在外被爆者の援護問題に関する初の国会議員への説明懇談会

 二○○○年十一月十三日、初の「在外被爆者の援護問題に関する国会議員への説明懇談会」が、衆議院第一議員会館会議室で開かれました。この説明懇談会は、韓国の原爆被害者を救援する市民の会、在韓被爆者問題市民会議、韓国原爆被害者協会、米国原爆被爆者協会、在ブラジル原爆被爆者協会、日本原水爆被害者団体協議会が呼びかけ人となりました。海外から、韓国、アメリカ、ブラジルの被爆者協会の代表など被爆者六人、さらに国会議員十三人、議員秘書九人、合計七十人の参加者がありました。

〜海外代表と国会議員との初の懇談会〜

(鈴木賢士氏撮影)

在外被爆者代表の訴え

■郭貴勲(カク・キフン)さん■

 私は現在、大阪地裁で裁判を係争中です。私は二十一歳の時に広島で被爆しました。今年七十七歳です。このような問題は、二○○○年までに切りを付けて、その後はこういう話をしないつもりでしたが、いつまでこういう話をしなければいけないのか、心寂しく思っております。私は裁判をする前に韓国の友人の法律家に相談をしました。彼は「法律にないことで、なんでそのような裁判をするのか。韓国では裁判をする必要がない」と言われました。

 私は裁判でも二回も言いましたが、「私はファッションモデルだ」と。というのは、私が朝、韓国の家を出るときには、被爆者ではありません。しかし、昼、大阪に着いて被爆者の登録をすると、被爆者になります。裁判が四時に終わって関西空港を出ると被爆者ではなくなります。朝は被爆者ではない、昼には被爆者、夕方には被爆者ではない、ということです。これはファッションモデルです。原爆被爆者のための健康管理手当が、ファッションモデルではおかしくありませんか。絵に描いた餅なのです。

 ここに私が裁判で陳述した証言記録が、小冊子(『被爆者が被爆者でなくされるとき在韓被爆者 郭貴勲さんの「被爆援護法裁判」陳述書を読む』、編集・発行 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、二○○○年十一月)になっています。ここにも記したことですが、私は日本軍に徴兵されて、広島で被爆して、九死に一生を得て韓国に帰りました。それから五十六年、被爆者として今まで日本から恩恵を受けたことはありません。

 厚生省が局長通達を出したのが、一九七四年七月二十二日です。この日は元の韓国原爆被害者協会の会長さんの辛泳洙(シン・ヨンス)さんが、日本に来た時、東京都に原爆被爆者手帳を申請した日なのです。この日に厚生省が通達を出したのです。だから、韓国人を差別するために作った通達なのです。昨年の夏の広島で、本当に、私達韓国人被爆者のためにと、アメリカ、ブラジルの被爆者にお詫び申し上げたことがあります。

 裁判に勝てるかどうか分かりませんが、話は簡単なのです。通達は「二十六年もたったのだから、無効だ、通達はやめ」と言えばいいのです。そうすれば、明日からアメリカの被爆者もブラジルの被爆者も韓国の被爆者も対等の待遇を受けられるのです。

 どうか、国会議員の皆様、永田町が変わらないと日本の政治は、絶対に変わらないと思います。皆様、在外被爆者のために何かをしようという気持ちになっていただければ、変わるとおもいます。どうぞよろしくお願いします。

■李康寧(イ・ガンニョン)さん■

 私も現在、長崎地裁で在外被爆者の健康管理手当の打ち切り処分に対して裁判を継続中です。私は日本の北九州で生まれ、北九州で育ち、学校を卒業した年に長崎に徴用されました。私は名字も日本の国家が行った創氏改名で「木村安」という日本人になって、徴用令状を受けて、戦争遂行のために軍需工場に行きました。それが戦争が終わる直前、原子爆弾を受けて、運良く生き延び、帰国しました。

 その後、昭和五十六年に日本を戦後初めて訪れ、長崎市から原爆被爆者手帳を受けました。平成六年に体の異常で長崎の病院に入院している時に、長崎市から平成六年から九年まで健康管理手当を受けるという証書を貰いました。この時、韓国人の私に日本国は健康管理手当をくれて、まともな国だと思いました。

 三カ月の治療を終えるまで手当を受領しました。韓国に戻って半年ぐらい経って、銀行に連絡したら、手当の入金がされていないのです。長崎市に電話をしたら、「あなたは三カ月で韓国に戻っているから、失効されている」と言うのです。私は「失効」という事態も前もって日本政府から聞いていませんでした。前もって日本にいる時に聞いていれば、理解していたかも知れません。私は何にも聞いていないまま、三年間支給するという証書をありがたく持ち帰っていたのです。

 その後、有効期間がもう一年ある、平成八年に長崎市長に要請書を出したのです。要望書は長崎市から厚生省に行きまして、一年八カ月かかって私の要望書に対する答えが出たのです。却下です。私は昨年の五月、この不当を長崎の裁判所に提訴したのです。来月の十二月が八回目の裁判です。

 今日、ここに立法府にいる皆様に、二十世紀のうちに私達の願いがかなうように、厚生省の局長通達をなくするように、よろしくお願いします。

■李鳳儀(イ・ボンウイ)さん■

 私は韓国原爆被害者協会会長の李鳳儀です。同じ被爆者でありながら、在外の被爆者を差別して、苦しめてきた日本政府に対して思い切って話しをしたいと思っています。国会議員の皆様も力になって下さい。

 韓国に被爆者がたくさんいるというのは、日本が朝鮮を植民地にした結果です。私は一九四四年九月に学徒兵として、東京から広島の工兵隊に徴兵され、原爆に被爆しました。私の所属していた中隊では、生き残った者が三、四十名しかいなかったのです。私は兵舎の下敷きになったが、助かりました。

 戦後韓国に帰った被爆者は、現在、協会に登録している者が、二三○○人ぐらいです。毎年、七、八十名が亡くなっています。このような中で、三十年あまり前の厚生省の局長の通達で在外被爆者に援護法が適用されない状況があるのです。通達でも法律でもその時代に合わなかったら、改正するとか廃止することができる。国際信用上も日本も人間的な施策を行うことが当然だと思います。

■友沢光男さん■

 私は米国原爆被爆者協会会長の友沢光男です。諸先生方は御存じのように、私達海外被爆者は日本国外に出ると、被爆者手帳が失効になります。私が思うのには、厚生省はどのような被爆者であっても、国外に出た場合には、援護法は適用しないと言われるのに、なぜ、失効という手続きを取らなければいけないのか、ということが腑に落ちないのです。この点では、そういうことをすると県は市の職員の人件費が重なりますし、私達被爆者もわざわざ県や市に行って再交付を受けなければなりません。また、入国して目的地、例えば、長崎、広島に着く前に病気になった場合には、どうするのでしょうか。このような場合、厚生省は医療費などの費用は、三カ月後に払い戻すと言いますが、そのような余分な金を持って来る被爆者はあまりいません。例え、三カ月後に払い戻されても、日本にいる間に重なる費用を払うことはできません。

 手帳の再交付の時に、パスポートで入国の日を調べられます。そして出国の時に市や県の方に連絡しないと、厚生省は私達海外被爆者が「滞在地にいるかどうか」ということを調べろと指示しています。それならば、在日被爆者が海外に赴任したり、家族が一カ月以上の海外旅行に行く場合、どうして県や市はその人達の出国や入国を調べないのでしょうか。これは明らかに差別です。
 局長通達によって、日本を出国した場合には、被爆者として失権になるといいますが、それでは何故在外に住んでいる軍人達が、年金を支給されているのでしょうか。そうであれば、なぜ在外の被爆者が健康管理手当などの支給を受けられないのでしょうか。私達海外にいる被爆者達は、戦争中はこの軍人達と同じように日本国のために、一生懸命に働き、尽くしてきました。肉親や友人達を失いました。その後、五十五年たった現在でも心理的にも身体的にも後遺症を負って苦しんでいる被爆者が、たくさんいます。
 国の法律を定めるのは、国会議員の諸先生方だと、私は教わりました。国会議員でなかった、元厚生省の局長の通達によって、現在たくさんの海外被爆者は苦しんでいます。このように差別され、苦しんでいる被爆者を、救うことができるように、国会で法律を定めて欲しいと思います。

 日本国は外国の人々に億円以上の寄付をしております。それができる日本国であるならば、日本国民を含む海外被爆者を助けて下さらないのでしょうか。このことを海外の日系人にビラを送って来て、我が党は皆の党であるといっている自民党の議員の方に特にお願いしたいと思います。

■森田隆さん■

 私は南米からまいりました在ブラジル被爆者協会会長の森田隆です。戦後、南米には200人あまりの被爆者が渡りました。今、被爆者は日本からの援護を心待ちに待っております。実は、今回、日本に来る一週間前に第九次の南米巡回医師団が南米に来ました。巡回医師団は二年に一回、厚生省、外務省、広島県、長崎県四者の共同事業として参っております。ブラジルにいる百六十名の被爆者は、年々、健康診断を受ける者が減っています。今回はわずか六十三名が健診を受けました。これがもしも内地の被爆者と同じように、健康管理手当でも出れば、被爆者は喜び勇んで参ります。ブラジルは日本の二十二倍の大きさがあります。サンパウロ州の中に日本が納まります。その広い範囲に散らばっています被爆者が、サンパウロの検査場に来るということは、本当に不可解です。今回、医師団の人達が「こんなに少なくなったのでは、医師団派遣は中止になるかもわからないぞ」と言うのを聞きまして、私は本当に残念に思っております。

 私達南米被爆者にとっては、この二年に一度の医師団派遣が、一つの救いなのです。被爆者が二年に一回会って、二年前のことを語り合うのが、一つの救いになっております。さらにこの二年間に二十名近い人達が亡くなっております。このようなことをご理解していただいて、一つの厚生省衛生局長の通達によって、このように淋しい思いをしていることを知って欲しいと思います。

 私達南米の被爆者は、全部日本人です。日本に来れば、このように皆さんと同じように被爆者手帳を貰っております。手帳の裏に「滞在予定期間」というゴム印が押されています。私は日本人です。日本にいくらいてもいいはずです。しかし、いつまで日本にいるのだ、というゴム印がなければ、この手帳が頂けません。そして、一日いて日本を出たら手帳の効果はありません。

 医師団が診察して、ある被爆者を日本に呼んで原爆病院で一カ月の治療を受けさせるという恩典がありますが、一年に三名です。日本で治療を受けて、健康管理手当の証書を貰います。ここにある証書は平成十一年から五年間出るとあります。しかし、これは日本を一歩出ると無効です。これを貰った被爆者は、ブラジルに帰って私に訴えます。「森田さん、どうしてこんなものを出してくれるのか。貰えないものなら出してくれるな」と言います。

 これが現実になっていることを、先生方どうかよく御承知しておいていただきたいて、老齢化している人達を、どうか助けてあげて下さい。心からお願い申し上げます。

■森田綾子さん■

 私は森田隆の妻で、在ブラジル被爆者協会の事務局長をやっています。今、ブラジルでもNHKの放送が入ります。先日、午前中、放送を聞いておりましたら、ドイツからの報道で、ドイツは戦争中に被害を受けた全ての国民に補償をするということを発表しました。このことに私はすごく感動しました。私達も国の奨励で海外に出ましたから、私達は被爆者ですが、どうかドイツのような暖かな気持ちで、私達にしていただけたら嬉しいとドイツの話にすごく感動しました。

国会議員の発言

■金子哲夫(社民党)さん■

 私は社民党の金子哲夫です。今年の六月の選挙で当選しました。私は広島におりまして、原水禁の事務局をやっておりました。被爆者問題、反核問題をやってきて、それを国会の場で実現したいという思いで議員になりました。

■斉藤鉄夫(公明党)さん■

 私は公明党の斉藤鉄夫です。私も在外被爆者問題には関心があり、二年前には森田さん、郭さんたちと当時の官房長官に会いに行きました。その時はなんとかなるのではないかという感触でしたが、在外被爆者問題はなかなか難しいことを痛感しています。しかし、公明党でも現在厚生省総括政務次官を出しています。私もその政務次官に要請をしていますので、党としても頑張って行きたいと思っています。

 私は皆様のお話をお伺いし、孫振斗最高裁判決の「国家補償的配慮」という言葉と今度の被爆者援護法の「国の責任」と言う二つの言葉から考えていけば、在外被爆者にも適用しなければならないという結論になると思います。先ほど今井議員もお話になりましたけども、議員懇談会のようなものを作っていきたい。そして自民党の議員さんの中にも非常に理解のある方がいらっしゃると思いますので、その議員さんには私の方から話しをして、懇談会に入ってもらって超党派の議員懇談会を作ってねばり強くやっていきたいと思っています。

■中川智子さん■

 私は社民党の中川智子です。今日は本当に遠い所から有り難うございました。私も今日司会をしています市場淳子さんと出会って、身近な問題として国会の中で私なりに懸命に取り組んできたつもりですが、国会の厚生委員会で質問をしても、がっかりするような答弁ばかりが繰り返されています。二十世紀中の問題は二十世紀のうちに、と言いながら、在外被爆者の方々の問題をそのまま置いておくということは、この国の政策が大変な人々を切り捨てていくとことにつながっていくと、私は強い怒りを持っております。今日は民主党さんから公明党さんまで出席していますので、この問題は超党派で取り組んでいきたいと思います。通達一つで、全く法律の根拠がないのに、日本から外に出たら被爆者手帳が失効してしまうというのは、あまりにも理不尽なことです。やはり、きっちりとした立法府での対応が求められていますので、出来ることは一生懸命にやりたいと思います。

■葉山峻さん■

 私は民主党の葉山峻です。私は衆議院議員になる前は、二十数年間、神奈川県の藤沢市の市長をしておりました。そして非核自治体協議会というものを作りました。核兵器が使用されると一瞬にして二十万人、三十万人という人命が奪われます。原爆投下から五十五年経っても後遺症は消えることはないということは恐ろしいことです。人類の敵である核兵器の廃絶のために、私達は努力しなければいけない。同時に、広島、長崎で被爆された人達の問題は第一に優先させなければいけないと考え、一緒に行動しなければならないという気持ちを持っております。

■田中甲さん■

 私は民主党の衆議院議員の田中甲です。私は日本の戦前、戦中、戦後における事実を明らかにすべしという事実究明法案を、第一四五、一四六、一四七国会に提出する手伝いをしてきました。今国会でも民主党、社民党、共産党などと法案を提出する予定です。その中で、被爆者を救援していく法律というものが、いまだに十分に対応がなされていないことを強く感じています。私事ですが、ムルロワ環礁で核実験をするフランスにムルロワまで行って抗議し、フランス軍から身柄を拘束されました。中国では直接、江沢民氏に核保有国と非核国とが共に行動しようと訴えたこともあります。法的に不備のある現状を改善してくために、私も微力ですが、皆様のお話をお聞きしながら、立法府の中で対応していきたいと考えています。

■宇田川芳雄さん■

 私は衆議院の新しい会派の二一世紀クラブの宇田川芳雄です。私は二十数年間、東京都議会議員であった関係で、東京都の被爆者団体の東友会の皆様と連携を取りながら、被爆者問題に取り組んでまいりました。地元の江戸川区には親江会という被爆者の会がありまして、今日お手伝いなさっている銀林さんが、私の地元です。銀林さんからいろいろ教えていただきながら、被爆者問題を勉強しています。韓国に被爆者がいるということは知っていましたが、ブラジルにも被爆者がいるということは知りませんでした。森田さんはサンパウロですか。そうですか。東京都とサンパウロ市は姉妹都市提携を結んでいます。その関係で私はサンパウロに行っておりますが、原爆被爆者のことは聞きませんでした。今日、ここでお伺いできまして、思いを新たにしております。どうか、サンパウロの皆様によろしくお伝え下さい。被爆者の皆様のご活躍と、それと合い呼応して私達も出来る限りのことをしたいと思っています。

■今井澄さん■

 私は民主党の今井澄です。私も前から在外被爆者問題について、お話をうかがっていましたので、議員の方でも懇談会でも作って、ねばり強く取り組まないといけないと思います。日本は役人国家でして、役人を相手に何かをするのは大変なのですが、議員たちと話し合って懇談会を作るように頑張りたいと思います。

■家西悟さん■

 私は民主党の衆議院議員の家西悟です。薬害エイズを御存じでしょうか。私はアメリカから輸入された血液製剤でHIV(エイズ)に感染した患者です。日本の国、厚生省が認可した薬、安全だと言われた薬を使ってエイズに感染した被害者です。そして八十三年からこの運動に関わって、八十九年に裁判を起こしました。九十六年に和解が成立したのです。私は国を相手に裁判をした側の人間です。国は無責任きわまりないとして闘った側です。そして、今日お話を伺って、在外被爆者が国内の被爆者と同じように救済を受けられないのは、不条理だと思います。なぜ、同じように扱わないのか。人を人として扱っていないのではないかという思いがあります。私自身も被害を受けた時、人としてあつかわれたのかという思いがすごくありました。

 そして日本政府というものが、私達を人として扱ってこなかったということが見えました。それで非常に憤りを覚えて裁判をしたという想い出があります。皆さん、韓国、ブラジル、アメリカから遠路来ていただいて、この場でどうこうということをお答えできないのは、非常に残念ですが、ねばり強くやるしかないと思います。一歩ずつ、一歩ずつかも知れないが、時間という制約があります。私もそうですが、私が幼い頃よく知っていた友達が多く亡くなりました。日本でだいたい二○○○人の血友病の患者が感染し、すでに五○○人以上が亡くなりました。そのような時間の制約があったので、裁判で和解したのです。私は、皆さんと同じように、日本自体がきらいではない。その一部の者に対して怒りを覚えると先ほど言われたことは、よく分かります。私は当時の橋本総理に対して、「我々は受けたことに対して、石に刻んで生きているのだ」と訴えたことがあります。皆さんのお気持ちは、変わらないと思いますが、本当に自分に出来ること、一歩すつですけども、皆さんと連帯し、今日、出席された議員の方々と議員懇談会が出来るのならば、一緒にやりたいと思っています。

■大島令子さん■

 私は今年の六月に愛知県で当選しました、社民党の衆議院議員の大島令子です。愛知は戦争の時、いろいろと軍需工場がありまして、原爆とは違う意味の戦争犠牲があります。それから従軍慰安婦問題に議員になる前から関わってまいりました。被爆者援護法のひどい部分、裁判の経過を読ませて頂きまして、国が起こした戦争の責任を国が取らないで、都合のいいように国と個人を分けているということを感じました。森田綾さんが言われた、ドイツは戦争に対する責任を国がすべて取るということを私もニュースで知りまして、日本という国はなんという国かと思います。愛知では民間の戦争犠牲者に対する援護法を要求する運動を、杉山さんたちがやっていますが、私も関わっています。被害者の方々は高齢になられるので、急がなければならないということを、皆様のお話を伺って感じました。今日、社民党の先輩議員も見えていますので、私も頑張りたいと思います。

■阿部知子さん■

 私は社民党の阿部知子です。私は医者でして、学生時代に孫振斗さんの被爆問題の支援の取組をしておりました。そして、そのことが逆にこんなに年月が経ったのに、孫さんが最高裁で勝って、国が負けたことをきっかけに厚生省が姑息な通達を出して、今日まで在外の被爆者が、これは国籍を問わず、在外にいたら補償しないとしていることなのです。私も大島さんと同じで最近の当選ですから、国会の場に来て、自分が何十年か前にやっていたことが、まだ結実していないことを、今日のお話でも強く感じました。私は金田誠一議員や瀬古由起子議員と厚生委員をやっています。この間、いろいろな医療法の改正の中で、日本人が外国で医療を受けても国民保健法は適用されるという改正が行われました。在外被爆者の問題は、戦争の国家責任の問題ですから、きちんと国に戦争責任を認めさせることが大事です。今井議員も言われたように、全議員の取組で被爆者援護法を充実させることを二十世紀のうちにやらなくてはいけないと思います。多くの方がご高齢になっています。私も皆さんと力を合わせて、日本の国をまっとうにしていきたいと思います。

■瀬古由起子さん■

 私は日本共産党の衆議院議員の瀬古由起子です。私は日本共産党の戦後処理委員会の委員で、この問題に取り組んでいます。私も他党の皆さんと共同してやりたいと思っていますが、内外問わずに戦争の犠牲者に対して補償していくという法律を作ろうと準備しています。被爆者の問題に対する政府の姿勢を、皆さんも骨身に沁みて感じておられると思います。政府のガードはかなり厳しくて、日本に住む被爆者でも、ここまでの被爆地域では被爆者としては認めないというように姿勢は固いのです。長崎の被爆者の松谷さんの場合でも、最高裁まで争わなければいけない。被害者が裁判をやらなければ国が責任を認めないということを、本当に変えなければいけないと思います。一刻もはやく被爆者の問題を解決することが、二度と被爆者を出さないという私達の、二十一世紀への世界の人々へのアピールにもなり、自分達の決意にもなっていくと思います。その意味で多くの議員さんと一緒に皆さんの願いが実現するように頑張っていきたいと思います。

■金田誠一さん■

 私は民主党の金田誠一です。私は厚生委員会に所属しています。この委員会に所属してから、この国はなんという国なのか、という思いが強くします。ヤコブ問題、薬害エイズ問題もありました。これらについて役所はなんらの反省もしていない。薬害エイズは誰が見ても厚生省に非があるのですが、今日でも厚生省は非を認めていないということを感じさせられます。私は、今、二年前に廃止されたライ予防法のもとで強制隔離された患者さんたちが、国家補償を求めて裁判を提起している問題に関わっています。このような中で、皆様の問題が発生していると思いますが、それは皆様だけの問題だけではなく、この国のありかたを変えていく闘いであると思います。皆様のお顔を拝見して、勇気づけられる思いです。皆様と心を一つにして頑張っていきたいと思います。

 在外被爆者の訴えと、それを聞いた国会議員の発言をまとめました。今後、在外被爆社問題をめぐる議員懇談会が作られることを期待したいと思います。

(文責―笹本征男)

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