◇『ヒロシマを持ちかえった人々「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』を書いて◇
韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長
市 場 淳 子

 私がこの本をなぜ書くようになったのかについてお話します。

 私は広島県下の広島市から3時間もかかる所に生まれましたが、子供の頃から親がよく原爆資料館などに連れていってくれましたので、自然と原爆被爆者の問題は身についていました。それが関西の大学に来ましたが、関西は在日韓国・朝鮮人が非常に多い地域ということ、彼らと日本の植民地支配から今日に至る歴史などを初めて知りました。そして原爆被爆者の一割以上が朝鮮人であったということも知りました。今まで20年間あまり何も知らなかった自分に強いショックを受けました。当時、関西には被爆朝鮮人孫振斗さんを支援する市民の団体があり、その外にも在日朝鮮人をめぐる様々な運動がありました。私は自分が何も知らなかったというショックから、朝鮮語、朝鮮の歴史などを勉強する自主講座に入って勉強を始めました。当時色々な集会があり、それらに出て勉強するという日々がありました。

 1976年、私は孫さんの裁判の支援運動に入りましたが、1978年、孫振斗さんは最高裁で勝ちました。その後、韓国に住んでいて治療もなにも受けられない被爆者に孫さんの判決を波及していこうという考えで、私は当時すでにあった韓国の原爆被害者を救援する市民の会の世話人になりました。市民の会で韓国の被爆者の実態調査をすることが提起されました。実態調査は韓国の原爆被害者協会自身からも提起されました。この協会は、1967年、軍事独裁政権の厳しい時代の中でつくられました。日本政府に補償要求をするにしても、その基本となる被爆者の数などの実態を調査しようという動きが盛り上がりました。

■韓国の被爆者との初めての出会い■

 この実態調査のために、1979年冬、私は初めて韓国の地を踏みました。私にとって、孫さんの裁判に関わってから3年になりますが、私は孫さんと言葉を交わしたことは一度もなかったのです。さらに私が直接接する生身の在韓被爆者はいなかったのです。その期間は精神的に非常に苦しい時期でした。日本人としての朝鮮人に対する贖罪意識にとらわれていたのだと思います。頭の中だけで苦しんでいたのです。そのような中で、79年に初めて韓国に行った時、もう亡くなられましたが、辛泳洙さんという韓国原爆被害者協会をずっとリードしてこられた会長さんにお会いしました。79年といえば、韓国が非常に厳しい経済的な状態でしたが、辛さんに案内していただいて、何人もの被爆者のもとを訪ねました。

 被爆者には、なぜ日本に来るようになったのか、そして被爆して、その後韓国に帰ってきてどのような生活をしてきたのかというようなことをお聞きしました。日本語でしゃべれる方は日本語で話して下さいました。日本語がしゃべれない方は辛さんが通訳して下さいました。このように市民の会の人たちと数名の被爆者に会って、話を聞いたのが、私が初めて韓国の被爆者と出会った時です。当時、私たちが会った被爆者の生活状況は、家の状態を見ても一般の人の家よりも非常に悪かったのです。このような境遇の中で、涙を流しながら被爆者は自分の状況を語っていました。

 このような在韓被爆者に出会った体験から、なんとか被爆者にしなくてはいけないと思うようになりました。同じ被爆者なのに日本政府からまったく見捨てられて、ほとんど存在さえも知られていなかったのです。今まで頭の中で韓国の被爆者の問題を何とか理解しようと色々やってきたのです。しかし、辛泳洙さんが被爆者のために何をしなければならないのかということを私に話して下さったのです。私は実は辛さんの娘さんと同い年だったのです。そのような何も分からない私に辛さんは実に良く話して下さいました。それから20何年経って、私が在韓被爆者のことを続けているのは、このように会ったり、話しを聞いたことが大きな基礎になっているのだと思います。

 1979年夏、市民の会の若者5人の中の一人として私は再び韓国を訪れ、今度は大邱(テグ)市に行き、2週間かけて被爆者の実態調査をしました。大邱にある被爆者協会の役員に一緒について来ていただいて、この時は約150名の被爆者の実態調査をしました。私はこのように被爆者の話を聞くなかで、韓国語がもっとできるようになればもっと話しが聞けるであろうとその後、もっと韓国語を勉強しました。今、韓国語で被爆者の話を聞けるようになりましたが、そうすると被爆者の証言の内容が日本語の時と韓国語の時とでは相当違うことが分かりました。

 その後、辛さんたち在韓被爆者の代表の方たちと日本政府、特に外務省との交渉に行き、外務省側の在韓被爆者に対する見下した態度に、実に腹が立つことが何度もありました。かつての植民地支配がまだ続いているのではないかと思えるようなことを経験しました。

■『ヒロシマを持ちかえった人々』について■

 この本は一部と二部に分かれています。一部は韓国原爆被害者協会の闘いを軸に書きました。二部は「韓国の広島」と言われる、植民地の時代に広島に渡って行って原爆に会わざるを得なかった、非常にたくさんの人が出た村があるのです。現在、韓国で登録されている被爆者の半分が、その村―陜川(ハプチョン)の出身者ではないかと言われています。陜川から広島に渡ってきた人々の歴史を、植民地時代の資料にあたったり、聞き書きをしたりしてまとめました。韓国の原爆被害者協会は全国に支部が7つあるのですが、陜川支部が被爆者の数が一番多いのです。私が陜川を訪れたのは、1992年ごろでした。それまで私たち市民の会はここを訪れていませんでした。私はこの村を訪れて、植民地時代にこのような小さな村にまで日本人が来て、朝鮮人の田畑まで奪ったということを知って驚きました。これまで「植民地支配の結果、多くの朝鮮人が広島、長崎で被爆することになった」ということは言葉ではあるのですが、その実態を私自身もほとんど知らないし、今生きている年の若い韓国人被爆者も、韓国の被爆二世たちも知らない。このような状況になってきていることを、私としては調べて明らかにしたいと思いました。

 それからもう一つ、私自身が事実を知りたいと思ったのは、韓国の被爆者が「最低限日本人被爆者と一緒にしてほしい」と訴えをします。これは最低限の訴えです。日本人被爆者が1957年にできた原爆医療法以後、今の被爆者援護法まで援護措置を受けているにもかかわらず、当時、名前も変えさせられ、戦争に総動員され、同じ日本人として原爆に被爆した韓国人被爆者は、敗戦後、韓国に帰ってからは外国人ということで、いっさい被爆者援護は受けられない。これは差別であるという訴えです。しかし、私は韓国人被爆者は日本の植民地支配の結果被爆したのだから、日本人被爆者よりも何倍もの援護を受けるべきであろうと思いますが、韓国人被爆者は「日本政府が最低限日本人被爆者と同じ援護をしてほしい。そうすれば満足して死ねる」と言われる。私はこのような訴えを聞いても、植民地支配の実態を知らないし、朝鮮人として差別されてきた歴史も知らないのです。韓国人被爆者でも日本で生まれた人は、植民地朝鮮で何があったのかということをよく知らない。だから、私が出来る範囲で植民地支配の事実を記録に残しておきたいと考えたのです。韓国の被爆者が死んでしまうと歴史として何も残らないということを切実に感じ始めたのです。最近、ずっとつき合ってきた被爆者が、ばたばたと亡くなっています。

 私のこのような思いを本にして出版してくれるという出版社があったことも大事なことです。このような不況の中でです。こうして『ヒロシマを持ちかえった人々』が出来上がったのです。

(文責・笹本征男)


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