松井義子さんと初めてお目にかかったのは二〇年以上前、東京に「在韓被爆者を救援する市民の会東京支部」ができた頃のことであるが、お名前を知ったのはそのだいぶ前のことである。
直接に松井さんのことではなくて、松井さんたちのグループに関わる話はもっと古く、六〇年安保前後のころ職場の先輩が、松井さんの恩師である政池仁氏のことを引き合いに出して、キリスト者の平和運動でも本当に信頼できるのは、時流に乗る華やかな運動ではなくて、ご自分の生活をかけたじみな運動だとよく言っていたのを思いだす。
いつの間にか手もとからなくなってしまったのだが、「お台所の聖書」という松井さんの著書がある。「わすれな草」という個人誌に書きとめられたエッセイを集めたもので、その気取らない文章の中に松井さんの活動の源泉がみられる思いがする。松井さんには決して押しつけがましくなく、そっと漂ってくる花の香のように離れることのない信仰のかおりがあった。
だが、その信仰は個人的な領域に止まるのではなく、聖書の示す「隣人」、アジアの人々との和解のための活動に向かっていった。その活動の中で松井さんは、私たち教会に属するキリスト者とも信仰をもたない方々や他の宗教者とも親しい交わりをもたれた。
初めてお会いした日、痩身の松井さんは署名用紙やパンフの入った荷物をのせたカートを引いて待ち合わせの場所に来られた。
以来、運動の中で、松井さんが東京に来られる機会がどんどん多くなったが、その時の印象のまま松井さんは少しも変わらず、カートを引いては東奔西走の活動を続けられた。 松井さんは何だか、あのカートを引いたまま天国に行ってしまわれたような気がする。
(山口 明子)
松井さんが亡くなられた。中島竜美さんからお電話でお知らせを受けた時、驚きで言葉もなかった。
松井さんと初めてお会いしたのが、YMCAだったか、在韓被爆者のことであったかは、はっきりしない。以来いつも、あの方の深いやさしさ、そこから湧き出てくる大きなエネルギーに、私は励まされ、支えられてきたように思う。
あるとき、「私は在韓被爆者の方たちに何もしてあげられない。ただ少しでもそばに寄り添って歩くことができたらと思う。それだけ」と言われた。まさに何よりも大切な核心、しかし本当に難しいことを謙虚に、人間の生きる証しとして歩まれた方だった。
ある頃から、松井さんの「忘れな草」を折にふれ送って頂くようになる。その中で、特に「天国名簿に寄せて」にはいつも心うたれた。亡くなられたお一人一人、(多くは「祈りの友」、結核のクリスチャンが午後三時を期して祈り合う仲間の方)への想いと感謝を綴られたもので、それぞれに軽からぬ病や障害を負つつ、互いに支え合って歩み、在韓被爆者、在日外国人その他の方たちを覚えて働かれた方々である。ある重度脳性小児麻痺の方は遠路、一人旅して訪れ、幼児を膝に抱えた松井さんを驚かせたが、帰宅後「生きてて良かった」という便りをくださった由。それから三十余年、自立生活を語る彼の最後の手紙を松井さんは紹介している。
それらの文には、単に「死者を記念する」ものではなく、人間の生き方、在りようの深い意味を示すもので、ご自身を語って余りあるものと感じた。それらの中から一部をここに掲げて、松井さんに送るに当たり、皆様と分ち合いたいと思う。
「生きるってすばらしい!よく生きた人の死はあたたかい。残った者をこんなにも力強く支えてくださるのだから」
(渡辺 峯)