原爆被害は国境を越える |
中島竜美
在外被爆者とは日本国内に在住する被爆者に対して、在韓被爆者を含む海外在住被爆者の総称です。このことは広島・長崎に米軍が投下した原爆が大量殺戮兵器であると同時に、その被害が時間と空間を越えて現在に及ぶ特質をもつことと決して無縁ではありません。
そもそも両被爆都市の人的被害は日本人だけではありませんでした。多くの朝鮮人、中国人をはじめアジア各地の人びと、それ以前から住んでいた欧米系外国人、及び連合国軍の捕虜にまで及んでいることは、その被害の甚大さとともに日本が遂行してきた戦争がもたらした原爆被害の歴史的背景を抜きにしては考えられないことです。
広島原爆の直後、戦争継続中には米国に『原爆投下は国際法に違反する』と抗議(一九四五年八月一〇日)していた日本政府ですが、敗戦後、国は被害実態の基礎となる「被爆人口全数調査」をこれまで一度も行ったことがありません。
*GHQに国が提出した『太平洋戦争における我国の被害総合報告書』(一九四六年作成)には広島県警察部調べ(七八、一五〇人、一九四五年十一月)と広島市調査課調べ(一一八、六六一人、一九四六年八月)の異なる数字を併記しているに過ぎない。
いわんや九死に一生を得て被爆後海外に散っていった在外被爆者の数や、その後の経緯について国は一切実態調査をしてきませんでした。“暗黒の十年”といわれた戦後を辛くも生きのびてきた日本国内の被爆者も、政治から無視され続けてきました。 世論に押されて医療措置がとられるようになったのは、被爆後十二年目のことです(「原爆医療法」施行、一九五七年)。
その間に外国人被爆者だけでなく、日本からの脱出を試みた被爆者の中には日本人も含まれていました。現在、国籍とは関係なく在外被爆者が居住する国の数は二十カ国を越えています。
◇一、在韓被爆者からの告発◇
被爆人口の約一割と推定される朝鮮人のうち生き残った人びとの多くは解放された祖国に帰りましたが、日本にとどまらざるを得ない人びともでてきました。さらに冷戦による南北分断によって、三つの国に分散することになります。
こうした厳しい戦後過程をたどってきた韓国・朝鮮人被爆者の存在について、日本政府だけでなく日本国内の世論も長い間黙殺してきました。ようやく眼を開かされるようになったのは、賠償について『一切解決済み』とした日韓条約締結(一九六五年)後いち早く在韓被爆者が声を上げるようになってからでした。
*韓国での被爆者組織の結成(一九六七年)。
(1)孫振斗「被爆者手帳」裁判と日本政府の言い分
原爆症の治療を求めて日本へ「密航」(一九七〇年)してきた孫振斗氏が、服役中に発病、移送された病院から起こした被爆者健康手帳の交付を求めた裁判(以下「手帳」裁判)は、これまで日本政府が行ってきた被爆者対策の矛盾を次々と明らかにしていきました。
そこでは米国占領下の沖縄在住被爆者が提訴した裁判(「医療費請求」裁判、一九六四年)で行ってきた国側の主張が、そのまま孫裁判にも踏襲されていました。その主な点を上げると「原爆医療法」の主旨を『地域社会の福祉向上のため』として、沖縄の場合は憲法の及ばない地域であることから、また孫さんには地域の構成員ではないことを理由に適用出来ないと主張しました。
ここではこれ以上くわしくふれませんが、かっての沖縄在住被爆者も`在外被爆者aとして切り捨てられていたことは、日本人であると韓国人であるとにかかわらず、「原爆医療法」を属地法として、戦争被害から切り離し、公衆衛生行政の枠内に極力押しとどめようとしてきたからです。
(2)孫振斗最高裁判決の成果
孫さんの「手帳」裁判は一審二審と勝訴、最高裁でも勝訴しました(一九七八年三月)。最高裁判決で、(a)原爆被害に対する国の戦争責任が初めて明らかになり、(b)「原爆医療法」にも根底に国家補償的配慮があるとして、(c)外国人の権利性を認めました。
それまでにも第一審勝訴(一九七四年三月)の直後から、正規の資格で来日する在韓被爆者には、さまざまな条件をつけながらも「手帳」を交付するようになり、それまで在外被爆者に閉ざされていた扉は少しづつ開かれるようになりました。
*在米被爆者に初の「手帳」交付(一九七五年)。
また、この最高裁判決によって原爆被害に対する国の戦争責任が認められたことは、日本の被爆者が要求し続けてきた国家補償による「被爆者援護法」制定運動にも大きな影響を及ぼすことになりました。
◇二、基本懇意見書と日・韓被爆者分断策◇
孫振斗最高裁判決以後の日本政府機関の動きをみると、社会保障制度審議会(首相の諮問機関・大河内一男会長)が厚生大臣に対して『最高裁判決を踏まえ現行二法(原爆医療法・同特別措置法)の理念の見直し』を答申(一九七九年一月)。それに応えて厚生大臣から基本懇(原爆被爆者対策基本問題懇談会)をつくり、七人の委員を任命します(一九七九年五月)。当初一年の予定だった意見書提出(一九八〇年十二月)が大幅に伸びましたが、その間日・韓の被爆者はそれぞれに新たな展開を期待していました。
*一方、日韓与党間では政治折衝が行 われていた。
しかし、いざフタを開けてみると、『現行二法の見直し』どころか、現行法を`追認aした上で新たに登場してきたのが、戦争被害に対する『国民受忍論』でした。これまで国が公衆衛生の枠内で主張していた『地域福祉論』が孫裁判によって破られたことから、新しく打ち出した理論化の現われと思われますが、不思議なことに基本懇意見書は外国人被爆者や在外被爆者の`権利性aについては一言半句もふれていません。
では以上のことを踏まえて最高裁判決以後、在韓被爆者に日本政府がどのような対策をとり当事者がどう対応したかをみてみましょう。
(a)「渡日治療」を実施(一九八一年〜一九八六年十一月)
広島・長崎両原爆病院で入院治療を行った総数は、テストケース(一九八〇年十一月)を入れて三四九人。但し、渡航費(日本国内移動費を含む)は韓国持ち、軽症者で入院期間二カ月。
*当時の現行法の枠内で措置。
(b)補償要求の提起(一九八七年十一月)
5年の期限で「渡日治療」が打切られ、再び無権利状態になったことに対して、韓国原爆被害者協会は「二十三億ドルの補償」を要求。
(c)人道的治療支援のための「基金」問題浮上(一九九〇年五月)
再び日韓政治交渉の場に登場した在韓被爆者問題は廬大統領訪日を機に「基金」(四十億円)拠出を海部首相が約束。個人補償につながる`手当a等を禁じるガイドラインを含むこの措置に対しては、在韓被爆者の間で不満の声が上がり、運動内部にも混乱をもたらしました。
◇三、北米・南米在住被爆者◇
この二つの被爆者集団にはそれぞれ異なる歴史と社会的背景がありますが、いづれも共通していることは、そこに戦前からの日本の`移民政策aが深くかかわっていることです。 移民の歴史は先づハワイから(一八八四年)始まりますが、当初から広島県はずば抜けて参加人数の多い`移民県aでした。
その傾向は二十世紀に入って北米へと移民の主流が変わっても続きました。また南米・ブラジルへの移民は北米(米国)の「排日移民法」(一九二七年)から本格化したといわれますが、新しい波は戦後再び現われました(後述)。
(1)声を上げられなかった在米被爆者 敗戦直後の広島に義捐金を贈ったハワイ同胞の話は美談としてニュースになっても、ハワイ現地の被爆者のことはその後もあまり伝えられることはありませんでした。同様に米国の`二世部隊aの活動は日本でも話題になりましたが、`帰米二世被爆者aの存在はヒロシマの歴史に定着しませんでした。しかし、被爆後「帰国」であれ、新たな「渡米」であれ、原爆投下国で被爆者として声を上げることの困難さは容易に想像できます。
*北米で約一〇〇〇人(推定)。
その上、健康保険はなく、生命保険に入ろうとしても被爆者であることをかくさざるを得ない米国社会にあっては、声を上げようと思っても沈黙せざるを得ない現実もあるのです。
そうした中で被爆二十年たって、日系人の多い西海岸・ロスアンゼルスから被爆者組織が芽生え、米国社会の各機関への働きかけを行ないながら、日本からの初の「検診団」を迎えるまでにはさらに十年の歳月がたっています(一九七七年三月)。それも有志による被爆地広島の行政と医療機関への度重なる陳情の結果、県医師会を中心に医師の派遣が行われるようになったからでした。
八〇年代に入ると、在韓被爆者の「渡日治療」に当たる「里帰り治療」という名の民間募金や県医師会招待事業として、少人数ですが日本の専門医療機関でも入院治療が行われるようになりました。
(2)北米よりさらに遅れて動き出した南米在住被爆者
現在ブラジルをはじめ南米各国に散在している被爆者は、被爆後、国の`移民奨励aによって移住してきた人たちが殆んどといわれています。こうした人びとは被爆者に対して国が何ら手を差しのべなかった暗黒の十年間に、日本脱出を図った人びとといっても過言ではないでしょう。
*南米で約二〇〇人(推定)。
日本とは地球の裏側に位置する南米で被爆者に関する情報もとぼしく、ブラジルに被爆者組織がつくられたのは北米よりもさらに十年以上遅れ、二年に一度の人道的立場からと関係者がいう「検診団」が廻ってくるようになったのも近年のことです。 そうした状況の中から日本の関係機関に請願を続けた末、せめて「手帳」を持っている者には「健康管理手当」だけでも日本政府から支給して貰えないだろうかと、東京の弁護士に相談を持ちかけたのもブラジルの被爆者でした。まだ新法の「被爆者援護法」が施行される以前のことです。
◇四、「被爆者援護法」と在外被爆者の要求◇
被爆五十周年を機に施行をみた「被爆者援護法」の制定の経緯についてはここではふれませんが、基本懇意見書に添ってつくられたことは間違いないでしょう。この新法制定以降、在韓をはじめとする在外被爆者が`手当支給aを突破口に法の適用を求めているのは、実質的に補償としての`被爆者年金aの要求にほかなりません。現在、大阪と長崎で孫裁判の第二ラウンドともいうべき「援護法裁判」が併行して進んでおり、今回の日本被団協主催の中央行動にも、二人の原告(郭貴勲氏、李康寧氏)が参加されます。
旧法を引き継いだ「被爆者援護法」には国籍条項がなく、「手帳」申請の居住条件もありません(現在地でよしとなっている)。すでに大阪で行われている裁判では、日本を離れることで「手当」を打切ることの理由として「手帳」の失効(現行法では被爆者でなくなる)を上げているところから、被告(府・国)の答弁書の中にも法適用の「被爆者」と実態としての被爆者とを使いわけ始めています。今後は証人として在米・在ブラジルの被爆者も予定されており、在外被爆者全体の問題に拡がっていくことと思われます。
◇残された問題と今後の課題◇
九〇年代に入ってアジア各地から一斉に日本に対する戦後補償要求の声が高まり、強制連行された在韓被爆者から提訴された裁判が現在も長崎と広島で続いています。 *金順吉裁判(旧長崎三菱徴用工、一九九一年七月提訴、第一審敗訴。原告死亡により遺児が引き継いだ第二審も敗訴となり、最高裁へ上告)。三菱広島・元徴用工被爆者裁判(黄鐘鎬氏ほか、一九九五年十二月提訴、第一審敗訴、第二審で係争中)。
現在日本全国で行われている戦後補償裁判の殆んどにいえることですが、時効説や旧憲法論にはばまれているのが現状です。 しかし、在韓被爆者に関しては後発の「援護法裁判」とリンクした問題として連携を強めているところです。
また、冒頭でもふれた韓国・朝鮮人被爆者に次いで多くの被爆者を出した中国人被爆者については、広島県下の安野水力発電所へ強制連行された末、広島刑務所で被爆した元徴用工の裁判が現在係争中です。北朝鮮についてもこれまで在住被爆者の動向がつまびらかにされませんでしたが、最近になって現地の「反核平和のための朝鮮被爆者協会」の調査によると、約一〇〇〇人を把握しているということです。今度広島で開かれる集会(一九九九年十月二十四日)では、その現状報告も予定されています。 これまで在韓被爆者問題を突破口にようやく四カ国共同行動が行われるようになりましたが、在外被爆者問題が内包する課題はまだまだ底深いものがあります。それだけに被爆者施策として唯一の現行「被爆者援護法」を、国内国外の戦後補償の要としてとらえ返す視点が一層重要になってくると考えます。