「韓国のヒロシマ」(銀座ニコンサロン)
「韓国のヒロシマ・ナガサキ」(長崎新聞文化ホール)
――二つの写真展を終えて――
フォトジャーナリスト 鈴木 賢士 
(在韓被爆者問題市民会議会員)

 郭貴勲さんは証人席で立ち上がり、スーツ、ネクタイを脱ぎ、ワイシャツの前を開けて、胸のケロイドを、裁判官や被告代理人に向かって見せつけ、「もっと酷い背中もお見せしましょうか」
 裁判長 「いや結構です。ご苦労様でした。どうぞ服を着てください」 法廷は、しーんと静まり返りました。何者にも有無を言わせぬ衝撃的な一瞬でした 弁護団からは、さらに広島に徴兵された当時の「軍隊手帳」、戦後の「復員命令書」、「原爆罹災証明書」なども提示されました。 郭貴勲さんの第十二回口頭弁論は七月十四日、原告の陳述、尋問として行なわれ、韓国原爆被害者協会の崔日出会長、朴栄杓ソウル支部長のほか、中島竜美さんなど全国から一三数名が傍聴に駆けつけました。この日郭さんが提出した陳述書はA4判に五四字詰、六一行びっしり十二枚、原稿用紙なら約100枚近い大論文でした。
 一九二四年貧農の子として全羅北道の山奥に生まれ、小学校から「日本語」を「国語」として詰め込まれ、師範学校では徹底した皇国臣民化教育を受けたこと、毎日東方遥拝と奉安殿礼拝をさせられ、三年生の時、太平洋戦争開始後は、ついに創氏改名により「松山忠弘」という日本名に変えさせられたが、どんなに成績が良くても韓国人には、いわれのない差別、迫害、虐待の日々。五年生で徴兵検査を受け甲種合格となり、満州国境近い羅南の部隊からいきなり貨車に積み込まれ釜山から広島へ連れて行かれた。そもそも、植民地愚民化政策から、大半の子弟は学校にもゆけず、7〜8割は文盲で日本語もほとんど知らなかったので、徴兵に狩り出された広島の軍隊でも朝鮮人は尚更、事あるごとに殴られ蹴られた。師範学校出身の私は幹部候補生だったが、こんな同胞の苦痛に為す術もなく断腸の思いであった。 以下陳述は運命の日へ……
 部隊に自殺者も出たことから、流石にその後は朝鮮人への虐待も幾分弱まり、私も1945年7月突然与えられた休暇で帰郷して、広島に戻ったところ、部隊長が驚いた、逃亡したものと思ったらしい。逃亡していれば被爆は無かったのだが::ほかのものは他所へ動員されていたが、模範幹部候補生の私は残って銃でも磨いておれと言われた、しかし一人残るのが嫌で、頼んで8月5日から、皆のいる白島の工兵隊に合流した、こちらは爆心地から2km、本隊の中国第104部隊は約500mだから、もし残っていれば恐らく命はなかった……人生何が禍し何が幸いするか解からない。
 地獄の業火のなかで、全身に火傷をしながらも九死に一生を得、陸軍病院大野分院で、周りの兵隊が次々と死んでいくなか、敗戦を迎える。祖国解放の喜びに嬉し涙が止まらない。一方日本人兵士も拳で床板を叩きながら泣き叫ぶが、その言葉は何と! 「総ての占領地を手放しても、朝鮮半島だけは手放せない。穀倉の朝鮮がなければ日本民族は餓死してしまう」とは何と言う言い種! 憤怒が爆発しそうだ。呻き苦しむ患者たちに対して「貴様らが犯した罪の当然の報いだ、死んで仕舞うがいい」と叫びたい思い。独立した祖国建設のため生きて帰る。……再建への道は茨であった。帰国した朝鮮人被爆者たちを待ち受けていたのは新たな地獄であった。(ここでその惨状の一端として姜大先氏と柳春成氏のことが語られる)文禄慶長の役、日韓併合での恣なる蹂躙と略奪、殺戮など思えば日本人よりまず在韓被爆者の、援護でなく補償あるのみ、孫振斗最高裁判決が「国家補償的配慮」というなら、せめてその「被爆者援護法」だけでも真っ当に適用されなければならない!