伊東壮先生との出会い
笹本征男(在韓被爆者問題市民会議会員)

 伊東先生が死去されたことを知ったのは、亡くなってから少し経ったころだった。中島竜美さんからの電話だった。突然の死去であった。
 生前の伊東先生の姿を最後に見たのは、1999年10月22日、日本被団協の在韓・在米・在ブラジル被爆者代表が参加した「決起集会」の会場で、参議院の第1議員会館の会議室であった。その時は、お元気であった。
 私が最初に伊東先生にお会いしたのは、1970年ごろである。30年前になる。当時、私は「原爆文献を読む会」という小さな市民グループに入っていた。その会に伊東先生をお呼びして、原爆被爆者の話を聞いた。その準備であったか、会の仲間の松本君と私は、甲府市の先生の自宅を訪ねて、先生にお話して頂くようにお願いした。
 当時の先生は実にエネルギーに満ちていた。40歳前後であったから、当然であったと言えるが、先生の精悍な印象が強く残っている。
 その後、品川の東海寺で毎年夏に行われる、東友会の原爆被爆者慰霊祭で伊東先生に出会っていた。
 1989年、東京で在韓被爆者をめぐるシンポジウムが開かれ、伊東先生にも講演していただいた。その後、在韓問題市民会議が出来てからも、何度も先生には来ていただいて、話をしていただいた。私が在韓被爆者のことで伊東先生と再びお会いできるようになった。
 伊東先生との出会いは、私にとって、東京で広島・長崎の日本人原爆被爆者の存在を知る大きなきっかけとなったことである。
日本被団協の運動の理論的な柱を作るのに、先生が重要な役割を果たされたことを考えれば、私にとって東京で「ヒロシマ・ナガサキ」に出会ったと言える。
 1995年、私の本『米軍占領下の原爆調査』の出版記念会にも、先生には出席していただき、あいさつをいただいた。私が先生と出会った若い日に、先生から聞いた「暗黒の10年」という言葉が、私を米軍占領下の被爆者の存在へと向かわせたと言える。その意味で、私は先生に自分なりの答えを出したのだと思う。
 在韓被爆者については、先生と10分に語り合うことはできなかったが、私は先生との出会いを心に秘めながら在韓被爆者のことを考えていきたい。
 最後に、30年前の私たち若い仲間のことを考えて、彼らに代わって先生にお別れの言葉を捧げたいと思う。