だ」と表明した。

これまでにない、22名という規模での訪日だったが、残念なのは中央のメディアがほとんどこれを報道しなかったことである。わずかに被爆地広島・長崎の記者だけががんばっていた。果たしてこれでいいのかという思いを、日本の政府・官僚だけでなく、マスメディアに対しても痛感した。

「いのちをかけたこの願いを、私たちが生きている間に実現してほしい」―李康寧さんの訴えが、今も耳に強く残っている。