辛泳洙さんを偲ぶメッセージ

 去る六月二十六日(土)、市民会議主催によるささやかな追悼会を開き、在りし日の辛泳洙さんを偲びました。その折に寄せられたメッセージのいくつかを紹介させていただきます。


韓国原爆被害者協会会長 崔 日出

 辛泳洙元会長さんは30余年前、始めて韓国被爆者を集めて協会を創立、永年、会長をつとめ、韓国被爆者の為に全力を尽くしてきました。

 生前、口癖のように「韓国原爆被害者協会という物を作って、日本政府に 又 韓国政府に、やれ嘆願書だやれ陳情書だ要望書だと提出した。その数も数えきれない。しかしそれに対する日本政府の回答は、なしのつぶてである。怨念を抱いて亡くなられた御霊と、生き残って苦労なさっている会員の皆さんに申し訳ない」と言った言葉が今でも身近にきこえてきます。

 私も会長に就任してもう一年が過ぎましたが、その間具体的に目に見える成果があったであろうか、疑問を持って反省しております。

辛会長を偲びながら力かぎり頑張ります。


前長崎市長 本島 等

 辛さんが長崎に来たとき、私はどんな用があっても必ず会うことにしていた。それは辛さんのうしろに多くの被爆者がおり、長崎に強制連行された歴史があったからだ。そのことを忘れることはできない。

 辛さんという友人を失ってしまったが、日本がやらなければならないことは何一つ解決していない。辛さんの思い出とともに私たちの決意を新たにする一日でありたいと念じています。


日本被団協代表委員 伊東 壮

 辛さんの長く壮絶なたたかいとその偉大な業績を思い、今もって国が戦争責任を償い国家補償に立った被爆者援護法を制定しないことに心から憤り、辛さんの意思を継ぐ日本国の国家補償に立った韓国被爆者の援護制度の確立に力をつくすことを誓います。


神戸学生センター館長 飛田 雄一

 辛さんが逝かれて本当に残念です。

 辛さんは、私が学生の頃に孫振斗裁判の会や市民の会で活動していたときに何回もお会いしたとても気持ちのいいおじさんでした。被爆時の、また戦後(解放後)の生活は大変だったでしょうし、韓国で被爆者をひとりずつ訪ねる活動もご苦労が多かったでしょうが、いつも柔和なお顔で接してくださいました。そして特に日本の支援者には優しい方でした。

 日本が朝鮮を植民地支配したことの当然の償いとしての戦後補償は、辛さんが全国の被爆者を尋ねられた時代に比べれば少しは進展したかもしれません。しかし、辛さんにとってはもちろん志なかばでしょうし、日本政府の根本的な解決をしようとしない姿勢はまだ続いています。

 松井さん、辛さんとあいついで先輩を失って悲しんでいる私たちですが、お二人の柔和で元気なお顔を思い浮かべながら、やはり歩んでいきたいと思います。見守ってください。


 韓国の原爆被害者を救援する市民の会 平野 伸人

 一九八七年に韓国の被爆二世との交流を行ったことをきっかけに韓国人被爆者問題に取り組んできました。そのなかで原爆被害者協会を必死で支えてきた辛泳洙さんとの出会いがありました。何度も長崎を訪れ、本島前市長を交え三人で相談したことを思いだします。

 一九九五年にソウルで本島さんをふくめて会ったのが最後になりました。韓国人被爆者の思いをすべて背負って頑張ってこられましたね。安らかにお休みください。わたし共は辛さんの志をこれからも引継いで韓国の被爆者のために努力していきたいと思います。


在韓被爆者渡日治療広島委員会 渡辺 正治

 辛さんについて数々の出会い、おつきあいがありましたが、忘れられないのは一九六○年代はじめ当時の核禁会議が韓国被爆者診療団を派遣したいとの相談があった折りでした。

 当時われわれの広島地方のフィールド調査で広島市の大田川放水路に沿った民族集落に慶尚南道陝川地方出身を主な移民母村として、又、宇品、海田など数千の被爆者が居住していました。又、当時、朴政権下にあって韓国の言論界で正論を伝えてこられた池明観先生(その後に東京女子大客員教授として来日)のご尽力で韓国クリスチャンアカデミイで、韓国人被爆者問題シンポジウムが行われました。その折り辛さんをはじめ数人の被爆者代表が出席し、(略)私は日本における被爆者医療を中心とし、外国人被爆者に訪問治療の希望があることをお伝えしました。その折り参加者は、日本人の植民地支配責任からの行為としてであれば診療機関を受け入れようとの了解が得られたのは、辛さんをはじめ協会の皆さんにとって明るい前進を示すものでした。帰途、辛さんがこういう話し合いがもっと早期に実現できていれば病気と貧困に苦しんで死んでいった在韓被爆者の多くの人の命を失わずに済んだ!としみじみ語られたことが今更乍ら想起されます。


広島・被爆者 沼田 鈴子

 辛泳洙さんのご訃報に接しましたときには在りし日のお姿が走馬灯のようにグルグルと頭のなかをかけめぐりました。始めてお遭いしましたのは一九八五年三月にはじめての訪韓の旅にでましたときでございます。長崎の鎌田定夫先生を団長としての被爆者の実態調査団の一員にさせていただき、ソウルの金浦空港での出会いでございました。優しく私共を迎えて下さいまして被爆者協会の会長としてソウルでの日程中一生懸命に色々と我が身の辛さもいとわずにお世話していただきました。挨拶されました時の言葉は今も忘れることはできません。その言葉は今我が身にも重ねて重いものになっています。

 「韓国の被爆者は誰も平和を願っている、核への廃絶も皆の願いである、しかし韓国の被爆者は今そのための運動にも立ち上がることができない程健康を害している。健康な体であれば平和運動にも立ち上がることができるでしょうが、今の韓国にいる被爆者は立ち上がることはできない状態であることを知ってほしい」と切々と話されました。

(略)

 その後、辛泳洙さんは日本にもこられ広島にもいらっしゃいましたが、その度に優しいいたわりの声をかけてくださいました。ご自身に痛みがあるからこそ人の痛みの分かるお人柄でした。永年の平和運動、被爆者のためにご活躍をなさいました原点は、そこにあったのではないでしょうか。

(後略)


NHK教養番組部 大森 淳郎

 辛先生がお亡くなりになったことを知って、なぜか最初に思い出したのは、ソウルの韓国被爆者協会の部屋を照らしていた裸電球の光でした。辛先生の、変わらぬ信念と、やわらかなお人柄を、僕は、あの電球の光と一緒に記憶していたのだと思いあたりました。やすらかにお眠り下さい。どうもありがとうございました。


韓国の原爆被害者を救援する市民の会 市場 淳子

 大阪では一番長くともに闘ってこられた松井義子さんのあとを追うかのように、辛泳洙さんがその生を閉じられ、幾重もの寂しさ、悲しさがこみあげてきます。

(略)

 辛さんが最後に大阪にお来しくださったのは、一九九四年のことでした。

 そのとき、市民の会の松井義子さんと、松田基二さんとわたしの三人で、なじみの新大阪のホテルで、昼食をともにしました。

 40億円以降、韓国原爆被害者協会への加入を希望する者が次々と現れるなか、協会理事会では「新規加入者は日本で被爆者健康手帳を取った者に限る」との決定がくだされ、たくさんの被爆者が40億円の援護からも排除されるという事態が生まれました。辛さんはそのことをもっとも憂えておられました。そして、約100名にもなる協会加入希望者の書類をかばんから取り出されました。その人たちは、戸籍に広島市内で出生したことが記載されている人たちばかりでした。被爆50年もたち、証人を探すことはむずかしいので、戸籍に広島出生が記載されていることを証拠として、せめてその人たちだけにでも、優先的に日本で被爆者健康手帳を取得させ、協会に加入できるようにしてやりたいと、辛さんは考えておられたのです。協会の会長として、最後まで、より困っている被爆者のためになんとかしたいと、考えておられたのです。

(略)

 それから何ヶ月もしない一九九五年の年明け草々、協会から、辛さんが会長を続行できない状態になられたとの、悲報が届きました。辛さんは、自らの貴重な体験を本に書き留める暇さえなく、もてる力のすべてを在韓被爆者の運動実践に注がれたのでした。

 辛泳洙さんも松井さんもこの世での生に終止符を打たれた今、市民の会では、これまでの運動の「継承発展」ということが、つねに強く意識されます。

 辛さんは、在韓被爆者運動が一歩、一歩、前進を勝ち取るたびに、次の一歩の構想を的確に描き、その実践に取り組んでこられました。

 40億円の次に辛さんが取り組もうとされていたことは何だったのでしょうか。

 大きな課題は、23億ドル補償の継続要求や、被爆者援護法の適用要求であったろうと思うのですが、韓国内においては、協会への加入が認められない被爆者の問題を何とかしようと考えておられたと思います。

 協会会員が増えれば、それだけ日本政府は協会の存在を無視できなくなるでしょう。 でも、辛さんがその問題を取り上げたのは、40億円からも排除された在韓被爆者一人一人へのいたわりがあったからだと思います。辛さんが多くの人を引き付け、世の中を動かすことができたのは、なみなみならぬ政治的手腕の基底に、このやさしい人間愛があったからだと思います。

 辛さんを中心とする協会運動の力で勝ち取られた40億円は、2003年には底を突きます。その前に、残されたわたしたちの力で次の一歩前進を勝ち取らねばなりません。そのために市民の会がなすべきこと、できることはたくさんありますが、実践できていることとなると、まだまだ少ないです。

 辛さん亡きあと、「辛さんだったらどうされただろうか」と心のなかで自問自答しながら、辛さんがモットーとしてこられた「実践」と「在韓被爆者一人一人へのやさしい気持ち」を、これからは市民の会のモットーにしていきたいと思っています。

(後略)