パネルディスカッションのあと、近くの中華料理店でささやかな交流会をもった。今年訪韓された被爆者の方たちも多く参加され、うちとけた形での交歓がなされた。その折りの在外被爆者たちのお話を簡単に紹介する。
爆心地から一・三キロで被爆。相生橋で李偶公を助けた。被爆後、特にブラジルへ行ってからは生きていくためにただ一生懸命だった。今日は一生で一番嬉しい日。いい会合が持たれて嬉しい。
一九六七年二月、中島さんから資料をもらった。一九七四年、小田川さんが韓国に来て自分たちをバックアップしてくれた。裁判の道は多難と思うが多大な支援をお願いしたい。
三ヶ国の被爆者の代表が一同に会した。私は大学の学徒動員で呉の海軍工廠におり、父を探して入市被爆した。父は見つからなかっ(市民会議主催・11・3)た。原爆が落ち、七十年は草木も生えないというニュースにアメリカへ行った。市の公務員として二年間働き、百メートル道路などを作っていたが、「今申し込めば市民としてアメリカへ行かしてあげる」と通知が来た。被爆問題を避けてアメリカへ行ったのだが、後遺症で亡くなった人が多く、ロサンゼルスの人たちと運動を始めた。
こんなヒドイことをしたアメリカは、今は聖人君子の顔をしている。何故それを日本政府は堂々と言わないのか。被爆者はアメリカに千人。全部の把握は出来ない。日本の援助が必要だ。
一・二キロの地点で被爆した。市女を卒業、女学院大学の動員で衛生試験所にいた。前日の八月五日は日曜日だったが平常通りに出勤し、退庁時に本庁から立ち退き疎開作業の割当がきた。私も行く番に当たっていたが、おなかにおできができて化膿しており、「行かない方がいい」と同僚に勧められた。それでも行くつもりでいたが、朝、家を出てからあんなに止めてくれたのに裏切るのも良くないと考えて、試験場へ行ってまだ誰も来ていなかったので一人で働いているところで被爆した。後ろから爆風を浴び、四、五メートル飛ばされた。疎開作業に行った人は全員亡くなられた。
同僚の方に助けられて生きているといつも思う。夫が被爆者のために会を作ったので、生き残された者として皆さんのお役に立ちたいと協力している。
中学校のとき広島にいた。
敗戦後アメリカに渡り、大学卒業間近で6・25動乱(朝鮮戦争)が始まり、二十一歳で召集され、「日本語ができるから」と日本に送られた。日本では「韓国語を習え」と言われた。今回、韓国のお二人と近づきになれて嬉しい。
小六のとき被爆。兄は福屋の横で被爆、呉の海軍病院に収容されているのを見つけたが、九月三十日亡くなった。義兄、姉は行方不明。十一月博多に行き、一ヶ月船を待って帰国した。二年後に父は胃ガンで亡くなり、母も胃ガンで死んだ。
十六歳のとき、戦争が起こり、志願して22連隊へ入った。三回負傷している。洛東江で足を負傷、さらに砲弾でまた負傷し、最後は手榴弾でやられた。入隊したときの服を除隊のときそのまま着ていた。包囲されて三日も食べないこともあり、死に物狂いで闘った。
除隊後は警察専門学校に入り、その後、警官勤務、一九九〇年名誉退職した。それまでは公務員であり、子どもの結婚のこともあって隠していた。親戚の勧めで協会に加入、若いものが会長になるのが良いとの勧めで引き受けた。私の年齢で日本語を話せるのはほかにいない。
このあと、日本人被爆者の方たちからそれぞれの被爆状況など話も出、この秋の訪韓によって大分考えが変わった、と話された方もあった。
この秋、郭さんの案内で韓国被爆者の写真を撮影された鈴木賢士カメラマン、被爆二世の方、韓国被爆者に熱い思いをもたれるマスコミの方たちも加わり、終始なごやかな歓談がおこなわれた。
この問題に早くから取り組んできた朝日新聞社の小田川興氏は、一九六八年始めて取材のため訪韓し、一九七〇年にもジープで山奥の被爆者を訪ねたが、狭い借家で窓も開いていないのに、「寒い、寒い」と呻吟する被爆者が「メシ食ったか」とこちらを心配してくれたのが忘れられない。
六八年のプサンでは、一家全員被爆した方に「私ら、一番憎いのはテンノウヘイカ」と怒鳴られた、と。
(文責・石川逸子)