東友会結成40周年記念韓国ツアーに参加して

東友会事務局次長 世田谷区在住被爆者

三宅 信雄


 東京都原爆被害者団体協議会(東友会)は、結成四〇周年記念事業の一つとして、六月一〇日から一六日までの一週間、在韓被爆者との交流を目的とした韓国ツアーを行いました。参加者は一行二一名(男一一名、女一〇名)、市民会議から及川佐さんも参加して下さいました。参加者の約半分は初めての訪韓で、海外旅行は初めてという者も何人かいました。

 一〇日午後ソウル空港に到着すると、韓國原爆被害者協會の崔 日 出會長と朴源釦事務局長がわざわざ出迎えにきていて下さり、一同感激して握手を交わしました。會長は以後全支部との交流会に参加して下さいました。

 当日夜は、早速協會と同ソウル支部あわせて六名の方がたと夕食を共にしながら交流会を行ない、五三年前の悲惨な思い出とその後のことなど時間を忘れて語り合いました。

 翌、一一日朝、私たちは協會事務所を訪ね、崔日出會長から広島・長崎で被爆した約七万人の朝鮮人のうち生き残って戦後帰国した約二万三千人の被爆者の戦後と協會設立以来三二年の歴史を詳しく伺いました。帰国後すでに多くの方がたが亡くなられ、現在生存している者は約一万三二〇〇人、そのうち協會に登録している人は二三一四人で、全国に七つの支部を組織しているとのことです。

 私たちは、一一日午後ソウルを立って地方に向かい、先ず一二日夜大邱で交流会をもちました。崔日出会長のほか、大邱慶北支部の李碩圖支部長や金分順副支部長・女性會長など十名の方がたとお会いして、厳しい中にも和やかな話に宴が続きました。

 一二日朝、大邱を出発してバスで約一時間半のところにある陜 川に行きました。陜川という村は、慶尚南道の山間にある小さな農村ですが、かつて日本の植民地政策によって農村を奪われて生活できなくなり、広島に移住した者が沢山いたところです。それで、「韓国の広島」といわれる程被爆者が多く、在韓被爆者の約三〇%にあたる四千人(うち協會に登録している人は五九七人)がこの陜川にいます。そこで、一九九〇年に廬泰愚大統領が来日した時に日本政府が約束した四〇億円の一部を用いて、一九九六年に陜川原爆被害者福祉會館が建てられました。土地は韓国政府が購入し、運営は韓国赤十字社が行なっています。主として身よりのない、また病身のお年寄りの被爆者七九人がここに入居しておられ、館長以下一八人の職員でお世話をしておられます。私たちは、お見舞いを兼ねてこの會館を訪れ、白南珍館長からのこの会館建設の経緯、規模、設備、入居者などについて詳しくご説明を受けた後、入居しておられる方がたとしばしの交流の時を持ちました。

 福祉会館を失礼して、近くの食堂で陜川支部の安永千部長など九名の方がたと昼食を共にしながら交流会を行ないました。

 最後に訪れた釜山では、一五日夜釜山支部の車貞述支部長など六名と交流を持ちました。

 このようにソウルから始まって四つの支部の方がたとの交流会を持ったわけですが、どこでもお互いに初対面で、しかも国籍を異にしているのに、五三年前あの原爆の惨禍を受け、また愛する肉親を失うなどの共通の体験をもつ者同士として、まるで旧知の仲であるかのように、まるだしの広島弁で話がはずみ、「広島の兄妹が訪ねてくれたよう」と、とても喜ばれました。中には同じ学校の先輩・後輩であることもわかって、当時の思い出に話が尽きない者もいました。

 しかし一方、「私たちあるいは私たちの親は、日本の植民地政策の中で生活のためにやむを得ず日本に渡ったり、あるいは戦争末期には日本の労働力を補うために日本に強制運行されて広島に住んでいて被爆したのです。そして戦後帰国した後も親戚や村人から差別され、病気と生活で大変な苦しみを味わってきました。それなのに日本の人が受けている被爆者援護法が私たちには適用されません。当時同じ日本人として被爆したのに!」と、日本政府の不当な扱いに憤りの声を聞きました。私たち一同、日本人として自らの政府に力及ばないことに本当に心を痛めました。特に最後の訪問地釜山では、車貞述支部長から、このことを日本政府に強く要求しない韓国政府にも非難が向けられました。しかし同時に、「このような非人道的な核兵器が完全に廃絶されるまで闘う」との力強い言葉に接し、私たちも共に励まされました。

 今回の訪問では、東友会から記念として、昨年日本被団協の手によって作成された四〇枚一組の「原爆と人間展」のパネル一セットを協會に寄贈しました。証言には韓国語訳をつけて各支部をまわして展示するとのことでした。

 前途した日本政府からの四〇億円は、一九九一年と九三年に分割して韓国に渡されましたが、被爆者個人に配ってはいけないという条件が付いているため、止むをえずその利息を基に医療費補助として協会に登録している被爆者一人当たり月九万五千ウォン(約九千円)を支給しているそうですが、陜川の福祉会館の建設費などで元金が減っているので、今後継続できるかどうか危ぶまれています。

 私たちは、そのほかソウルでは南山公園にある安重根義士記念館や景 福 宮の国立民族博物館を見学し、一二日には、天安の近くにある独立記念館を見学しました。この記念館は、全国民の募金によって一九八七年に完成したもので、七つの展示館からなり、日本の植民地時代の抗日運動や独立運動の模様が展示されています。また、一四日には、「韓国の奈良」と言われる新羅の古都慶州を一日かけて十分に見学し、韓国の歴史と文化を学ぶことができました。

 これら各地の見学によって、古くから日本と韓国は文化の上で深い歴史的つながりを持っていること、特に釜山と日本の九州は昔から本当に一衣帯水の中にあることを学びました。また韓国は、日本から独立した後も三年にわたる朝鮮戦争によって廃墟と化した国土を近代的に復興した都市や農村を目の当たりにして、現在の韓国を再認識した者も多くいました。

 最後に、日本の被爆者団体と在韓被爆者との公式な交流について思い起こしてみると、一九九〇年に在韓被爆者一五名が訪問して日本各地の被爆者団体と交流したのが初めてで、その後ソウルで毎年八月六日に行われる「韓國原爆犠牲者追悼式」に、一九九四年以来毎年招かれて日本被団協から代表が行っていますが、ソウル以外の地方に日本の被爆者団体が公式訪問したのは、おそらく今回が初めてのことでしょう。今回各地で「このような被爆者同士の交流を今後も続けて欲しい」と強く要望されました。これからもこのような機会のあることを切に望んでいます。