韓国被爆者会長崔日出さんの来日

   


 会長になられてからの初の来日。

 急なため市民会議運営委員のメンバーで短時間、歓迎の時を持つ。

 御両親が慶尚南道金海から日本に渡ってこられ、広島の舟入で生まれられた。

 神崎国民学校六年生のとき被爆。

 その年の十一月に被爆したが、父君は一年後、母君は二年後にともに胃癌で亡くなられた。放射能後障害によるものであろう。

 というのは、二人とも郊外に疎開していたが、行方不明の崔さんの兄を探しに被爆後の市内を歩き回り、残留放射能を多く浴びてしまったからだ。

 崔さんの兄は、当時、大阪商船学校の生徒だったので、本来なら原爆と関わりないところだが、軍の命令で日本占領下の海域に物資を運ぶ船に乗り、幾回も死線をくぐっている。で帰国したときは、三十日ほど休暇を与えられたという。

 一九四五年の八月は、台湾沖から命からがら帰ってきたので、やはり休暇が出、広島のわが家に戻ってきたのだった。

 六日の朝八時の列車で大阪に向かう予定になっていて、予定通りなら無事だったところが、ばったり友人に会い、そんなに急がんでも一日くらい遊ばんね、ということで、繁華街に足を向けた。そして福屋百貨店に入ろうとして、友人が一歩先に入り、兄さんはいままさに入ろうとするところで原爆にやられた。ひどい火傷を負ったまま、比治山へ逃れ、トラックで江田島へ運ばれた。

 そこから探しだされ、疎開先の家へ戻ったのが八月二十五日。翌朝、亡くなられている。 他に姉さんが一人、亡くなられている。

 中学生のとき、朝鮮戦争に従軍、以後警官として生活してこられ、九〇年退職して初めて協会に入られている。子どもが成人するまでは被爆者であることは黙ってきた、といわれる。

 会長として、取り組まれたことは陜川に建てられた原爆被害者福祉会館の問題点。本誌第二〇号での中島龍美氏のレポートにあるように、被爆者協会が勝ち取った一人月額九万五千ウオンの健康管理手当が入居者には出なかったため、入るのをためらう被爆者が多かったのを韓国赤十字に話しして入居者も必要なことをわかってもらい、五万ウオン出してもらうことになった。その結果、入館希望者がふえ、現在六十六名となり、ソウルなどからまで希望者が出ており、近く満員(八十名)になるだろうとのこと。

 金海出身の崔さんは、金海と姉妹都市になった福岡県宗像市、佐賀県肥前町との交流にも文化院顧問として活躍しておられる。

 金海は古代、金官加羅の都。近年、沢山の遺跡が発掘されて日本の古代史解明に大きなヒントを与えている。その当時は金海の人たちは対岸のあの辺に行ってみようか、などいう感じで北九州に渡ってきた、一緒の文化圏だったでしょう、金海の古代を語るとき、目を輝かせる崔さん。

 だが、双方の学生たちの交流に加わるとき、韓国の学生はみな子どものときから日韓の歴史について学んでいるのに、日本の学生は全く無知のため、その落差が激しすぎて困る、とさりげなく言われる。

 韓国は、独立運動犠牲者の遺族、独立運動による生存犠牲者、朝鮮戦争・ベトナム戦争の殉職者、その遺族、四・一八民主化運動の犠牲者、光州運動の犠牲者などなど、手当が必要な人たちがあまりに多いため、被爆者への手当まではとても無理、日本政府に要求するしかない。大体、強制連行でないといっても、あの頃の韓国は土地制度が大雑把で、向こうの川からこちらの丘まで、というふうに自分の土地を考えていた。それが朝鮮総督府に後押しされた日本人があらわれてあちこち縄を張り、ここは自分の土地だと言い張って裁判してもこちらが負けてしまう、先祖来の土地を取られて仕方無く、旧満州や日本へと渡るしかなかった人たちが多かったのだ、とも。

 三代過ぎても、お祖父さんが日本人に殺された人はまだ忘れていませんから。

 温顔、流暢な日本語で静かにいわれる一言一言が痛い。(石川逸子)