第12回口頭弁論での原告本人尋問にあたって、あらかじめ郭さんは分厚い陳述書を裁判所に提出した。 以下は、そのなかからの簡単な抜粋です。
(まとめ責・石川逸子)
第一 植民地統治下での日々と原爆被爆
一、植民地統治下で受けた皇国臣民化教育
わたしは、1924年全羅北道任実郡屯南面(当時)の山奥の酒泉里という小さな村で生まれました。わたしが生まれたときには、韓国はもう日本の植民地になっていて、韓国の土地の8割は、日本人か東洋拓殖会社という日本の国策会社が地主でした。
わたしの家は貧しい小作農でした。広い田畑もない山村だったので、うちの地主は韓国人だったが、広い田畑の広がる全北平野に行けば、そこの地主はたいてい日本人でした。
わたしは、まず「書堂(ソダン)」に3年間通って漢文・漢詩を学び、それから簡易学校に2年行ってから屯南面の6年生の普通学校の4年生に編入しました。
普通学校では、生徒たちに朝鮮語を使わせないために、「国語奨励」という意味の「国奨」と書かれた丸いカードをもらいました。月曜日の朝に20枚ほどのカードを配り、友達同士で話している時でも朝鮮語を使ったら、そのカードが一枚ずつ取り上げられます。そして土曜日に何枚のカードが残っているか、先生が調べ、カードの少ない生徒は罰として便所掃除をさせられたり、たたかれたりしました。
普通学校5年生のときに中日戦争が起きました。わたしたち韓国人の子どもも、日本軍人を乗せた列車が通るたびに駅まで出て、「天に代わりて不義を撃つ」と歌って、出征軍人を送りだしていました。
子どものころは、自分の国が日本の植民地になっているということがどういうことなのか、考えたこともなかったし、日本語を習うのも当たり前のことして受け入れていました。
普通学校卒業後、全州師範学校に入学しました。1学年100名の学生中、日本人は八名、92人は韓国人でした。
師範学校では徹底した皇国臣民化教育を受けました。韓国人であることは完全に否定されました。1年生から軍事訓練、2年生から朝鮮語の授業は一切なくなりました。毎日、奉安殿を拝み、東方遥拝、二宮金次郎の像にも頭を下げていました。3年生のときに太平洋戦争が勃発しました。創氏改名で「松山忠弘」という日本名に変えさせられました。にもかかわらず、韓国人ゆえの露骨な迫害を受けました。教師から「お前は人相が悪い」と言われてなぐられたこともありました。
師範学校に入ったころというのは、ぼつぼつ世の中のことがわかるようになってきていました。ひと言でいえば、日本の植民地支配下にわたしたちがいるという事実がわかったのです。
言いたいことを言えないのは勿論、へたな日本語ですべての感情や意思を表現しなければならないということ自体、民族の悲劇であり、民族固有の文化、歴史、伝統を一朝にして消してしまおうとする同化政策を強力に推進していく渦巻きのなかにわたしがいるという事実を発見したのです。すなわち、わたしは卒業したら小学校の先生になり、なにも知らない農村の純粋な子らを皇国臣民に育て上げる仕事を担うという、恐ろしい罪悪の一端を担う者としての自分を発見し、身震いを感じたのでした。
師範学校2、3年生のころから、わたしは民族意識が次第に強くなっていきました。韓国人だからと押さえつけられれば押さえつけられるほど、なにくそという思いを強くしました。しかし、表面的には日本人よりも優秀な日本人になりました。そうしないと生きていけない時代だったのです。ちょっとでも怪しいなと思われ、こっちへ来いと言われれば、それで一生茨の道です。
こういう時期に創氏改名が断行されたのです。わたしは3年生のときに肺浸潤で休学したので、同期生が4回生と5回生の2期にわたっているのですが、4回生は韓国名で呼ばなくてはわからないし、5回生は創氏改名後の日本名で呼ばないとわかりません。解放後、戸籍を原状回復、もとの姓に戻りましたが、現在も年よりがお互いに日本式の名前でないと通じないということはどれほど恥ずかしいことでしょうか。
二、徴兵制適用の第一期生として広島に徴兵
わたしが四年生になったときに朝鮮人への徴兵制の適用が決定し、満20歳に達した朝鮮人青年に徴兵令状が送られることになりました。その結果、わたしは、徴兵第一期生として日本軍に徴兵されることになったのです。
1944年5月の末ごろ、わたしは甲種合格となって「西部第2部隊要員として羅南の部隊に入隊を命ず」という召集令状を八月に受け取りました。
この一片の赤紙がわたしを原爆と因縁つけたきっかけとなったのです。
広島に送られ、始めて日本の土を踏んだとき、わたしの心境は「だまされた」「くやしい」の気持ちで一杯でした。どうしてかといえば、朝鮮では総督府が「内鮮一体」「一視同仁」と言って、日本人も朝鮮人も差別のない政策をおこなっているといっていましたのに、日本に来てみると、日本人のほうがはるかにいい暮らしをしていたからです。まず兵営が羅南のはどす暗い刑務所のような雰囲気でしたが、広島のは華奢な別荘なみで雲泥の相違がありましたし、演習で外に出てみると至るところよく開発され、よく整理されて夢の国、楽園でした。
戦時下とはいっても日本人は幸福そうな暮らしをしていましたが、乞食並びに屑拾いや貧困の労働者はみな韓国人でした。
わたしは第二機関銃中隊に配置されましたが、わたしの内務班には日本語が全然話せない二人の韓国人がおりましたので、わたしは通訳兼初年兵でした。
わたしは一九四五年三月には乙種幹部候補生となり、中国第104部隊に編入されました。幹部候補生になってからも、わたしは表面的には立派な日本軍人を勤めました。
原爆が投下される少し前の7月に、わたしだけに特別休暇が与えられたので故郷に帰ったことがありました。その際そのまま逃亡していれば、原爆に遭うこともなかったのですが、模範生だったわたしは、休暇が終わると同時に広島に帰りました。釜山までいって船に乗ろうとすると、米軍の攻撃のために船が運航を見合わせており、何日か足止めを食いました。その間、わたしは帰還が遅れる旨の電報を毎日打ちました。それくらい模範生だったのです。
しかし、心のなかはいつも不平満々で、朝鮮の独立のためになにかしなければならないという気持ちでした。もし、満州か中国のほうへ配属されていたら、道は大きく変わって、朝鮮独立軍に入っていたかもしれません。
三、植民地統治下で日本人から受けた差別
わたしは日本の植民地となった朝鮮で生まれ育ったので、一から十まで差別のなかで生活していたようなものです。
日本軍に入隊するさいにも、大きな事件が起きました。わたしが入学する前夜に、気心の通じる同級生たち十数名が寄宿舎を抜け出して集まり、アリランを歌ったり、泣きあったりしました。ところが、このことが誰かに密告され、同級生たちが憲兵にマークされ、同級生の3分の1が検挙され、卒業できなかった者や、翌年の5月まで監獄に入れられた者が出たのです。また、師範学校の後輩たちのなかには、憲兵からの弾圧を逃れるために、満州へ逃亡する者も出ました。
こうした学生時代に憲兵から受けた弾圧に対して、わたしたち師範学校の同窓生たちは、今から五年ほど前に、母校のかつて奉安殿のあった跡地に、「学生運動の碑」を建設しました。
状況は、日本軍に入隊してからは、さらにいっそう厳しくなりました。
わたしの班に配属となった日本語のわからない2人は、ことあるごとに日本人古兵から暴力をふるわれていました。同じ部隊のなかには、日本兵からの横暴に耐えかねて自殺した韓国人兵士もいました。
わたしは幹部候補生になってからも、日本人古兵から朝鮮人だとさげすまれました。彼等は兵舎でもわたしを見くびる言葉を投げてくるため、毎晩のように彼等とけんかしましたが、わたしは絶対に彼らに負けはしませんでした。
軍隊の外に出て広島の町を歩くこともありましたが、その時にも日本人たちが、ある家に泥棒が入ったことを「あそこの家には朝鮮人が来たよ」と話し合ったり、うそを言う人に対して「おまえは朝鮮人みたいにうそを言うのか」と言ったりしているのを耳にしました。
わたしの腹のなかは煮えくりかえるようでしたが、わたしは表面的には忠君愛国の日本兵として、日本人幹部候補生の3人分ものがんばりを示しました。
四、原爆地獄の中で九死に一生を得て
わたしが特別休暇を終って広島へ帰ると、他の幹部候補生たちは別のところでの作業に動員されていました。わたしは模範幹部候補生でしたから、きつい作業はしなくていいから部隊に残って銃でもみがいているように言い渡されました。
しかし、わたしはなぜか一人残されるのがいやで、毎日、自分も作業に行かせてくれと頼みこみました。そうしたところ、8月5日の午前中に特命が出て、他の者たちがいる白島の工兵隊にいっしょに行くことになりました。
その翌日、原子爆弾が投下されました。
8月6日の朝、作業場に向かって出発するために白島の工兵隊の営庭を行軍中、広島上空にB29が飛来しました。北へ向かっていた飛行機が方向を転換する瞬間、銀色の機体が朝日にキラリと光るのが見えました。その瞬間、黄燐弾のような巨大な火の玉が天と地の間をおおいました。
「あっ、熱い」と感じ、同じに「もうだめだ」という考えが脳裏を走りました。わたしは走りつづけながら、「死んでたまるものか。必ず生きのびねばならない」と心のうちで誓いました。防空壕をさがしてそこに足を突っ込んだ瞬間、背中が熱く感じられました。
何だろうと思い、襦袢をぬいでみると火がついていました。急いで踏み消したところへ、同僚が1人、2人と集まってきました。みな血を流し、おののき、あわてふためいていました。早くここを立ち去らねばと、みな北門に向かって走り出ました。
北門の歩哨は死体となって転がっていました。あちこちに死んで倒れている兵士たちは少しの外傷もありませんでした。常識では判断できぬ不思議なことでした。大田川の工兵橋を渡り、市街地を離れて、堤防道を伝わって可部方面へ歩き出しました。
しばらく行くと黒い大粒の雨が降り始め、ヤケドした上半身に雨粒があたってピリピリ痛かったので、近くの壕に飛び込みました。
壕のなかで自分の体を調べてみると、頭と右腕、右乳上から血が流れていたし、左ほほから耳、うなじにかけて左下膊部は黒く焼けているし、背中も大部分ヤケドをしていました。
二葉山の中腹までのぼり、山のふもとの農家からワラ束を失敬し、それを敷いて腹ばいになってやっと休むことができました。
翌八月七日、東錬兵場に呉の海軍の給護班が来ていると聞いて行ってみました。
わたしはそこで3日間、何万とも思えるほど多くの人がうめきながら死んでいくのを見ました。人間の地獄の地獄、これ以上の地獄はないだろうというような原爆の恐ろしさを体験しました。3日間、広島は焼けつづけ、風が吹くと人が焦げる臭いがしました。
8月9日夜11時すぎ、汽車で佐伯郡大野町の国民学校に設置された陸軍病院分院に送られました。わたしは重傷者の扱いを受けたので、自分自身はじめて外傷がひどいんだなあと思いました。その夜から高熱を出して昏睡状態におちいってしまい、さめたのは12日午前11時ころだったと思います。
五、祖国の解放を迎えて帰国
8月15日「戦争は終った」という知らせを聞いた瞬間胸が熱くなり、涙が流れ出しました。ついに来るものがきたのです。祖国の解放の日がめぐってきたのです。亡国のやりきれない悲しみももう終ったのだという思いが胸にこみあげ、その場にへたりこんで泣きました。独立できると思うと、立ち上がって踊り回り、祖国に向かってかけてゆきたい衝動を抑えることができませんでした。
終戦の知らせを聞いて、他の兵士たちも、こぶしで教室の床板を叩きながらみな泣きました。彼等が泣きながらわめく言葉のなかに「朝鮮半島だけは手放すことはできない。朝鮮半島を手放すと、日本民族は食料がなくて死んでしまうだろう」というのです。
わたしはそれまでは同じ被爆者ということと、軍隊の仲間であったので、戦友意識にとらわれていましたが、「戦争が終った」という言葉を聞いてから、完全に彼等とは異質の立場にいることを感じました。のみならず敵愾心が沸き始めました。「朝鮮半島を手放すことはできない」とはどんな寝言を言っているのか。わたしはどうしてもここで死ぬことはできない。解放された祖国がどれほどわたしを待っていることか。わたしがしなければならない仕事が山のように積もっているのだ。どうあっても生きて祖国に帰らねばならぬと、自分に言いきかせました。
ついさっきまで、やっと這いまわる程度だった衰弱した体が急に軽くなったのは不思議なほどでした。祖国に駈けていけといったら、駈けていけるようでした。
わたしが「大韓独立万歳」の雄たけびと歓呼の声に迎えられて祖国の家に帰ったのは、徴兵からちょうど一年目の1945年9月7日でした。
第二 在韓被爆者として生きてきた日々
一、 体に残された原爆の傷跡
わたしは原爆で、頭からうなじ、胸、背中、下腹部、腕を大ヤケドしました。
帰国後もヤケドの傷からウミが出続けました。ウミが止まったのは一九四五年の暮ごろです。それから2、3年間はヤケド跡が黒ずみ、首のヤケド跡は人目にもつくし、まわりのひとはわたしを障害者のように思っていたかもしれません。その後、ヤケド跡はケロイドとなって一生わたしの上半身に残りました。ケロイドのために、被爆後、海水浴場やプールには一度も行ったことはありません。
ヤケドの傷が癒えて以降、わたしはケロイド以外には大病にかかることもなく、教師の道に励みました。その間、祖国は韓国動乱や左右の政治理念闘争で多くの人が亡くなりましたが、わたしはなんとか命を永らえて、韓日国交正常化の年(1965年)を迎えました。
二、わたしを被爆者運動に駆り立てたもの
1967年2月、広島を訪れ、原爆資料館を訪れたり、中国新聞社記者の平岡敬さん(前広島市長)に会ったり、東京で中島竜美さんに会って、いろいろ話を聞いたり、資料をもらったりして、始めて原爆の実態、日本の被爆者運動の様子、日本の被爆者は原爆医療法により無料治療が実施されていることを知りました。
被爆後22年ぶりの広島から帰って、わたしは「韓国原爆被害者協会」の創立に参与しました。
まず取組んだのは、被爆者たちの把握でした。被爆者はだいたい山奥の僻地に住んでいますから、なかなか掴めず、被爆者としれると色々な面で被害を受ける恐れがあるため、容易に名乗らない有様でした。
名乗りをあげた被爆者の多くは、食べる物もなく、住む家もなく、病気の治療など考える余裕もありませんでしたので、そのまま死んでいきました。
わたしが故郷の全州で韓国原爆被害者協会湖南支部の支部長をしていたころ(1967〜1974)に出会った姜大先さんと柳春成さんも、ほんとうにかわいそうな被爆者でした。
韓国の被爆者たちはどこからも見捨てられ、原爆のために病気になり、病気になると働けないから生活が苦しくなり、生活が苦しいと治療も受けることができずに病気はますます悪化するという悪循環のどん底生活がつづいています。韓国人が原爆を受けたのも、植民地支配のためです。
わたしは協会の設立に参与して以後、湖南支部長、副会長、会長などを経て今日にいたっています。
その間、わたしの脳裏に染みついて離れないものは、原爆投下直後の3日間、広島の東錬兵場で見た地獄のような光景と、もう一つは韓国の多くの悲惨な被爆者たちの死ぬに死ねない絶叫です。
わたしは原爆地獄の光景を思い出すたびに、人間として、人類として、人類のうえにこのような原爆を落としてはならないという強い思いを抱いてきました。そしてまた、韓国の多くの悲惨な被爆者たちの死ぬに死ねない絶叫を前にしたとき、わたしは「同胞として何とかしなければ」「建国的にも社会的にも彼らよりもしっかりしている自分が何とかしなければ」という強い思いを抱いてきました。
三、在韓被爆者として求めてきたもの
わたしは、韓国の被爆者は日本から補償されるのが当然と思っていました。
なぜなら韓国人が被爆したのは、日本が朝鮮を侵略したからです。ですから、韓国被爆者協会としても、日本政府に補償を要求しつづけました。補償金を受け取れば、それで治療もできるし、貧困状態から抜け出せると考えていました。
四、孫振斗裁判で認められた在韓被爆者の権利と被爆者手帳に対する思い
1974年3月30日、被爆者健康手帳の交付をもとめて日本で裁判を起こした孫さんが、初審で勝訴しました。これを受けて辛泳洙さんが東京都に手帳申請したところ、在韓被爆者としては韓日条約後に始めて手帳が交付されました。
わたしも1974年8月5日に、いっしょに日本を訪れていた趙判石会長らとともに手帳申請しましたが、広島市はわたしたちが15日間の観光ビザで日本を訪れてたので、手帳は出せないといいました。
その後、1975年に孫さんが第二審で勝訴、1978年3月30日に最高裁でも完全に勝って、在韓被爆者にも被爆者としての権利が認められましたのは、周知の通りであります。
最高裁の判示で特に重要なのは、「原爆医療法は、このような特殊な戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することが出来ない」という一部分であります。
わたしは1979年8月に再度、広島市を訪れて手帳の申請をおこないました。以前と同様に15日間の観光ビザで日本を訪れていましたが、交付されました。被爆から34年目にわたしはようやく、日本政府によって、被爆者であることを認められたのです。
五、被爆者健康手帳の取得によって認められた被爆者の権利とは何だったのか
孫さんの最高裁勝利のあと、在韓被爆者問題が韓日両政府間の話し合いになり、在韓被爆者の渡日治療が韓国政府と日本政府の合意のもとに始まりました。しかし、6年間で349人の人が2ヶ月間の治療を受けただけでした。韓国被爆者協会に登録している被爆者だけでも三千数百名はいましたから、349名というのはほんの一部の人でした。
渡日治療が打ち切られた翌年の1987年に、韓国原爆被害者協会は日本政府に23億ドルを要求しました。その後、1990年になって、日本政府から韓国の被爆者のために人道支援金として40億円が拠出されることになりました。日本の被爆者には毎年1年間で千数百億円の予算が付けられていることに比較しても、非常に少額でした。その40億円も2003年には底をつこうとしています。
孫振斗さんの裁判以後、わたしたち韓国の被爆者でも日本に行けば、被爆者健康手帳をもらえ、治療もしてくれますが、いったん韓国に戻ればその手帳は無効になります。わたしたちがその理由を知ったのは、1994年のころでした。
「1974年7月22日、韓国原爆被害者協会の会長だった辛泳洙さんが東京都に被爆者健康手帳を申請したその日に、厚生省の公衆衛生局長が『この手帳は国外に出たら効力がない』という通達を出していたことがわかった」という話を、日本の支援者から聞いたのです。
わたしは1998年5月に大阪の阪南中央病院に入院治療後、5ヶ年間手当を支給するという証書と、2ヶ月分の手当をもらって帰国しながら、大阪府知事に続けて手当をわたしの口座に振り込んでくれるよう頼みました。ところが暫くして大阪府知事から出国と同時に失権したから手当を出せないという通知を受け取りました。通知にはやはりその理由として「日本国の領域を越えて居住地を移した被爆者については昭和49年7月22日付の厚生省公衆衛生局長通達により、援護法の適用がないものとして失権の取扱いをするものと解されるため」と書いてありました。
わたしたち韓国被爆者が何十年もかかって苦労して闘いとった被爆者健康手帳は、その手帳によって認められた被爆者としての権利は、法律にも書かれていないことの書かれた通達1枚で、簡単に奪われてしまうほどに、値打ちのない軽いものなのでしょうか。
わたしをふくめて、韓国の被爆者はみな年老いています。被爆者健康手帳が韓国でも使用でき、また健康管理手当も受け取ることができるようになれば、被爆者の権利が最小限補償されたとみることができると考えています。
漢字の「法」という字を見ると「水」編に「去」の字で構成されております。法とは流れる水のごときものであるということができるでしょう。
被爆者を水に例えるともちろん源流は広島と長崎であります。源流から流れ出した被爆者は韓国に流れても、アメリカに流れても、ブラジルに流れたとしても、被爆者であることには違いありません。ところが日本の行政は、韓国やアメリカ、ブラジルに流れた被爆者は、被爆者の権利がないといっているので、このような裁判沙汰になりましたが、尊敬する賢明な裁判官でもありますので、水の流れるような明確な判断をしてくださることを、わたしは期待しています。
これはわたし一人個人の問題ではなく、在外の多くの被爆者の問題でありますし、ひいては人間としての人権の問題であります。
道義的国家とか人道的立場などの言葉が空念仏にならないよう要望するとともに、一日も早く韓国の被爆者とアメリカ、ブラジルの日本人被爆者たちも被爆者としての権利が求められるよう切に望みます。
2000年7月14日
郭 貴 勲