希望のヒロシマ
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広島市前市長 平岡 敬
今、平和、特に核の問題については非常にきびしい状況にあると思います。冷戦が終結した時には、私たちは非常に楽観的でした。これで大規模な核戦争はなくなったと思いました。これからは核軍縮、核廃絶に進むのではないかという淡い希望をいだきました。しかし、大国間の緊張感がなくなったために、核軍縮のスピードがダウンしました。それに世界各地で民族紛争とか暴力沙汰、資源をめぐる争いが噴出して、今に続いています。そのような中、一九九五年、国際司法裁判所(ICJ)に原爆投下は国際法違反であるという勧告を求める運動が起きました。
一九九八年、NPT(核拡散防止条約)体制の矛盾をついて、インド、パキスタンが核実験を実施しました。一方、核保有国のアメリカが実際の核実験は行いませんが、臨界前核実験を行い、核兵器の開発を進めています。このことがインド、パキスタンの核実験を誘発し、今年になってインド、パキスタンがそれぞれ中距離ミサイルを開発し、実験に成功しました。つまり、核兵器と運搬手段が結合するという状況になってきました。核状況にとっては非常に悪い状況が生まれたと思います。
一方、コソボ問題が起こりました。先般、パリからファクシミリが入りまして、実は今、ヨーロッパは大変である。今まで核兵器に反対する運動をになっていた人たちが、あのミロシェビッチ大統領をやっつけるのに、核兵器の使用も辞さないという進歩派が出て来た。大変危険な状況であるということでした。つまり、コソボ問題、ミロシェビッチ大統領に対するヨーロッパの人たちと私たちとの感覚は、非常に違うようです。この春、NATO(北大西洋条約機構)が、「新戦略概念」という構想を出しましたが、そこでは戦術核を保持していこうという方向を出しました。これまでヨーロッパは核兵器を無くしていこうという方向に行っていたのですが。それを受けて、ロシアのエリチン大統領が、戦術核の増強ということに踏切り、それに署名をしました。そういう意味では、私たちが願っている核兵器廃絶、核戦力を弱めて行くという方向と違うものが出ています。
マスメディアの責任
このような動きに対する日本の反応は極めて鈍いのです。それはマスコミの責任があると思います。一九九五年、国際司法裁判所が核兵器は、一般的に国際法に違反するという意見を出しました。このことが国際的常識になった時と比べて、状況は悪くなったという気がしています。このような状況をマスメディアがきっちりと報道しなければいけないと思います。私は戦時中は軍国少年でした。そうなったのは、教育、マスメディア、その当時のマスメディアは雑誌、新聞、ラジオぐらいでした。そういうものによって、敵愾心を養われました。しかし、平和を作っていくというのも、教育とマスメディアの責任だと思います。私の著書の『希望のヒロシマ』(岩波新書、一九九五年)でも、マスメディアへの批判を書いています。私がマスメディアの出身ですから、それを批判するのは簡単なことなのですが、そのような批判を「なぜ、お前がマスメディアに中にいる時にそのような批判をしなかったのか」と言われるとつらいのです。実は、そのような世界を出てみてわかることもあるのです。私の批判はマスメディアに期待するところが大きいからということを考えて欲しいと思います。
世界の核状況
ここにお集まりの皆様は、韓国人の問題、平和の問題を考えて来られた方々であろうと思います。そういう問題を考える中で日本社会のあり方、核兵器の持っている意味をしっかりと認識をしおられると思います。例えば、在韓被爆者の問題を解決することが、核廃絶、平和の問題を解決する一つの道だと思っています。大状況でいいますと、今、世界には核が二万発とも三万発ともあると言われています。しかも、それを解体するとしても、大変な金がかかる。今まで核開発に使ってきた金が、だいたい八兆ドルです。日本の金にして約一千兆円に近い。しかし、核の解体にはこれの数倍の金がかかるそうです。このような中で、スーツケースに積められる核兵器が存在しています。アメリカに七百発、ロシアに数百発と言われています。一昨年、ロシアでスーツケース型爆弾百個が行方不明になったという事件を新聞のニュースで見ました。その年の秋、ロシア国民共和党という政党の党首であるレベジ氏が広島に来た時に会いました。彼はその前は国家安全保障会議の書記で、エリチン大統領の補佐官であった。私はレベジに「スーツケース型爆弾がなくなったことを知っているか」と聞きました。すると彼は「そういうことは聞いた。国家安全保障会議の書記の時、その行方を探したが、見つからなかった」と答えました。私が「スーツケース型爆弾は存在するのか」と聞くと、「存在する。しかし、その後私は国家安全保障会議の書記を解任されたので、その後のことは分からない。爆弾がテロリストの手に移ったら大変なことになる。大変心配している」と言いました。
二〇世紀の戦争−無差別殺人の思想
二〇世紀は戦争と革命の時代であった。一九世紀までは戦争は専門家集団(軍人)の戦争であったのですが、二〇世紀にはいり、総力戦が一般化して、市民が犠牲になったのです。第一次世界大戦では、戦死者が約三五〇万人、負傷者が二千万人、行方不明者と捕虜が八百万人と言われています。第二次世界大戦では、戦死者が約二千五百万人、民間人の犠牲者が二千五百万人、戦傷者が三千五百万人に上りました。戦争の形態が変わったのです。つまり、皆殺しの思想が生まれたのです。その極限が広島・長崎の原爆であったと思います。無差別に人を殺していく。絨毯(じゅうたん)爆撃、例えば、東京大空襲です。その極端なものが核兵器です。無差別に民間人を殺傷していくという思想が、二〇世紀に入って生まれたことが、怖いことだと思います。無差別殺人の二〇世紀の象徴が、ヒロシマ・ナガサキとアウシュビッツであると思います。科学を介在した皆殺しの思想が、ヒロシマとアウシュビッツに現れています。アウシュビッツでは、科学者、医者が強制収容者に人体実験を行っています。核兵器の開発にも科学者が協力しました。マンハッタン計画で原爆が開発されましたが、この計画にも多くの科学者が動員されました。
戦後五〇年
私が広島市長の時代、戦後五〇年の一九九五年がありました。日本にとって歴史的な総括、戦後責任、戦後補償など解決しなければならない問題が多く問われた時でした。広島というのは、原爆に被害を訴えることによって核兵器を無くし、世界の平和を作ることになり、そのことが広島の被害、広島で死んだ人たちが慰められるのではないかという思いで、毎年、広島市平和宣言を出して、平和への努力をしてきました。前年くらいから私が広島の被害をいうと、かならず外国人の記者は、「あなたは日本の戦争中のこと、日本の戦争責任、天皇の責任をどう考えるのか」と聞いてきました。「私はそのことは認めるが、そのことと核兵器を使うということは違う」と答えてきました。この辺のことが議論の難しいことです。私はいかなる場合、いかなる理由があっても核兵器は使うべきではないと考えていますし、そのように発言してきました。
アジア大会−アジアとの和解
広島は原爆の被害を訴えてきましたが、ほとんどヨーロッパ向けでした。ヨーロッパとの連帯は強かったのです。しかし、アジアに対しては、平和の使者を出していなかった。私はアジア人たちの和解、連帯ができなければ、広島の訴える平和は本当の平和ではないと考えていました。アジア大会が広島で開かれるのですから、アジアから来る人たちに核兵器とは何か、平和を共に築いていくにはどうしたらいいのか。広島が最初に和解にシグナルを出すことを考えました。私が市長になった年の八月六日の平和宣言に、アジアに対する謝罪を入れました。その表現は非常にやわらかいものでしたが、多くの抗議が来ました。
広島がアジアに対して、このようなことをやって来なかったのです。このことが韓国の被爆者の問題と通底することなのです。戦後、私たちは広島・長崎のことは言ってきましたが、韓国人、朝鮮人のことは意識は薄かった。黙殺してきたといってもいいでしょう。これも私たちがアジアというものを軽視してきた、一つの表れであろうと思います。
(文責・笹本征男)