『そのうちに又』帰りがけに手を上げ目を合わせたのが彼との最後の別れになった。昨年暮れも押しつまった東京駅・ステーションホテルのロビーでのこと。その時は風邪をこじらせたといって郭貴勲裁判の担当弁護士との打ち合わせ中、もっぱら聞き役に廻っていた伊東さんだった。実際は病状が進んでいただろうにその気配もみせず、甲府からわざわざ出てきてくれた彼が証人として陳述書を書くことを引受けてくれたことだけで、すっかり私は安心しきっていた。
『そのうちに又』という意味は、私にあらためて弁護団の意向も含め打ち合わせをして欲しい−というサインだったことと知りながら、公判の予定が延びたこともあって私の方から電話連絡しなかったことは返す返すも悔やまれてならない。
彼との付合いはかれこれ40年近くになろうか。その間さまざまなことがあった。
山手茂さんがまだ東京女子大に勤めていた頃、伊東さんと3人で「ライスカレー」か「カレーライス」かが話題になったことがある。つまり朝鮮人の被爆者をどうとらえるかをめぐる論議である。当時は「在日」だけを対象としての話だが、ベースはあくまで朝鮮人問題だとする山手さんは名称も「被爆朝鮮人」を主張したのに対して、日韓条約反対で被爆者の問題をすっぽり落としてきた私は、日本の被爆者問題の中にこそ“朝鮮人被爆者”を位置づけるべきだと「朝鮮人被爆者」の呼び方に固執した。
その時も伊東さんは終始聞き役に廻っていたが、思えばこのあたりが彼と韓国・朝鮮人被爆者の問題を話し合うようになったそもそもの始まりだったように思う。もっともそれ以前にも伊東さんが多摩地区で活動していた頃知り合いになったという朝鮮人の被爆者Kさんと、私は朝鮮人の友人を通じて「在日」の取材をしていた時に偶然出会っていた−ということもあった。
しかし、その一方でこの問題に関しては2人の間で気まずい想い出もある。その1つは孫振斗問題が起こって入院先の病院から孫さんが被爆者手帳の公布申請を出した時のこと、福岡県側が厚生省に判断を仰いでいることを聞いて数人のメンバーで担当の企画課へ押しかけたことがあった。たまたま別の用事で同じデスクを訪れようとしていた伊東さんと私はバッチリ目を合わせた。お互いの間に気まずい空気が流れたが、
それでも彼は私たちを見守るように数歩離れてしばらく立ち止まっていた。
それから半年以上たって、却下の取消を求めるいわゆる孫さんの手帳裁判(1972年)が始まり、被団協に裁判支援の申し入れをしたことがあった。その時伊東さんは心よく引き受けてくれて代表理事会へ提案して貰った。会議が行われた日、会場の外で待っていた私に結果を伝えるためひとり抜け出してきた彼の、ニガリ切った顔を今でも忘れることができない。
70年代以降、在韓被爆者の代表が来日する機会が増えていった。
軍事政権下滞日中の訪問先もチェックされる状況の中で、伊東さんは辛泳洙さんや郭貴勲さん達との交流を図ってくれた。しかし、一方日本の被爆者運動としては孫振斗最高裁判決(78年)、基本懇意見書提出(80年)、新法・被爆者援護法成立(94年)に至る間、残念ながら日韓被爆者の共同の取組みは行われなかった。その意味からいっても在米・在ブラジル・在韓と被団協4団体代表による近年の共同行動は画期的なことといえよう。
私は被爆50年を総括しようとこの数年折りにふれて伊東さんとの話し合いを深めてきた。彼が山梨大の学長を退官した昨年は、彼の健康状態を後から考えると申し訳ないと思うほど、いつも心よく会ってくれた。
彼と1番話し合いたかったのは、韓国・朝鮮人被爆者問題が何故日本人の運動に根付かないのか−ということだった。2人の間の話し合いでもなかなか噛み合わなかった。
個人レベルの見解と組織論ないし運動論とはどうしてもきしむのである。
そこには個人体験を含め日本の戦争責任問題をどうとらえ直すかという、依然として残された重い課題が立ちはだかっている。
そしてそのこととからんで彼は、戦後の“暗黒の10年”を振り返って『どうして反米運動にならなかったのか?』と、自問するように語っていた。昨年の晩秋のことである。今は再び語り合う機会がなくなったことをしみじみ淋しく思う。