原爆被害と戦争責任、原爆投下責任、核兵器廃絶について
内藤雅義(弁護士)

 原爆被爆者が被害の補償を求める場合には、次のような方法がある。
 まず、原爆を投下したアメリカ政府に対して補償を求める方法である。次に、戦争を開始した日本政府に対して補償を求める方法である。この関係をどのように考えるのか、また補償の実現にはどのような条件があるのか。

国内裁判所での処理

 国内裁判所で処理する場合を考えてみる。アメリカ政府に原爆投下責任を追及する場合は、日本の裁判所は外国政府を被告にすることは出来ない。アメリカの裁判所では、アメリカ連邦政府は軍事問題に関して、被告とはならない。つまり国家は悪をなさず、という考えである。ただし、日本の法人の行為については責任はあり得る。例えば、米国人が日本の企業を被告にして訴訟をすることは出来る。
 日本政府への補償請求については、戦前の行為について、2つの壁がある。1つは、法的根拠の問題である。現行の国家賠償法は戦後の行為について限定している。しかし、ハーグ条約等の国際法が個人の請求の根拠になりえるかどうか。2つめの壁は、どの具体的な行為の違法を問うのかという問題である。個別的違法行為を問うのとは異なっている。国際法が個人の権利を保障していると言えるのかということがある。日本の侵略戦争と戦争の継続が、具体的な原爆被爆とどのような関係に立つのかも考える必要がある。
 戦後の行為について見ると、原爆訴訟判決のように、日本はサンフランシスコ条約でアメリカに対する賠償請求権を放棄しているという構成になっている。さらに戦後の放置責任については、例えば、山口地裁下関支部の従軍慰安婦訴訟(関釜訴訟)の判決は、国の責任を認め、30万円の支払いを命じた。被爆者の場合、原爆医療法、原爆特別措置法、被爆者援護法の存在をどのように考えるのか。

国際的な裁判所での処理

 国際的な裁判所での処理は、核兵器については、国際的な機関で個人が国家を相手に訴訟するところまでに至っていない。現実は国家同士の賠償請求権による解決が基本となっている。ただし、非人道的な行為については、勝者(強者)が敗者(弱者)に補償することもあり得る。1954年3月のビキニ被災では、アメリカ政府は第五福竜丸の被害者に見舞金を払い、政治的な処理をした。国際法の進展にともない、個人の国際法の主体性が強化されている。国際人権規約による追加議定書(人権委員会による判断)では、差別立法は許されない。しかし、この追加議定書を日本は署名批准していない。、国家の賠償請求権の放棄は、従来は一切の賠償請求権が放棄されてきたが、現在では、外交権保護の放棄はあるが、個人の賠償請求権は放棄されていない、となってきている。

あるべき補償裁判の法律構成

 被爆者が日本政府・アメリカ政府を期限を定めずに違法行為について、提訴できるようになった場合(例えば、重大な人権侵害については、時効不適用)のことを考える。このようなことが実現すれば、おそらく戦争は出来なくなるであろう。つまり、国家が統一的な権力の下に置かれることになる。それでもどのような理念の下に立法ないし行政措置を求めるのかのシュミレーションを次に考える。被爆者がアメリカ政府を訴える場合、アメリカ政府に対する責任追及は、国際法違反の兵器を使用したことが論点である。被爆者が日本政府を訴える時、どこに日本政府の責任を置くのか。この場合、被爆者の求める戦争責任とは何か、特に被爆についての受忍を強いることについての意味をどこに置くのか。
 ここである例を設定する。日本が中国に侵略したところ、中国が抗戦したので日本が原爆を投下したとする。その後、中国が日本に対する賠償請求権を放棄していた。中国政府が被爆中国人に補償をした場合、その根拠は何か。まず、戦争そのものの開始ではない。次に、国民の犠牲があるのに戦争を継続したことであろうか。しかし、中国は原爆投下を予想し得たか。結果を回避し得なければ、責任を問う意味はない。最後に、戦争そのものを否定するのではなく、国民に戦争犠牲の平等負担を求める考え方がある。
 もう一つの例を挙げる。「千代田丸事件」である。朝鮮半島と九州との間に海底電線があるが、1952年の平和条約で海底電線の南半分は日本、北半分は韓国が、保守、修理をすることになった(日本は逓信省、電気通信省、電電公社)。いわゆる李ラインが設置された海域に、1956年3月、米軍の要求で電電公社は千代田丸に出航を命令した。しかし、全電通はこれの拒否を指示した。千代田丸は出航したが、出航拒否を指示した全電通三役が電電公社を解雇された。1957年、三役は解雇無効を提訴した。1958年4月、千代田丸は銃撃を受けた。裁判の争点は、生命を危機に置くことを労働契約は予定しているか、使用者はそのことを強制しうるか、という点であった。訴訟の経過は、東京地裁では原告勝訴、東京高裁では原告逆転敗訴、最高裁で原告勝訴。この裁判は、憲法の下で、協力義務(生命の危険受忍義務)が存在するのかということを問うた。ただし、死亡すれば労災の対象とはなると考えられる。
 自衛戦争は許されるとする前提について考える。この場合、侵略戦争を開始したことか、侵略戦争だからか。多大の犠牲があるのも関わらず戦争を継続したことかが問題となる。次に、戦争そのものを否定する前提(憲法の前提)を考える。「千代田丸事件」のように、国民の戦争協力義務の否定がある。さらに、戦争の責任を肯定すると否定するとを問わずに、国民負担平等を根拠にする考え方がある。

戦争被害についての個人救済の前提とその動き、理念

 加害国による救済のファクターには、理念(正当性)と力関係が大きい。理念について世論の支持が必要である。加害国にとっての政治的メリットがある。例えば、従軍慰安婦に対する基金の処理、ビキニ被災など。次に、原爆医療法と特別措置法を決めた要因を検討してみる。力関係としてのビキニ事件と国内的世論がある。政府の側の戦争責任の否定があり、主として、アジアに対する戦後処理と天皇制が問題である。原爆被爆者健康手帳と疫学的資料の収集との関係がある。これは原子力開発とのつながりがあるのではないか。アメリカの原爆投下の違法性は認めないこと。特別措置法が認定をはずそうとしたことがある。
 アメリカに原爆投下の責任を認めさせる条件とは何かを考える。日本がアジア諸国の犠牲者に対して一定の救済の可能性があるのか。日本政府の行為について、国際的、国内的に被害者個人の補償を完全には放置できない。とりわけ、従軍慰安婦等重大被害、軍人の不平等扱いである。国際世論と国内世論の圧力が重要である。アメリカ政府による被爆者の救済の可能性を阻害する要因は、アメリカ政府が原爆投下を間違いと認めていないことである。認めさせる状況をいかに形成するか。私の意見では、その最大の壁は、日本の戦争責任の問題である。それも重要な要因となって日本政府は、サンフランシスコ条約で賠償請求権を放棄せざるを得ず、その結果、日本政府は被爆者の権利の実現を図れなかった。さらに、日本政府が、我々自身がアメリカの原爆投下は間違いであったと言える状況をいかにして作るのかである。まず、日本政府がアジアに対する戦争の誤りを認めることである。原爆被害を絶対悪であるという立場に立つこと、つまり、原爆被害を受忍させないことである。それには、アジアへの戦争被害補償をさせることが重要である。

何故、日本は一般戦災者の犠牲受忍を前提にするのか

 国家のあり方が問題である。国民に犠牲を強いる価値観(天皇制)であり、民主主義国家以前の国民国家観である。さらに、アジアへの拡がりのおそれがある。被害国が被害国民の犠牲を補償するのであればともかく、被害国民に対する戦争被害補償をしないわけにはいかないことから生じたものであろうか。原爆被害から戦争否定をする前に、侵略戦争否定をしないと国際的には受け入れられないのか。


(文責―笹本征男)