在外被爆者にも援護法の適用を!

▲厚生省への陳情

篠崎英夫保険医療局長(右端:黒スーツ)に署名を手渡し「在韓被爆者にも援護法の適用を」

と訴える崔日出韓国原爆被害者協会会長(机左中央)(鈴木賢士氏撮影)


在外被爆者と「援護法」

伊東 壯(日本被団協代表委員)

 十月二十日から三日間、日本被団協の全国代表者会議と中央行動が行われた。この行動には、崔韓国原爆被爆者協会会長、倉本米国原爆被爆者協会名誉会長、森田在ブラジル原爆被爆者協会会長など韓国、米国、ブラジルの三か国の被爆者の会を代表する人たちが、連続して参加した。これは、日本被団協が始まって以来のことであった。
 会議では、外国代表の簡単な実情報告もあり、また日本被団協が設定した課題についての活発な討論もあって、結構外国在住被爆者と日本在住被爆者の相互理解を深めることができた。また、第三日目には、政府、各党に対して、外国在住被爆者と日本在住被爆者の共通した課題について、請願・陳情行動も行った。 
 実は、この代表者会議の二日前の十月十八日、在韓被爆者問題市民会議が主催して東京で在外被爆者に関するシンポが行われ、倉本米国、森田ブラジルのお二人を中心にシンポはすすめられ、米国、ブラジルの被爆者の実情と在外被爆者に共通する現「援護法」施行上の問題点が明白になった。同じことは、日本被団協の会合で、崔韓国原爆被爆者協会会長からの報告でもくみとられたが、とにかく共通している問題を煎じ詰めれば、「日本に住民登録をもたず、現住していない被爆者に対しては、被爆援護法の適用はしない」という厚生省の見解にある。そして、この見解は、一九七四年の厚生省公衆衛生局長名の通達による。さらにこのような通達が発せられたのは、厚生省によれば、社会保障法一般の原則にもとずくためであり、九四年に制定された「被爆者援護法」は社会保障法の一つであるから当然この原則に従うとしている。しかし、この論拠には、疑問の余地が幾つもある。まず第一に社会保障法というのはユニバーサルにそのような原則にたつものであろうかということである。小川政亮元日本福祉大教授によると、ドイツの生活保護法などは外国に移住しようとも本人はその権限を失うことはない、すなわち決して国際的にみられる一般性はないと語っている。第二に日本の社会保障法は、前記のような原則を貫徹しているかというと、それは大阪、長崎の在韓被爆者手当訴訟で争われるなかで明らかにされているように必ずしも一貫しているとはいえない側面がある。第三に「被爆者援護法」は社会保障法といいきれるかという問題である。
 特にこの第三の問題について、私は、援護法制定運動の中心に立ってきたものの一人として深い関心を抱いてきた。「被爆者援護法」すなわち「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の制定時には、制定賛成にあたった議員たちは「援護法」の系列に入るものだということを確信していたといえる。今日でも、ことあるごとに土井社民党委員長が、村山内閣の手柄の一つとしてあげるのは、「被爆者援護法」の制定である。それは、「援護法」が従来の「医療法」「特別措置法」とは違った法体系に立っていることを確信しているからだといえよう。
 だが率直にいってこの法律は、制定時にあって国家補償的とも、狭いいみでの社会保障的ともとれる側面をもっていた。私は、この法の審議にあたって、一九九四年一一月二九日、衆議院厚生委員会に参考人として意見陳述をおこなった。その一節を次に掲げる。
 「被爆五〇周年を目の前にして、いざ援護法ができるというので見てみると、その内容は『こんなことだったかな』という感じは免れがたいのです。たぶん私は、社会党の先生方もそういう思いをしながらおつくりになっているだろうと思っているのですが、読めば読むほど、『ウリのつるにナスビをならそうとしている』のではないかと思えます。政府案の内容は、見れば見るほど整合性を失っているという気がしてしょうがないのです。それはご苦心の跡でしょうけれども、もう少し筋を通しておかないと後からいろいろな点で、被爆五〇周年につくったんだという、歴史に残る法律としては、お粗末ではないかと思わざるをえないのであります。」
 続いて、「国家補償」の問題について述べている。「国が起こした戦争のなかで、極めて非人道的な、残虐な兵器の使用によって原爆被害がおきました。」「国の戦争が違法であったかどうかということを、日本被団協は問題にしてはいないのです。」「結果として起きたことについてやはり国は責任を感じる必要があるということです。だが、この援護法には、その責任への反省がありません。」「もう少しいえば、その上にたって『国家補償的配慮』という、(中略)文言ぐらいいれてもいいではないかという気がします。」「なぜ、こんなに国家補償にこだわるかといいますと、日本の戦後補償は、ボタンのかけ違えが最初から起きていたと考えるからであります。」「サンフランシスコ条約が締結されて、いわゆる戦傷病者戦没者遺族等援護法が出てまいります。それが戦後補償の一番目だったと思います。これによって、戦争指導の中心に立っていた人々が最も手厚い援護を受けます。そして、戦争によっても守られるべき、戦後においても守られるべき一般国民については、全く何もやられない、いわんや旧植民地の人びとについては見向きもされない。」「それをきちんと正さない限りにおいては、主権在民だとか平和主義だとか、あるいは基本的人権だとかというような問題が」「ほんとうの意味を確立できないのであります。」
 この意見陳述でも明らかなように当時は、「援護法」は「国家補償的」と思える色彩がかなり濃厚であった。特に手当について従来からあった「所得制限」を撤廃したこと(これは社会保障の特徴とされる所得・財産の審査をしないことである)、「死没者」遺族に対して「特別葬祭給付金」を給付したこと(「葬祭」という言葉が入っていることは従来の社会保障をひっぱっているきらいはあるが)などは従来から一歩踏み出したものといえる。しかし、この「国家補償的」色彩はその後次第に薄れはじめた。そして、「社会保障的」色彩が濃厚になった。それは主として、法の解釈権をにぎるとおもわれている厚生省の見解によるといえよう。
 上記にかかげた在韓被爆者の手当給付をめぐる訴訟は、まさしく「援護法」の根本的解釈を明かにする訴訟になりつつある。とはいえ、高齢化する在外被爆者をいつまでも待たせるわけにはいかない。そのためには、「援護法」制定時に「国家補償」的新法と思い込んでいた政治家たちが、その初心通りの法解釈を確定することが急がれる。そのために、「もう被爆者問題は終わった」と考えている多くの政治家にもう一度「援護法」のあるべき本質を思い出していただくことが非常に重要な時を迎えており、こうした政治家を動かすためには、国民的運動をおこす必要がある。見方によれば、連立内閣の立法が「足して二で割る」妥協の産物としての側面をもち、国民をカンバンでだまして、結局官僚の思うようにあやつられる見本のようなものだからである。