総会記念講演(一九九八年六月二十七日)

金大中体制下の韓国と在韓被爆者問題

小田川 興(朝日新聞編集委員・市民会議会員)


 韓国原爆被害者援護協会ができたのが一九六七年、孫裁判の最高裁判決が一九七八年、在韓被爆者問題市民会議ができたのが一九八八年で今年が十周年になるわけです。実は、私が初めて在韓被爆者の問題で韓国に取材に行ったのは、一九六八年でした。今年で三十年になるわけです。

 金大中(キム・デジュン)大統領は今年の十月に日本を訪問する予定だと聞いております。それに向けて、日本と韓国の間の歴史的問題、漁業協定問題、なかでも目玉は経済問題が話し合われることでしょう。現在、水面下でそのための準備が行われているところです。このような状況のなかで、在韓被爆者問題解決のために市民レベルでどのようなことができるのかを考えるための手掛かりを私なりに提起できればと思います。

 金大中さんが大統領になったこと事態が大変なことだったと思います。彼は一九七一年に野党の四十代の旗手として韓国政界に登場しました。金泳三(キム・ヨンサム)さんと金大中さんという二人の野党のリーダーが、長い間、民主化運動をやってきました。金泳三さんはどちらかというと妥協の野党政治家、端的にいえば彼は牢獄に入ったことはありません。彼は野党を捨てて保守と合流してやっと大統領になれたのです。一方、金大中さんは最後まで野党の立場をくずさず、歴史と時代の変換が追い風になって政権を取ったのです。一九七一年の大統領選挙は朴正煕大統領と金大中大統領候補との熾烈な争いで、票差は五十万票でしたが、当時の軍事独裁政権はありとあらゆる選挙妨害をしたことを考えれば、金大中候補は惜敗したと思います。盧泰愚(ノ・テウ)大統領が当選した一九八七年の大統領選挙では、野党の一本化ができなくて、金泳三さんと金大中さんは二人とも負けました。

 政治改革

 金大中改革の目玉は政治改革、つまり政界再編、それから経済改革、雇用改革です。韓国の政治についていえば、一九七〇年代までソウルのアメリカ大使館に勤務していた外交官のヘンダーソンが書いた本には、渦巻き型の韓国政治という表現があります。つまり中央集権型の政治です。それは李朝時代からの前近代的な政治で、現在でも続いています。金大中さん自身野党の政治家でしたが、自分の党をがっちり握っていました。彼が大統領になれば独裁政治になるのではとよくいわれていました。それは韓国の野党の場合も与党政府からの圧力が相当に強いので、そういう構造なのです。いずれにしても政界再編はその途中にあるというところです。

 経済改革と労働者の失業

 金大中政権にとっての一番の難問は、経済改革です。一九九七年十二月十九日未明、金大中さんは大統領当選が決まりましたが、その日、大統領府、政府から経済状況について色々なデータを見せられて飛び上がって驚いたということです。普通なら当選してほっとして、一九九八年二月二十五日の政権交替までゆっくり勉強して政権構想を練るのですが、そのようなヒマはなくて、専門家の進講をうけたりして夜眠れなくなったとこぼしていました。

 経済改革では財閥改革が出来るかどうかが重要です。幸いにも金大中さんは財閥からほとんど金をもらってこなかった。これまで財閥は与党に一〇〇をあげたとすれば、野党には一をあげていたのです。これは民主化が進むと財閥の悪行を野党議員にあばかれるという心配があったからです。韓国の政治からいえば、一ぐらいはものの数ではないのです。金大中さんは財閥の領袖を集めて、「IMF体制下で自分の財閥を救うためにはまず自分のポケットマネーを出したらどうか」ときついことを言ったりしました。韓国の財閥は色々な企業をかかえこんでいます。これまで開発独裁型の経済のなかで、政府が銀行から金を出させて、財閥はその金を簡単に受けて経営し、色々な企業をつくり利益を上げてきたのですが、金大中政権は企業をしぼるように指示を出したのです。大なたを振るい、日本よりも分かりやすい改革をしています。

 その中で一番の問題は、首を切られていく労働者のことです。たとえば、朝日新聞と提携している東亜日報という新聞社は、社員の規模が七〇〇人ぐらいですが、この春、百数十人の首を切りました。労働者、使用者、政府という労使政の委員会を作って雇用調整の問題も対話によって軟着陸させようとしています。しかし、現在、失業者が百五十万人を越しており、年内には二百万人、あるいは二百五十万人を越すといわれています。人口が四千万人で失業者が二百万人ですから大変なことになります。このような国内問題をかかえて、金大中さんはこの前、アメリカを訪問しました。一番のねらいは経済再建にアメリカの力を借りたいということでした。訪米は成果があがったという評価です。しかし、アメリカ資本がすぐに韓国に入ってくるかどうかわかりません。

 南北問題

 対外課題としては、南北問題、対日問題、対米問題がありますが、当面は南北問題です。金大中さんの政治目標の最終到達点が民族統一にあることは、彼の著書や発言のなかでくりかえし述べられています。彼は独裁政権との闘いのなかでも、韓国が民主化することによって北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)に勝てるという考えでした。すでに七〇年代から北朝鮮は全体主義の色彩が濃くなっていた。韓国が民主化することが北朝鮮の民主化も呼び、統一へのステップが築かれるというのです。彼は三段階統一論ということをよくいいますが、こうゆう交流を通じて国家連合から国家統一までもっていくという考え方です。彼はこの考えを一九七一年の東京での外国特派員協会での会見ですでに発表しています。北朝鮮に対してはいわゆる太陽政策をとっています。旅人のマントを北風で吹き飛ばすのではなく、太陽の暖かさで自然に旅人がマントを脱ぐという、この場合、北朝鮮が対決よりは対話の道をとり、協力するという方向にもっていき統一を図りたいということです。この太陽政策にもとづいて、多くの韓国企業が北朝鮮との合弁なり経済協力ができるような政策が打ち出されたのです。

 「現代」財閥の鄭(チョン)会長が六月十六日に北朝鮮へ行って二十三日に帰ってきました。牛を千頭プレゼントするというのです。トラック一台に雄雌の役牛を、さらにもう一台に肥料を乗せてそれらをワンユニットにして、北朝鮮のあちこちに運んで回ったのです。今回は五〇〇頭で次回は七月に残りの五〇〇頭を運ぶ予定です。それに金剛山(クムガンサン)開発をするということです。「現代」の船を使って韓国から北朝鮮の元山(ウォンサン)という港まで、年間三十万人の観光客を運ぶという計画です。「現代」財閥だけでなく、「三星」財閥なども加われるという計画です。ここには政経分離でいくという金大中大統領の確固とした政策が反映されています。

 南北離散家族の問題も進展してほしいと思います。平壌(ピョンヤン)で家族が再開することは難しいとしても、北朝鮮が北の方につくっている羅津(ラジン)経済特区で再会をする面会所をつくるという話しが水面下ですすんでいます。しかし、北朝鮮は離散家族の再会問題には神経質で最後まで予断を許さないでしょう。

 「従軍慰安婦」問題とサハリン残留韓国人問題

 米朝関係は動いていますが、日朝関係は現在進展していません。このことは日韓関係にも影響を与えています。金大中さんは自分の時代に日韓問題を解決して、恒久的な日韓関係を築きたいと考えているようです。先に述べたように、歴史の問題、漁業協定問題、それに日本文化の開放です。さらに天皇の訪韓問題です。歴史問題はなかなか難しいと思います。今、最大の焦点になっているのは、いわゆる「従軍慰安婦」のハルモニたちへの補償問題です。最近、韓国政府はハルモニたちに独自の生活支援金を拠出しました。韓国挺身隊問題協議会は日本の女性のためのアジア平和国民基金とは正面衝突です。日韓間の歴史にかかわる償いの問題は、歴代の韓国政府と日本政府との間の日韓条約で解決済みであるという解決策をひっくりかえすというわけにはなかなかいかないようです。韓国政府の関係者から話しを聞くと、従軍慰安婦問題についていえば、金泳三政権のときも生活支援した。それをもう一度した。国民基金のことで日本側から話しを持ち出してほしくないというのが彼らの意見でした。

 もう一つの戦後処理問題である、サハリン残留韓国人に対する帰国問題とか、救護の問題がありますが、これまでも韓国政府が赤十字に費用を出すかたちで帰国事業などをやってきたわけですが、なにか新しい事業を考えている気配はあります。

 在韓被爆者問題

 在韓被爆者問題ですが、四〇億円の生活支援金で一応解決されたという歴代の政権がつくってきた枠をこえて、新しい事業計画などをたてることまでは金大中政権は考えていないようです。それではまったく袋小路ですから、どうしたらいいのか。韓国政府関係者も個人補償は別だといっていますし、日韓条約体制に風穴をあけて、なにかできるかということになりますが、これも壁が厚いので、戦略を十分にたてていく必要があります。金大中さん自身が何か講じてくれれば、大統領府や韓国政府がなにか考えるわけですが、金大中さんはどのような考えをする人かということまで入っていく必要があります。ただ、金大中拉致事件の問題でいうと、彼はこの問題で日韓両政府に迷惑はかけたくない。それから責任者を処罰することもやる気はない。ただし、真相は究明すべきである。しかし、自身が大統領になったわけですから、原状回復問題がとりあげられる見込みもないわけです。事件そのものでいいますと、あの頃日本の警察や自衛隊は盛んに動いていました。さらに、最近、東亜日報が当時のKCIA(韓国中央情報部)の事件の内部秘密報告書を暴露しました。しかし、これは新聞報道でして、政権内部から情報が開示されたわけではありません。まだまだやることは多くあると思います。韓国側でも事件に真相解明のための市民の動きがあらためて始まっています。

 在韓被爆者問題にひきよせて、私なりに考えますと、韓国原爆被害者援護協会ができてから、三十年になるわけです。被爆者に関するデータはかなりあるのですから、まさに事実解明のためのデータを整理して、また可能な範囲で調査することもできるのではないでしょうか。歴史的な事実として確立しておくという作業は必要であろうと思います。これまでにあるデータの他の裾野の広いデータ集積も必要ではないか。ソウルの協会の本部のキャビネットにはデータが眠っていたように思いますが、今はどうなっているのでしょうか。それに教会女性連合会などが行った被爆者調査のデータなども再整理してはどうかと思います。

 北朝鮮の被爆者

 被爆者、被害者が日韓条約で切り捨てられ、その後ずっと公式な補償、援護の谷間におかれてきたという指摘が大事です。もちろん、孫裁判でその視点は適格に出されたわけですが。谷間におかれたがために今でも人権を侵害されているという視点でとらえ直すことが大事です。金大中さんの胸中を忖度しますと、そういう作業も大切だと思います。もう一つ、民族統一を目指す大統領の金大中さんにとって、北朝鮮の被爆者も視野に入れて問題提起をしてみることも大切だと思います。ただ、北朝鮮の被爆者については、実態をどこもつかんでいません。北朝鮮にできた被爆者の組織の発表でも、わずかな数しかわかりません。被爆者の数は最大でも五千人、私は三、四千人だったと思っていますが、今から北朝鮮の被爆者の実態を調べるのは難しいでしょう。北朝鮮は日朝正常化交渉のなかで、必ず被爆者の問題を提起してくるだろうと思います。

 問題の提起

 今、日韓歴史研究の韓国側座長である池明観(チ・ミョンガン)先生に昨日お会いして色々お聞きしたのですが、金大中さんが秋に来日する前に一度、歴史にかかわる問題で何を解決すべきかということを洗いざらい出してみようということを、これから韓国の知識人たちが話しをするということでした。そのなかで在韓被爆者問題が入ってくるだろうと思います。教会女性連合会などと在韓被爆者問題をめぐる合同セミナーのような集まりができたらということも考えています。色々なアイディアを出していく段階だと思います。陜川(ハプチョン)の被爆者福祉センターでも被爆者が幸せになっているわけではないし、まだまだ韓国には名前も知られていない被爆者が一万三千人ちかくの被爆者のなかにいるわけです。そのように考えると新政権の誕生は問題を新たに提起する機会だと思います。

 最近、資料を整理していたら、広島市長の平岡敬さんの『偏見と差別』のなかの言葉を珍しくカードに書き取っていました。 

 「加害者を発見するのは朝鮮人自らの仕事であろう。裁かれるのは米国であり、日本であり、そして朝鮮人自身であるかもしれない。しかしその追及こそが、被爆者救援運動の思想的出発点となるものである。」(一六三頁)

 裁かれる側に原爆投下のアメリカがあり、侵略当事者の日本がある。「朝鮮人自身であるかもしれない」というのは、かっての話しでいえば、侵略に荷担した朝鮮人のことかもしれないし、現在でいえば、もしかして韓国政府が今後も被爆者の切り捨てを続けていこうというのであれば、市民レベルから日本政府に対する批判と同様に韓国政府に対してもきびしいことを言っていっても当然だと思います。

(文責・笹本征男)