すべての在外被爆者に被爆者援護法の適用を求める国際集会
10月23日大阪

韓国の原爆被害者を救援する市民の会(大阪支部)市場淳子

 東京での三日間にわたる被団協との共同行動を終えられた翌日、韓国・アメリカ・ブラジルの六名の被爆者の方々に、大阪入りしていただく。無理を押しての大阪集会参加をお願いした。  
 大阪では昨年に続いて二度目の国際集会に、約六〇名の市民が集った。
 昨年は、ブラジルやアメリカの被爆者とは初めての出会いであり、主催者である市
民の会大阪支部の世話人たち自身、まずは話に耳を傾けるところからのスタートであった。
 あれから一年、郭貴勲さんの大阪地裁への「被爆者援護法の適用を求める裁判」提訴からも一年がたち、二度目の出会いは、少なくとも市民の会のほうには「被爆者援護法の海外適用を求めてともに闘う同志」という気持ちが育っていた。
 今年は、韓国、アメリカ、ブラジルの被爆者代表の来日を前に、市民の会と各国の
被爆者協会で、「被爆者援護法の適用を求める要望署名運動」に取り組み、一〇月二二日の厚生省交渉の際に、四カ国で集められた合計約一万一千名の署名を提出した。
 郭貴勲さんの裁判で米国原爆被爆者協会名誉会長の倉本寛司さんと、在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆さんを証人として申請することにも快く応じてくださり、その証人採用が、一〇月二二日に大阪地裁で決定された。こんなことがあって、市民の会には「もう別々には闘えない」という気持ちが育っていったのである。
 大阪集会では六人の被爆者の方全員が一五分から二〇分くらい、様々な体験、思いを語ってくださった。
 わたしは一〇月二二日の東京における被団協の集会にも参加し六名の話を聞いた。
 二日とも、韓国人被爆者三名からは「日本の朝鮮植民地支配」のもとで韓国人である自分が「日本人」にされ原爆の憂き目にあったこと、それに対する幾重にも屈折した思い、被爆後は日本から捨てられ続けてきたこと、それに対する押さえがたい憤りが、三人三様に語られ、日本の責任をまたしても痛感させられた。これに対して、アメリカやブラジルの被爆者の方々の話は、日本政府の冷淡な対応に対する怒りをどこかで押さえておられるような印象を受けた。
 韓国人三名の話を二日にわたって聞かれた感想を、倉本さんは「涙が出そうになりました。この問題は韓国人がやることではなく、日本が自らの力で一日も早く解決すべき問題だと思いました」と、森田隆さんは「韓国の方の話を聞くたびに、日本は本当にひどいことをし続けていると、申し訳ない思いになります」と話された。
 また、倉本さんからは「これまでは厚生省になにか要求するごとに『あなたたちにしてあげたら、韓国にいる何万という被爆者にもしなければならなくなる。医師団の派遣もいつ中止になってもおかしくはない』という、脅かしのようなことを言われてきた」、森田さんからは「厚生省の役人が『被爆者には医師団の派遣くらいでもういい。こうやっておれば被爆者は死んでしまうのだから』というのを聞いて、激しい憤りを覚えた」という話もあった。
 これまで在外被爆者はそれぞれに分断されたまま、一様に日本政府から見捨てられ、それぞれにひどい言葉を浴びせられてきたことを、思いしらされ、「もう別々には闘えない」という思いをさらに強くした集会であった。
 なお、集会には衆議院厚生委員の山本孝史議員(大阪選出)もご参加くださり「この問題を国会でも取り上げていきたい」との心強い挨拶があった。