さかのぼって在韓被爆者問題のおもな節目を考えてみたい。
まず、韓国被爆者協会が発足したのが一九六七年。今から三十一年前になる。孫振斗裁判の最高裁判決が出たのが、一九七八年。
この市民会議の発足が、一九八八年。ソウルオリンピックの年であった。それまで個別にこの問題と関わっている者はさまざまいたが、はじめて東京でシンポジウムが開かれ、その延長下、会が作られた。
なぜシンポジウムをおこなったのか。
最高裁判決で、在韓被爆者の権利性は認められた。日本政府はそれまで、日韓条約で解決済みと無視してきたのである。しかし、孫判決によって、原爆被害に対する日本政府の諮問機関である基本懇がその趣旨を打ち消してしまった。そして国家補償のはっきりしない援護法が一九九五年、成立した。この援護法が、日本政府の被爆者施策の最終段階となった。
在韓被爆者は、孫判決によって一度は権利性を認められたのに、結局なされたのは、日本の原爆病院への渡日冶療のみであった。五年間でたった三百四十九人。僅かの人数、僅かの治療で打ち止めとなった。
在韓被爆者協会はうらぎられた思いで、はじめて日本政府に二十三億ドルの補償要求をおこなった。これを受けてのシンポジウムであり、當会の発足であった。
だが、それはなにか役立ったろうか。ほとんど効果をあげていない。日本政府は補償要求には無回答で、一九九○年、四十億円が出された。これが全てである。
援護法についてはどうか。
在韓被爆者が日本に来て申請し、原爆手帳が交付されれば、治療し、また同じく申請により健康管理手当も出る。ただし、あくまで日本に在留しているときだけだ。
現状は、四十億円は目減りし、韓国にいれば援護法の適用がない。
日本の被爆者とどう連帯していくか、アジアの被害者たちの戦後補償要求運動とどう連帯していくかが課題である。
◆ 会場より「手帳はどうしたら持てるのか」との質問。「日本に来れば関係団休・東友会の協力により可能だが、社会保障の観点で戦争被害者と認めていないため、帰国すれば権利を失う。体の悪い人は渡日できない」
被爆者援護法の適用を!という在来の運動をどう展開していくか。
在米被爆者団体の倉本氏から、被爆者国際会議を日本被団協を中心にした形でおこないたいとの提案があったと間く。在米、在ブラジル、在韓、在日と四者になると思うが、おこなわれた場合は、支援・協力していきたい。他の市民団体(在韓被爆者関係)とも相談する予定。
諸裁判の支援も随時おこないたい。
◆ 会場より、「朝鮮民主主義人民共和国の被爆者の実態はわかっているのか」との質問があり、「最近やっとグルーブが成立、二百数十名が登録してと聞いているが、もっといると思うが、全体数はわからない」と。
援護法適用を拒んでいる厚生省通達をどう変えていくかについて、会員同士の意見がさまざま交わされた。