辛泳洙さんを偲ぶ

▲ 在りし日の辛さん


 辛さん本当にありがとう
   訴えは平和の地下水脈に浸透

朝日新聞編集委員 小田川 興

 一九六〇年後半、被爆者組織づくりに参加してから約三十年間の辛さんの足跡は、東アジアの冷戦と曲折の日韓関係に重なる。
 在韓被爆者への補償は「日韓条約で精算ずみ」とする日韓両政府に対して、辛さんは「人間の血が流れていない」と怒りをぶつけた。日本の対韓経済協力の陰で、在韓被爆者救護は後回しにされた。
 韓国の独裁政権時代、在韓被爆者による平和運動は封じられた。反共防波堤として位置づけられた韓国では、米国の原爆投下に対する責任追及は表立って口に出せなかった。
 しかし、辛さんたちの粘り強い運動は日本政府から四十億円の被爆者救護基金を引き出した。冷戦後の状況変化が、それを可能にした。だが、日本の政府・企業からの補償を求める在韓被爆者の訴訟が相次いでいる。
 「私は賠償の額を問題にしているのではない。侵略主義を反省、精算しない態度がいけない」。辛さんが最後まで気にしたのは、日本の軍国主義復活であった。健在なら、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法や日の丸・君が代法制化の動きをどう見るだろうか。
 五月の「ハーグ平和市民会議」で後継者である崔日出・韓国原爆被害者協会会長は自らの被爆体験を踏まえて、核廃絶を強く訴えた。辛さんもモデルになった丸木伊里・俊夫妻」の「原爆の図」を、韓国で展示しようという市民レベルの計画もある。辛さんの志は平和の地下水脈に浸透しつつあると思いたい。
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 以上の拙文は、朝日新聞「ミニ時評」欄に執筆したものである。新聞文章ゆえに、辛さんの軌跡に歴史性を持たせようとして堅苦しくなったのは否めない。
 改めて辛さんとお付き合いした歳月を思い起こすと、年長者に対して失礼だが、かけがえのない友を失ったという気持ちがこみ上げる。それは、辛さんが持っていた人間らしさ、温もりが消えてしまったんだなあ、という寂寥感だ。
 東京で、広島で、長崎で、ソウルで、辛さんの人間性を感じる瞬間が数多くあった。
 ケロイドをなでながら、「この顔をみて子供が怖がるんですよ」と語るとき、何ともいえぬ寂しさを漂わせた。かと思えば、屋台で酒を酌み交わす時、日本政府に対する憤懣をぶちまけ、騎虎の勢いで「日韓の市民同士、団結しましょうや」と拳を振り上げるのだった。どちらも本当の辛さんだった。が、心底にあったのは政治の谷間に置かれたうえ、日本社会での差別を肌で知った孤独感だったのではないか。
 その辛さんの、絶叫して訴えたいような状況を変えていく努力が、残された者に課せられている。
 道は遠い。しかし、今回の市民会議総会で平岡敬さんが指摘されたが、メディアの一員としても、在韓被爆者の要求を書きつづけていくしかない。
 最後に辛さんのナマの声を再録したい。
(『被爆韓国人』から)
「しっかりしんさいや韓国被爆者/病床に寝ているあんたこそ、いくらでも訴えるだけの言い分があるのでっせ/団結しなさいや。組織しなさいや。声を大きく出しなさいや……」。これはそのまま、在韓被爆者支援に関わろうとする日本人へのメッセージであることに気づく。
 辛さん、ありがとうございました。天国で松井さんとゆっくりお話しください 


韓国の原爆被害者を救援する市民の会支部長

豊永 恵三郎

 辛泳洙さん、約三十年にわたる長い運動、本当にご苦労様でした。日本への恨が晴れぬまま旅立たれたのではないでしょうか。日本人の一人として申し訳なく存じます。
 一九六○年代より在韓被爆者運動が始まりましたが、その中心にいつも辛さんがいらっしゃいました。
 一九七一年に私は初めて韓国へ行き、八月十五日にソウルで「韓国原爆被害者協会」を訪れ、その悲惨な状況を知り、一九七二年より「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」に入会しました。
 一九七四年三月、孫振斗裁判が福岡地裁で勝訴し、辛さんは東京都に「原爆手帳」を申請され交付されました。その際私がその証人探しをしたのですが、辛さんの記憶の正確さに驚きました。辛さんが被爆当時勤めておられた会社の上司に会いに高知県へ行きました。 次に会社の関係者で「在日」の人に会いに竹原市に行きました。この人は「朝鮮総連」の関係者でした。当時の政治状況を考え、別の人を探すことにしました。辛さんは被爆後、廿日市町(現在は市)で美しい女医さんに診てもらったと記しておられます。この女医さんも何とか探し当てましたが、あれから三十年も経過していたのですから、その女医さんの美貌は年相応のものに変化していました。その後辛さんが女医さんに再会されたかどうか、私は覚えていません。辛さんは几帳面に日記をつけていらっしゃったようですが、それはどうなったでしょうか。
 一九八七年の在韓被爆者の二十三億ドル要求に対して、一九九○年日本政府はわずか四十億円を払うことを決めました。それ以後辛さんは毎年日本政府と交渉されました。一九九四年、体調もよくないのに来日され、五十嵐官房長官(当時)と面談し、その冷たい態度に立腹されました。その後広島にもいらっしゃいましたが、大層お疲れのようでした。これが私の辛さんの見納めでした。もっとゆっくり色々とお話を聞いておけばよかったと思います。帰国後、病の床につかれたようでした。
 「市民の会」では昨年末、松井義子会長を失いました。今度は辛さんの悲報です。父を亡くした気持ちです。
 長い間の運動、本当にお疲れさまでした。これから私たち「市民の会」は皆で力を合わせてがんばるつもりです。天国で松井さんとゆっくり話し合いながら私たちを見守っていただくようお願い申し上げます。


『辛泳洙さんを偲ぶ会』を終えて

中島 竜美

 去る五月二十六日、韓国原爆被害者協会・元会長の辛泳洙さんが亡くなった。今年の三月、八十歳の誕生日を迎えたところである。
 日韓条約締結二年後、厳しい政治情勢下に在韓被爆者の組織(当初は韓国原爆被害者援護協会)を立ち上げて以来、毎年のように来日して、繰返し被爆者の窮状をわれわれ日本人に訴え続けてきた辛さん。その三十余年の彼の後半生は、まさに在韓被爆者運動の歴史を体現したものであった。
 それだけに彼の交流範囲は広く、その足跡は全国各地に及んでいる。
 東京での『辛泳洙さんを偲ぶ会』は一カ月遅れの月命日に行われた(於・杉並区南阿佐ヶ谷『劇団・展望』)。参加者は三十人足らずのささやかな集まりだったが、古くは孫裁判当時から辛さんとかかわりのあった方々や、遠方からかけつけて下さった人達もあり、東京在住の三男・辛祥根(シン・サングン)、孫僖蓮(ソン・ヒーリョン)夫妻の愛嬢・辛僖(シン・ヒー)ちゃん(三歳)も加わって終始なごやかな『偲ぶ会』であった。当日残念ながら参加されなかった十人以上の方々からも、心のこもったお便りや「辛さんに贈る言葉」がとどけられ、辛さんの懐の深さとその人柄を改めて思い知らされた次第である。尚、予想外のこととしては、間接的にこの日のことを伝え聞いた、五十嵐元官房長官から、花束がとどけられたことを申し添えておきたい。
 振り返ってみれば、東西冷戦真只中の七〇年代は、朝鮮半島をめぐる南北問題が重なり、日本に於ける在韓被爆者問題はスタートからして、イデオロギーが先行する時代であった。
 そうしたさなか、釜山から原爆症治療を求めて密航してきた「孫振斗」事件では、組織的な救援運動が組まれなかったばかりか、日韓両体制からの圧力もかかる中で、辛さんが「孫さんの事件は韓国被爆者全体に問題です」と、積極的に支援を申し出た時の、勇気ある決断を思い出す。その後、大阪を中心として在韓被爆者救援運動と孫裁判支援の市民運動とが、互いに補完し合いながら最高裁判決までこぎつけたのも、辛さんが市民運動動向の接着剤になってくれたお陰である。
 そして八〇年代−。「被爆者補償問題」にクサビを打ちこんだ最高裁・孫判決をうけて、日・韓被爆者対策が同時並行的に政治問題として浮上、辛さんは在韓被爆者運動の先達として、日本政府が初めて打ち出した「渡日治療」への対応を迫られることになった。
 これまで棄民同様に放置されてきた在韓被爆者側の提起(孫裁判)によって、日本政府がこれまで行ってきた被爆者対策の理念が問い直されるべき時期に、厚生大臣の私的諮問機関である基本懇(被爆者対策基本問題懇談会)が、実は「理念」の見直しではなく、「最高裁判決」の見直しを行っていたことがやがて明らかになっていった。その後、八一年から始まった「渡日治療」は、五年たった八六年末で打ち切られ、それ以降は日本から何らの対策も行われなかった。翌年、辛さんが先頭に立って二三億ドルの補償要求を日本政府に突きつけた背景には、これまでの仕打ちに対する激しい怒りがこめられていたと私は思う。
 その意味から言っても、九〇年五月の廬大統領訪日に合わせて行われた「訪日団」によるデモンストレーションは、これまで辛さんが行ってきた活動の中でも特筆されるべきことであった。しかし、結果は在韓被爆者に対する口封じともいえる治療支援基金「四〇億円」獲得に過ぎなかったのである。
 その後の経過についてはここでくわしくふれる迄もないと思うが、例の基本懇意見書を基に、九五年七月、新法・被爆者援護法が施行され、在韓をはじめ在外被爆者へは適用されないという現実に直面して、在韓被爆者側からは次々に訴訟提起が行われ、今に至っているのである、
 これまでの在韓被爆者運動を振り返ってみると、その間の節目節目には必ずといっていいほど、辛泳洙さんの活動があった。しかし、日本政府による日韓被爆者への分断策が進行し、新法・被爆者援護法制定が目前に迫ると、いち早くその期待が遠くなったことを感知した辛さんは、次第に心痛の度を深めていったことを想い出す。
 いや、それよりもはるか以前から、表には出さなかったが、リーダーとして日本政府代表者と交渉を重ねる中で、心労を増していったことだろう。いよいよ心を病んでからの辛さんとは、それまでのようなコミュニケーションが出来なくなっていたが、それでも生きていて欲しかった。『偲ぶ会』が終わった今、辛さんが遠くへ逝ってしまい、宿題だけが残されたことをしみじみ思い出すのである。


辛さん、ありし日の
     お姿を目に浮かべています
 

江戸川の被爆者 銀林 恵美子

 辛さんと初めてお会いしたのは、十二年前東京で開かれた「在韓被爆者問題シンポジウム」の時でした。その後、ソウルで迎えてくださった時、また東京での再会と何度かお目にかかりました。ユーモアのある優しい方でしたが、一方韓国被爆者のためには毅然とした態度で筋を通す厳しく立派な会長で、多くの信頼を集め長い間、その運動の要でかけがえのない方でした。ようやく、在外被爆者問題が関心をもたれるようになった今日、もう少し辛さんに生きていて欲しかったと思います。本当に残念で、また淋しい限りです。
 一九九〇年私ども江戸川区の第十回原爆犠牲者追悼式にお出でくださり、式典での感銘深いご挨拶、そして夜のとうろう流し、交流会と最後までご参加くださった時のことは忘れません。公園の小川の縁に立って、長身の辛さんがじっと静かに流れゆく灯籠を見つめておられたお姿が目に浮かびます。無理解な日本人への配慮も十分なさって、言いたいことの何分の一もお話しされなかったくやしさもおありになったでしょう。長い活動の日々、どんなに辛抱強く誠実に生きてこられたことか?
 江戸川の追悼式も今年は七月十八日に、第十九回も向かえますが、ご縁のあった被爆者として辛さんのお名前も犠牲者名簿に加え、碑の中に納めさせていただきます。私もいずれ、江戸川の被爆者として、この中に入れてもらいます。いつまでも、私たちと一緒に、そばにいてください。
 辛さんはそこに立っておられるだけで、朝鮮人被爆者の悲しみや怒りが伝わってくる存在感のある方でした。辛さんが原爆で顔を焼かれ、薬を塗ってくれる兵隊から、「おまえ朝鮮か?」と聞かれ、咄嗟に「いや」と否定してしまう。そう言わねば薬も塗ってもらえない状況で、しかしそう答えたことでまた傷つきうちのめされた辛さん。原爆の脅威だけでなく、侮蔑の中で祖国の名さえ明かせない悲劇、これが朝鮮人にとってヒロシマの地獄だったと話されました。私はいつも被爆者問題を考える時、この事を話される辛さんのお顔を目に浮かべ、つい安易に流されていくあいまいな日本人にならないようにと心をひきしめます。
 韓国の被爆者の原点、おかれている現状など、いろいろなことを学ばせて頂きました。私は非力な日本人被爆者として、辛さんのご期待に十分応えていけなかったことのお詫びと感謝の気持ちで、ありし日の辛さんのお姿を思い描きながら、ご冥福をお祈りいたします。