市民会議例会報告


「在外被爆者問題を考える集い」1999年10月18日


在ブラジル被爆者の訴え

森田隆氏(在ブラジル原爆被爆者協会会長)

 南米のブラジルにおります森田です。南米には、約二〇〇名の被爆者が移住をしております。南米では被爆者ということが分かりましたら、都合が悪いという人が多数いるということをご理解下さい。私たちはもちろん広島・長崎で被爆した者です。戦後の日本の大変にひどい時に我々も海外移住ということで、日本の外務省も奨励してブラジルに渡ったわけです。その時に被爆したということになりますと、身体心身ともに異常もあったわけですが、そのことについて役所でも問いただされることもなかったのです。
 移民ということは大変なことなのです。習慣も言葉も分からず、行って苦労しました。そして被爆問題に入ったのも、子供たちが一人前になり、結婚をした後です。生活していくのがやっとのことでした。それまではこの問題に入れなかったのが実情です。そのような段階を経て今から十三年ほど前ですが、被爆者たちがなんとかしようという声が出て来ました。日本に家族会連合会という移民の世話をする会がありました。その会の人がブラジルに被爆者がいるということを知って、サンパウロに来てサンパウロの理事であった田村さんに話されたのです。田村さんは私たちと同船者でした。田村さんからの勧めがあって私たちが被爆者のお世話をするようになり、会をつくる動きを始めたのです。
 ただ今、一六二名の被爆者がブラジルにおります。その方々の実態調査をいたしました。それまでは日本の役所も実態を全然つかんでおりませんでした。十一年前、私たち夫婦が日本に来まして、厚生省に行き、南米にも被爆者がいるので、原爆手帳を欲しいということをお願いに行きましたが、第一声、課長が言うには「これは国内におる者だけにしかないのだから、お前たち手帳を貰っても何もならないのだ」という趣旨でした。実は、私たちには被爆者である証拠が何も無いのです。私たちがブラジルに行った時には、まだ手帳制度もありませんでした。ある時、「被爆者に年金が出る」という記事が日系新聞に出ました。間違いの記事だったのですが、その記事を見た被爆者が、領事館に行きますと、領事館では「お前たちには被爆した証拠がない」と言われ、非常に憤慨したこともありました。  日本の役所は大変冷たかったのです。「森田さん、あなた方はブラジルにいるのだからブラジル政府に言え」というのです。「しかし、私たちはブラジルに住んでいるが、日本国籍を持っている国民です」と言ったら、「ああ、そうですか」と言うだけで、何もしてくれません。本当に寂しい思いをしています。私たちのように国外に出た日本人は、普通の日本人として扱ってもらえないのだということを、回を重ねるに度に痛感しております。日本人でもありますし、同じように広島・長崎で原子爆弾に遭って、苦しみもひどいし、特に、外地では専門の医者もいません。体が悪くなって医者に行っても医者は理解してくれません。そのために、日本の専門の医者をブラジルによこしてほしいということを私たち夫婦が訴えました。北米に遅れること十年にしてようやく南米にも日本から医師団が来るようになりました。これが南米にいる被爆者に対する方針であると厚生省では言っています。そして、派遣医師団が診てくれた被爆者の中から、年にブラジルで二名、南米で四名が帰国治療を受けています。今年で帰国治療の予定が過ぎたので請願書を出しなさいというので今回、厚生省に出しました。我々外地の被爆者は母国とのつながりが唯一の救いなのです。二年に一度、日本から医師団が来てくれることによって、被爆者同志が集まってちゃんとした健康相談を受けるのです。
 私たち外地の被爆者は被爆者健康管理手当でも貰えれば、被爆者はどんなにか助かるか分かりません。南米の被爆者は日本国籍を持った日本人であります。もちろん、私たちも日本政府が韓国の被爆者を放っているということに強い憤りを持っています。日本人として、早く韓国の人々に償いをしなければいけないと思っています。とういうことで皆さんが一生懸命やっていられるのを見て喜んでおります。
 今、ブラジルにいる被爆者が私に頼んでいることは、母国の暖かい手を差し延べてほしいということです。


在米被爆者の訴え

倉本寛司氏(米国原爆被爆者協会・名誉会長)

 アメリカの被爆者はブラジルとは事情が違うのです。広島は移民県だったのです。その広島に戦争中、我々の推定ではだいたい五〇〇〇人の二世がいたと思うのです。その人達がどのくらい被爆したかは分かりません。私の場合、アメリカに渡る前は帰米二世で、アメリカに帰ってくるにも健康診断が必要なのです。だから被爆して本当に体が弱い人はアメリカに帰って来れなかった。私は一九四八年にアメリカに帰りましたが、その時には被爆者問題というものはなかったし、私自身被爆したし、父も無くしたし、財産も全部無くしました。その時の光景が忘れられなくて、悪くいえば広島の被爆から逃げてきたのです。アメリカに帰る前は私は大学を出て広島市の公務員だったのです。少しはいいことがあるのではないかなと思ってアメリカに渡ったのですが、アメリカはいいところではなかった。言葉は分からないし、仕事はない。アメリカにはそのような帰米二世が一五〇〇人あまりいますが、その中の四割が私たちのような帰米二世で、あとの人達は戦後アメリカに渡った人達です。七割が女性で多いのです。さらに男性は日本の兵隊に取られるとアメリカ市民ではなくなって、アメリカに帰れなくなったのです。
 被爆者は広島が六割から七割で、あとの三割あまりが長崎です。私は七十三歳になりますし平均年齢は六十九歳あまりです。アメリカに広島に医師団に来て診てほしいという声が強く、私たち幹部が広島市、広島県、広島県医師会、厚生省に何