◇「被爆者援護法」の適用を求めて◇
郭貴勲裁判が切り拓いたもの
中島竜美

 2001年6月1日、大阪地裁806号法廷前はいつにも増して人でごったがえしていた。それでなくとも数の少ない傍聴席がこの日は判決ということで、中央の殆んどが記者席でしめられており、気ぜわしく立廻る若い裁判所職員の姿だけが目につく。

 平静を装いながら裁判官を迎える準備に余念のない書記の、どことなくぎこちない動作の端々に、かえって判決への緊張感が高まってくる。
 ふと27年前の孫振斗裁判・福岡地裁判決の日のことが頭をかすめる。裁判所の入口に仰々しく『ヘルメット、棍棒等の持込みを禁ず』の立看板が立てられていた時代のこと。

 当時大村に収容されていた原告の出廷が認められないまま開かれた法廷内は、限られた人数の支援者のみで、口をきくのもはばかるように森閑と静まり返っていた。思えばあの時も明るい期待は抱いていなかった。

 三浦裁判長の判決言い渡しは主文だけで終わった。簡潔な文言の中心にも完全勝訴をを確信させる内容であった。法廷の外へ出ると遠来の傍聴人に席を譲って廊下で待機していた地元支援者の渦の中に、満面のえみを浮かべた市場さんの顔が飛び込んでくる。

 紅潮した表情の郭さんと手を握り合った瞬間、それまで張りつめていた力がいっぺんに抜けていくようだった。この二年間というもの、郭さんは韓国と大阪の間を公判の度に往き来しながら正義を訴え続けてきた。 『朝、ソウルを出る時はまだ“被爆者”でなく、日本へ着くと“被爆者”になって、夕方韓国に帰ると又“被爆者”でなくなるとはどういうことですか』
 これまで何度も自分をファッション・モデルに見立てて、彼一流のユーモアを飛してきたが、まさにそこが今度の裁判のポイントだった。前の被爆者手帳の交付をめぐる孫振斗裁判は“被爆者”であることを認めさせるために最高裁まで7年余りかかった。

 その第二ラウンドともいうべき郭裁判では、その“被爆者”の証しである被爆者手帳(被爆者健康手帳)を持っていても、日本を出国すると失権する―つまり“被爆者”でなくなるからそれまで支給されていた健康管理手当も停止する―という国側の言い分に対してたたかってきたのである。

 在韓被爆者についていえば、1965年の日韓条約によって『一切解決済み』として、それ以降「手帳」交付を拒んできた国側に対して風穴をあけた孫裁判が“入り口”をめぐる争いだったとすれば、郭裁判は“出口”を塞ごうとする国側と争って大阪地裁で勝訴の判決を勝ちとったのだ。その間すでに三○年近い歳月が流れたが、今やひとり在韓被爆者だけの問題ではなく、これまで結びつきを深めてきた在米・在ブラジルの被爆者、さらには今後北朝鮮・中国在住被爆者を含む在外被爆者問題解決のための大きな成果であるといえよう。

■ 郭裁判の争点とその背景 ■

 先に郭裁判は孫裁判につぐ第二ラウンドとして争われたといったが、第一ラウンド孫裁判は最高裁での勝訴(1978年)によって専門医療機関で治療を受ける権利を獲得しただけでなく、現行法(当時の「原爆医療法」)が国の外から旧植民地被害者によって問題提起された結果、判決の中に『原爆被害をもたらした国の戦争責任』が初めて明らかになった。その後、現行二法(「原爆医療法」「同特別措置法」)の理念の見直しが必要となり、後の基本懇(被爆者対策基本問題懇談会)の成立に至ったのである。

 この段階で国が在韓被爆者を含む在外被爆者問題にきちんと取組んでいたならば、郭裁判はいらなかっただろう。しかし、国が行った被爆者対策への政治決着は日韓(在外)被爆者の分断策だったのである。その実情についてくわしくはふれないが、五年間の〈渡日治療〉が終わってみれば、再び無権利状態になった在韓被爆者は、怒りをこめて23億ドルの「補償要求」を日本政府につきつけた(1987年)。

 後にそれが日韓首脳会談(1990年)での“人道的治療基金”という名の「40億円」拠出に形を変えてしまった。しかもその後の保証は何もない。

 この間一貫して国が在韓被爆者にとってきたものは限られた枠内での“治療支援”に過ぎず“個人補償”につながるものは一切さけてきたことが分かる。

 そうした傾向は立場は違うが在米・在ブラジルの被爆者についても同じことがいえる。

 70年代と80年代とその開始時期に違いがあるが、当事者から度重なる要請を受けて国側(広島・長崎両県を含む)が行ってきたのは一年置きの“医師団派遣”に過ぎない。  

 日本国内での被爆者施策の経緯から見ると、北米・南米については「原爆医療法」の“健康診断”のみ。他に民間基金による“里帰り治療”が年間数名ずつ行われているようだが、国側に被爆者補償の姿勢はまったくみられない。 

 実は以前郭裁判につながる法律相談を東京の椎名弁護士が来日中のブラジル被爆者・森田隆、森田綾子夫妻から受けていた(93年会報14号2頁、椎名さんの記事参照)。その時は在外被爆者が現行法の適用を求めるにはどうしたらいいかという全般的な話だったようだが、森田隆さん自身裁判への取組みも覚悟されていたという。その後、東京で椎名さんを中心に少数の弁護士グループによる勉強会があり、私も何度か参加させて貰った。丁度在京中の辛泳洙さんが原爆症の認定をとった直後であり、辛さんもまじえて「特別医療手当」のソウル送金もケース・スタディの一つとして話題にのぼった。

 その頃、辛さんは東京の三男宅に同居していたが、韓国で数人という「原爆症認定」患者のケースでは、運動として取上げるには全体の理解が得られないだろうということになった。

 この問題はやがて椎名さんから田村和之さん(広島大学)へ伝わり、当地の研究会ではその後論議を重ねてきたという経緯がある。

 こうみてくると戦後放置されたままになってきた在外被爆者が連帯するきざしは、すでに「被爆者援護法」成立以前からあって、郭裁判の証人にアメリカの倉本寛司さんとブラジルの森田隆さんが出廷したのも、それなりの必然性があったように思えてくる。

 ところで郭裁判で問題となった日本出国による「手当」打切りの根拠とされた例の局長通達(1974年・402号)は、孫裁判第一審・福岡地裁判決直後に出されたものだ。

 丁度招請治療のケロイド手術を受けていた辛泳洙さんが、入院先の病院から東京都に「手帳」申請を行った日(7月22日)に通達が出されているのも偶然とは思えない。第一審の敗訴によって外堀(「手帳」交付)が埋まることを覚悟したのか、内堀(「手当」支給)の守りと同時に“被爆者の地位”を無効にする算段が働いたと思われる。しかし、大阪地裁判決は「手帳」申請時に必要な居住条件(居住地又は現在地)は認めても、「手帳」取得によって発生した“被爆者の地位”に居住条件は関係なしとした。『日本国の領域を越えて居住地を移した被爆者には同法(特別措置法)の適用はないと解される』(通達402号)という国側の主張はそのためしりぞけられたのである。

 ここで問題となるのは、国側が孫裁判を通じて現行法(当時の原爆二法)の主旨を“地域福祉論”として展開してきたことだ。それが後の最高裁判決をへて現行の「被爆者援護法」になってどう変わったのか。郭裁判に現れた国側の主張をみる限り『国家補償的配慮が制度の根底にある』との指摘はどうなったのか疑わざるを得ない。
 また、国側が現行「被爆者援護法」の国会審議で行った局長答弁を取上げ、「手当」支給について『我が国の主権の及ばない外国において日本の国内法である新法を適用することはできない』とするいわゆる“立法者意志”を主張したのに対し、判決では『国会における答弁等を過大視することは許されず、これは、あくまで解釈の参考資料として位置づけられるにすぎない』としている。さらに国側はこれまで“医療”と“手当”は制度上不可分であるとしてきたのを判決では『「被爆者」たる地位に基く権利は医療給付の受給に尽きるものではないから、医療が受けられない(注・出国により)との一事をもって「被爆者」たる地位が失われることにはならない』とした。

 このことは事実は異なるが、国内でも治療不可能な例えば「原爆小頭症」に関して同様な論議があった。その時も国は病名を変更して治療を前提として「手当」支給の建前をくずすことはなかった。

 このように「手当」が独り歩きすることを認めようとしない国の姿勢には、被爆者を戦争被害者としてではなく、あくまでも放射線被害者として公衆衛生行政の枠内に閉じこめておこうとする意図がうかがえるのである。

■ おわりに ■

 大阪地裁判決後、国側は控訴手続を進める一方で、在外被爆者問題の見直しをはかるとして厚生労働大臣の呼びかけで「検討会」が設置されることになった(2001年8月1日・第1回開催)。裁判の控訴と「検討会」設置とはどのような関係になっているのであろうか。

 被爆者援護法についてはこれまであらゆる面で運用行政がまかり通ってきた。旧原爆二法時代、日韓条約締結後一切「手帳」交付を行わなくなったのは、明らかに政治的意図であったというほかはない。それだけに1974年7月、美濃部東京都知事が国に逆らって前述の辛泳洙さんに「手帳」を交付したことは一大事件となった。そこでの例の402号通達は重なってくる。

 しかし、そうした小手先の問題ではなく、後の最高裁判決によって内外被爆者を含めた全被爆者の援護対策が見直されるべきであった。

 それが基本懇の論議をへて提出された意見書(1980年12月)には、孫振斗の名も在韓被爆者の文言もなく、もっぱら国内対策として新たに「国民受忍論」を打ち出したのである。

 その後成立した新法「被爆者援護法」(1994年12月)が、今度の大阪地裁判決によって再び問われていることを考えると、国がこれまで在韓を含む在外被爆者を放置してきた責任はまぬがれない。すでにつくられてしまった内外被爆者格差をどう埋めるつもりなのか。 

 各国に散在する被爆者にどのように手をさしのべるのか。課題は山積したまま残されている。


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