レポート |
岩崎恵美
三月に、「広島の原爆による韓国・朝鮮人の被害−韓国・朝鮮人被爆者の現状と政府の対応」という題で卒業論文の発表をしました。論文の構成は、
序 (問題意識)
第一章 韓国・朝鮮人被爆者の背景
第二章 広島の原爆をめぐって
第三章 在韓被爆者および民間支援団
体へのヒアリング調査
終章 (まとめ)
となっています。
第一章では、日韓(日朝)の関係史を扱いながら、韓国・朝鮮人被爆者が日本で被爆することになった背景を明らかにし、第二章では、広島での被爆時の状況や被害の様相、さらに日本人被爆者のたどってきた歩みと政府の対応、および韓国・朝鮮人被爆者のたどってきた歩みと政府の対応を取り上げています。最後の第三章では、原爆によって被爆したあと、韓国に帰還した在韓被爆者の方々や、そうした在韓被爆者たちを支援して来られた民間支援団体の方々に対して行ったヒアリング調査をもとにして、現状や政府の対応をより一層明らかにしていきました。以下に、それぞれについて簡単にまとめます。
【問題意識】
原爆被害を考えた時、多くの人にとっては日本人被爆者のことばかりが思い出されます。私自身も大学に入学して初めて韓国・朝鮮人被爆者について知りました。高校の修学旅行では広島に行き、平和公園や原爆ドームも訪れたのですが、やはり日本人被爆者のことしか頭にありませんでした。そのような私に韓国・朝鮮人被爆者の存在を知らせてくれたのは、日本人ではなく韓国人でした。韓国人の知人が、韓国人慰霊碑が平和公園の外にあることを悔しさと悲しさを持って語っていたのですが、私にとっては慰霊碑の問題以前に韓国・朝鮮人被爆者の存在さえ知らなかったことが衝撃でした。そうしたことより、韓国・朝鮮人被爆者について詳しく調べてみたいと思うようになり、卒論のテーマとして選ぶことになりました。
【第一章 韓国・朝鮮人被爆者の背景】
日本が戦時中に朝鮮半島を植民地化していたことは、否定できない事実ですが、そのことと韓国・朝鮮人が日本に渡ってきたことには、深い関係があります。植民地支配の下では、「土地調査事業」や「産米増殖計画」が行われ、これによって経済的圧迫を受けた人々は、日本などの海外に流れるようになります。また、第二次世界大戦に入ると、朝鮮の人的資源を労働力や兵力として戦争に動員するために、強制連行が行われました。その際には、暴力、恐喝、拷問が組織的になされ、連行先では劣悪な環境下で非人間的な扱いがされました。このように、韓国・朝鮮人が多く渡日することになった背後には、日本の植民地支配が原因しており、同様のことが広島に渡ってきた人々についても言えます。経済的圧迫や強制連行から広島に渡ってきた朝鮮人たちは、一九四四年現在で県に八一、八六三人居住したとされており、その中でも広島市に所在した人々は原爆被害に遭うことになります。
【第二章 広島の原爆をめぐって】
原爆投下当時の広島市には、三五万人前後が所在していたと考えられており、被爆直後の死亡者数は、現在のところ九万〜一二万人と推定されています。生き残った人々も、「原子爆弾症」と呼ばれる人体傷害を負い、現在もなお、眼傷害や血液疾患悪性腫瘍などの後障害に苦しめられています。韓国・朝鮮人被爆者に関しては、「韓国原爆被害者援護協会」が一九七二年に発表した内容によれば、被害者総数は五万人で、うち死亡者(直後のみではない)は三万人、帰国者は一万五千人となっています。被爆当時、韓国・朝鮮人の居住地域はほぼ限られており、彼らは広島市外や郡部に縁者が少なかったため、被爆後市外に逃げて行ったとしても頼るべきあてがなく、差別されていたために受け入れられずに再び放射能の残った市内に戻らざるを得なくなりました。また、遠距離被爆であっても、彼らは中心部の救援や焼け跡整理に駆り出されるなど、被爆地に残留していたために、日本人以上に放射能を浴びることになって被害も増大しました。
そうした韓国・朝鮮人被爆者への日本政府の対応と日本人被爆者への対応には大きく差異が見られますが、被爆者本位の対応をしているわけではないことは共通しています。政府が日本人被爆者に対して最初に行ったことは、援助ではなく調査でした。その後、一九五四年に第五福竜丸が被災し、原水爆禁止運動の盛り上がりによって世論が高まったことから、ようやく援助の姿勢を見せることになります。被爆から一二年後の一九五七年には、原爆医療法が制定され、さらに一九六八年には特別措置法、一九九四年には、被爆者援護法が制定されます。これらは皆満足の行くものではありませんでしたが、被爆者対策予算については、大きく増加してきており、今では毎年一、二〇〇億円ほどの予算が取られています。
他方、韓国・朝鮮人被爆者たちは、その多くが祖国に帰還しましたが、祖国に帰っても、傷と火傷のためや母国語が話せないことのために差別されたりしながら、貧困や病苦と戦いつつ生きていかなければなりませんでした。その病苦についても、原因が何であるのかを知らない場合が多かったのですが、一九六〇年頃になってようやくマスコミなどを通じて原爆の影響であるということを知るようになりました。補償の取り決めに強い期待を寄せていた被爆者たちは、一九六五年の日韓条約に失望し、一九六七年には協会を設立して補償を求める運動を進めていきます。しかし、日本政府は、補償は日韓条約で解決済みであるという態度を崩さず、「人道的」援助は数度行ったものの、被爆者たちの願いに沿ったことはしませんでした。
【第三章 在韓被爆者および民間支援団体へのヒアリング調査】
日本政府の対応の仕方について、より細密に検討するために、在韓被爆者四名、民間支援団体三件(「市民の会」の市場淳子 氏、豊永恵三郎氏、「市民会議」の中島竜美氏)に対してヒアリング調査を実施しました。在韓被爆者に対しては、被爆してから現在に至るまでのライフ・ヒストリーや日本政府の対応についての意見・要望、民間支援団体に対しては、在韓被爆者の現状やこれまでの運動、また政府・地方行政の対応などを中心に聞き取りを行いました。
今日までの政府の対応過程を、調査を元に見ていきますと、政府は、補償が終わったとするときに、必ず日韓条約を基準としています。しかし、その中には在韓被爆者問題は入っていないようです。国家間の補償をまとめてしたものであるために、個別に補償をしていないのはある意味当然であるかも知れません。ただ、補償というのに十分なことがなされているならば、国家間のみならず当事者たちも納得したことでしょうが、そうなっていないのが事実です。日本としても、自信を持って補償を終えたと言えるならば、他の援助をする必要もないことを堂々と主張することもできたでしょうが、実際には、世論の高まりや韓国政府からの圧力の中で「人道的」援助を数度行っています。
その中に渡日治療がありますが、目処とされた五年後に打ち切られてしまいます。その背後には、日本が渡航費と日本国内の移動費を韓国政府の方で受け持つように主張して譲らなかったことがあります。日本が国内移動費をもってしまうと、当時の原爆医療法の社会保障としての枠が崩れてしまうことになり、国家補償をするための口実になってしまうからです。政府による打ち切り後は、民間支援団体によって渡日治療が続けられていますが、政府からも地方自治体からもまったく援助のない状態で行っているために、人数制限をしなければならなかったり、短期間の治療しか行えなかったりするのが現状です。特に、重傷者や困窮者、高齢者は渡日治療を受けることができないため、より援助を求める人ほど放置されてしまっているという矛盾が生じています。
また、渡日治療打ち切り後に日本政府が行った四、二〇〇万円の拠出二回と四〇億円の拠出は、韓国政府が日本政府に圧力をかけるようになったことが原因しており、無視しきれずに無理やり捻出したものでした。さらに、この四〇億円が拠出されたことにより、韓国政府としても外交上は働き掛けることもできなくなり、日本政府もこれ以上は「人道的」援助をしない、という態度を貫いているために、補償問題は実質滞ったままとなっています。
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被爆者の方達が受けてきた被害を考えれば、より誠意をもった対応がされなければならないでしょう。