郭貴勲裁判をめぐって |
私は1926年、ハワイのホノルルで生まれた。父方の祖父の代に広島からハワイに移民したのだ。1931年、私が5歳のときに、父方の祖父が病気になったため、看病のため、母、兄、私、弟は帰国した。それから日米開戦になる前には父も帰国した。
広島に原爆が落とされた日も、私は、山口県光市の海軍工廠で仕事をしていたが、8月7日、特別な爆弾が投下されて広島が全滅したというニュースを聞き、翌日の朝、光市を出発して遅くにようやく広島入りできた。広島市内は、焼けた死体が累々と横たわっており地獄のような状態だった。私の家は燃え尽きており、そこに母と弟の2人が仮小屋を建てて残っていた。父は行方不明となっていた。私は、その後1ヶ月は広島の中を歩き回って父を捜したが、結局見つからなかった。
その後は、私は、広島市の復興局で働いたが、家も焼けてなくなり、父もいない生活は非常に苦しいものだった。
そのような生活を送る中、1948年ころ、アメリカ大使館から私宛に手紙が届いた。私がアメリカ国籍を有するので帰国できる、という内容だった。アメリカで出生した私と弟はアメリカ国籍があったのだ。アメリカには当時叔父夫婦が住んでおり、彼らが私たちを呼び寄せてくれた。アメリカでの生活に大きな希望を持って渡米したのだが、日系人収容所から出てきたばかりの叔父達の生活も貧しく、アメリカでの生活も大変苦しいものだった。
アメリカには、広島や長崎で原爆に遭った後渡米した日系人がたくさんいたが、被爆者相互の交流というものはほとんどなかった。日本の敵国だったアメリカで自分が被爆者である、ということを告白することは、それほど厳しいものだった。というのは、アメリカでは、原爆を投下したことで戦争が早く終了したのだ、という考えから原爆は正義の爆弾だと喧伝されていたからだ。そのような中、原爆で悲惨な被害を受けていることを訴えるのはとても困難な状況だったのだ。
アメリカの被爆者の交流がない状態が続いたが、1965年にロサンゼルスで被爆者30数名が初会合し、被爆者同士の親睦の会である「原爆友の会」ができた。
1971年にはロサンゼルスで在米原爆被爆者協会が設立された。1972年ころからは、私も、サンフランシスコにも被爆者協会を設立しようという運動をはじめた。このころは、自分のためというよりも他の被爆者のためにと思って運動をした。私は入市被爆者だったが、直接被爆した人でかわいそうな被爆者がたくさんいたので、その人達のために何とかしたかったのだ。
そして、1974年にサンフランシスコに北加被爆者協会を設立し、会長に就任した。1976年に、ロサンゼルスの南加被爆者協会と合同し、全米組織の「在米原爆被爆者協会」が設立され、私は第3代の会長に就任した。
アメリカでは1967年ころから、「原爆友の会」や「在米原爆被爆者協会」の会長や幹部が機会あるごとに、厚生省や外務省を訪れて、「被爆者健康手帳交付の簡素化、すなわちアメリカの日本領事館を通じて手帳交付すること」「広島の医師団を派遣すること」を嘆願してきた。
アメリカの被爆者の中には、早い時期から日本に行って手帳交付を受ける者がいたので、このような要望を行ってきたのだ。
私は、1974年に北加被爆者協会の会長となったときにサンフランシスコの前田総領事を通じて厚生省に「手帳交付の簡素化」と「医師団派遣」を求める嘆願書を送ったが、翌1975年に来た返事は、「手帳発行は法律によって実施しているので簡素化はできない。専門医の派遣は日米間の医師免許の問題があり困難」という内容だった。
しかし、その後の関係者の働きかけで、1977年に広島県医師団の渡米検診が開始され、2年に1度の検診が現在まで続いている。
在米被爆者は、早い時期から日本に行って、被爆者健康手帳の交付を受けることができたが、1974年の孫振斗第1審判決以前は日本国籍のある人に限られていたようだ。
私は1972年に手帳交付申請をして拒否された人を知っているが、その同じ人が1974年に申請すると手帳の交付を受けることができた。この方は、アメリカ国籍の被爆者だった。以後、在米被爆者もたくさんの人が日本に帰国して手帳の交付を受けることができるようになった。
私も、1975年に初めて被爆者健康手帳を申請した。
このときに、広島市の担当官に、以前は申請しても交付されなかったのになぜ交付されるようになったのか、と尋ねたところ、孫判決で方針が変わったということを教えてくれた。私はそのときまで孫判決については何も知らなかったのだが、1974年の孫振斗判決は在米被爆者にとっても、とても大きな影響をもたらしてくれた判決であった。
私が、初めて手帳を交付されたときには、広島市から手帳がアメリカに帰ると無効になるという説明もなかったし、健康管理手当がもらえるということも知らなかったので、手当の申請はしなかった。
健康管理手当の支給を受ける在米被爆者が増えるようになったのは、1983年の里帰り治療が始まってからで、アメリカに帰国した後も健康管理手当の振り込みを受けている人はいた。
広島の被爆者夫婦(日本国籍)が何年か前にカナダに移り住んだが、健康管理手当はそのまま指定の口座に振り込まれていた。1998年11月、夫が末期ガンのため来日して入院治療、妻も来日して看病していた。広島県の職員が病院に来て、カナダ在住中の手当返還を求め、滞日中の手当は返還請求分と相殺するので支給しない、と返還の念書を書かされた。
夫の死後、妻は1ヶ月に1000円ずつ返還していたが、返還額は1万3千ドルにものぼり、とうてい返還できず、妻は日本にいるのが辛くなってカナダに帰った。私への電話で、カナダの家を売らなければ返還できない。日本で死にたかったが、借金取りのように自分を責めたてる役人のいる広島には怖くて戻れないと歎いておられた。
わたくしは、在米被爆者協会の会長として、何度も対厚生省交渉をしてきたが、1990年に在韓被爆者に対する人道支援40億円の拠出が決まった後、厚生省に、医師団の派遣による検診だけではなく、在米被爆者のために治療施設を設置するよう交渉したことがある。すると担当官は、
「韓国と1緒にしないように」「韓国には何万人と被爆者がいるのだから大変なことになる」と言われた。このように、交渉の度に、何かいうと言葉の端端に韓国の被爆者を引き合いに出して我々に脅しをかけるように要求を排斥するのが厚生省の常套手段だった。
日本国籍で日本にいる被爆者、日本国籍で日本にいない被爆者、日本国籍でない被爆者、みな被爆者であることに変わりはない。あんな酷い爆弾で傷つき、今なお苦しんでいる悲しい運命の被爆者である。どうか、みな同じように取り扱っていただきたい。それが、「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることに鑑み、高齢化の進行している被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護政策を講じ、あわせて、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する」と立派に書かれた被爆者援護法の趣旨であると思う。
―「早く援護を!」第109号(韓国の原爆被害者を救援する市民の会)より転載。―