1944年韓国から強制連行され、広島の三菱重工で強制労働、翌年8月6日原爆を受け、放置され、自力で帰国せざるを得なかった韓国人元徴用工たちが、国と三菱に補償や、未払い賃金の支払いなどを求めて、95年12月10日に広島地方裁判所に提訴した裁判で、いま大詰めにきている。提訴までの経緯について。74年3月孫振斗が被爆者健康手帳交付で勝訴(福岡地裁)した直後5月に「韓国原爆被害三菱徴用者同志会」が結成された。古くから深川宗俊氏の「被爆朝鮮人徴用工行方不明事件」の調査活動もあり、三菱に抗議行動が行われていたが、会結成を機に、三菱重工本社に公式回答を求める行動を起こす。90年9月、同志会から日本弁護士連合会に「人権救済申請」が出て、翌91年3月末日弁連は韓国で実態調査を行った。その手伝いで、私たち市民会議や大阪の市民の会のメンバーも訪韓した。ソウルの南、車で3時間、平沢という小都市があり、この地方一体の当時22、3才の男子が殆ど広島に連行されていた。農耕中に年取った親や妻子から離されて無理やりにかりだされたこと、見知らぬ土地で慣れない厳しい労働、そして原爆の惨禍を受け、後は放り出されたこと、苦労の末たどりついた郷里で、給料の半分は家族に送られるの約束が果たされていなかったことを知る、一人一人の日本政府と三菱に対する恨みは余りにも大きく、言葉に尽くせない。 その後、国と三菱への交渉もあったが、らちがあかず、同志会の人達がしびれをきらして、裁判にもちこまれた。
翌年4月18日に第1回公判が開かれた。第2回には40名が追加提訴で、原告は46名にふくれあがる。「長く苦楽を共にした仲間全員で、命ある限り日本と三菱を告発する」という悲壮な決意で膨大な裁判になってきた。設立当初200名の会員がいま60名程だから、生き残りのほぼ全員が原告。しかし6名がすでに死亡。96年には3回、97年には4回の公判があり、朴昌喚さん、梁基成さんらの証言で、原告たちが被った被害と迫害の事実を法廷の場で明らかにし、日本国と三菱にはげしい怒りと恨みをぶつけてきた。被告側は、大日本帝国当時の天皇の国家の権力作用にに関しては責任がないという「国家無責任論」や戦時中の三菱と現在の三菱は全く別法人という「財閥解体による別会社論」で逃げの一手。原告側は裁判に先立って94年3月に「未払い賃金払い戻し」のため、法務局に名簿閲覧の申請をし、95年2月には「同志会」全国初の供託名簿閲覧を勝ち取っていることを有効に使って、別会社論に反論している。また、戦時中の国家に「無責任」を言い立てるとしても、敗戦後の放置責任はまぬがれないことも追及している。第7回公判では弁護士より、広島地裁あて準備書面を提出しているが、そこでは、冒頭から孫振斗最高裁判決を引用して被告日本国の主張に対する反論を展開している。原爆2法及び被爆者援護法の立法趣旨を孫裁判で「戦争遂行主体であった国が自ら責任によりその救済をはかる……実質的に国家補償的配慮が制度の根底にある」と国家補償の側面を明確に肯定している事、さらに、旧植民地出身被爆者に対する補償責任の判示もある。「属人法」「属地法」の議論に対しては、52年アメリカ信託統治下にあった沖縄に戦傷病者戦没者遺族等援護法適用をめぐっての議論も参照して、日本国は原爆2法および援護法の適用を行う事は可能だと。孫裁判時の国側の「社会保障立法」論の根拠も、手当の所得制限撤廃や特別葬祭給付金支給などでうすれ、援護法は原爆2法における国家補償的性格を一層進めた立法といえ、現行行政は違法のそしりを免れない、と論じている。 今年に入り3月、5月と公判があり、次回は6月25日、7月30日と予定されている。今後の方針としては、被爆問題を中心に証人を認めさせ、早期決審を目指している。