長崎の金順吉(キム・スンギル)裁判に続いて広島地裁で行われている旧三菱徴用工の裁判は、今回(一九九八年七月三〇日)で第十一回目の口頭弁論が開かれ、これまで最も長い七十五頁に及ぶ準備書面が提出された。それというのも前回、郭貴勲(カク・キフン)元韓国被害者協会会長の証人出廷を契機に、旧三菱徴用工を先頭にした在韓被爆者総体が未だに無権利状態にあることを踏まえ、h立法不作為fを含む新たな争点を打ち出したからである。
とはいえ、公判の進行を見ると今後充分な時間があるわけではない。最終弁論は今年十二月二十四日と決まり、原告側証人尋問は今回で終りということになった。
今度の証人尋問は戦時中学徒動員で三菱重工広島機械製作所で働いていた下原隆資さんが、当時の朝鮮人徴用工の実情を明らかにするためと、孫裁判にかかわってきたということで、日本政府の在韓被爆者対策等について私が証言することになった。 先づ前半の証人として下原さんが立たれた。一九四四年秋から翌年敗戦の八月まで、旧制県立二中(現観音高校)の二年生から三年生の夏にかけて、動員先で見聞した朝鮮人徴用工について、当時の若者の素直な証言が熱っぽく語られた。特に印象的だったのは、同じ職場で働く朝鮮人に対しては名前(日本名)を呼ぶことも許されず、違反すると職長からだけでなく、あとから学校の上級生にまで殴られたという。
こうした人間関係の差別は、具体的には朝鮮人徴用工の寮に有刺鉄線が張りめぐらされ、監視塔から常に見張られていた等、強制労働の実態が次々に明らかにされていった。
これまでにも原告として当事者の口から多くの証言が語られてきたが、軍国主義下にあっても純粋な若者の目でその実態を鋭くとらえていたという意味で、日本人側の発言にはそれなりのリアリティがあったと思う。
前半の下原証言に時間をさくかたちで私の証言を入れたという経緯であったようで、それぞれの持ち時間は一時間ずつという短いものになった。そのため担当の在間弁護士との打ち合わせで、孫裁判の経緯については簡単にふれ、最高裁判決以降の日本政府の対応\\特に韓国の協会が“日治療打切り”に新たな要求として打ち出した“三億ドルの補償問題”と、その後の日韓交渉によって拠出されたいわゆる“四〇億円(人道的治療支援基金)”の内実について発言することになった。
かって孫裁判では生身の孫さんをかかえ、やれることは何でもやるといった緊張感が常にあって、私自身臆面もなく「入管令違反裁判」と後半の「被爆者手帳裁判(二審)」の二回証言に立った。あの頃は刑事裁判ばかりか孫さんが原告の民事裁判であっても、相手の福岡県・国側は徹底して孫さんを犯罪者扱いにしており、それだけ私の証言の時も反対尋問の追求があった。今回の裁判でも被告席には孫裁判当時と変わらない、否それ以上に各省庁からの面々が出廷していた。いわゆる“四〇億円問題”では日本政府が自ら一回も実態調査もせず、在韓被爆者のニーズも無視した“つかみ金”に過ぎなかったことを証言したのに対して、終始一貫一度も反対尋問は行われなかった。
次回の裁判はこれまで三菱が主張してきた“別会社論”の穴をふさぐ意味から、戦時処理会社だった「菱重」(リョウジュウ)をめぐって九月三日、公判が開かれる。長崎の金順吉裁判第一審敗訴以降、志なかばで亡くなられた原告は、金順吉さん他、広島の原告では崔基昌(チェ・ギ・チャン)さん、金鐘煥(キム・ジョンファン)さん、朴景培(パク・キョンベ)さん、李永憲(イ・ヨンホン)さん、韓達洙(ハン・ダルス)さんが亡くなられている。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
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目白押しに“戦後補償裁判”がくりひろげられる中で「関釜裁判」や「BC級朝鮮人裁判」では、これまでよりも一歩踏み出した判決がでている。今後“立法不作為”の実をとっていくためには、政治の場−個々の国会議員に対する働きかけが、これまでにも増して重要になってくる。在韓(在外)被爆者問題で言えば、中央交渉での日本被団協と在外被爆者団体との一層の連帯行動を期待したいものである。