私はこの会でお話することが、とても気の重いことでした。ここに中島竜美編・著『朝鮮人被爆者孫振斗裁判の記録 被爆者補償の原点』(在韓被爆者問題市民会議)がありますが、私も孫さんが裁判を始めた頃一九七〇年当時から、孫さんのことは知っていましたが、裁判支援の運動には直接関わりませんでした。当時、私は入管闘争などの運動に関わっていました。孫さんの最高裁判決は、今の戦後補償の運動の原点になっていると思います。一人の人を通して、日本の植民地問題を戦後無視してきたのか、意識的に何もやらないでできたのかということを初めて具体的に顔のみえる形で関わったのは、この孫さんの運動が最初だったと思います。一九九一年ぐらいから戦後補償運動が大きな波になってきました。私が関わっている韓国・朝鮮人BC級戦犯の問題もその中の一つとして、一九九一年にようやく訴訟に踏み切ったのです。その時私の心の中にあったのは、孫さんの裁判のことでした。どんなに苦しくとも、一人の人間の訴えに寄り添いながら、私たちは運動を進めていくことでいろいろなことが見えてくるのではないか。孫さんが最高裁で勝訴するまで、長い時間がかかりました。私はこの『朝鮮人被爆者孫振斗裁判の記録 被爆者補償の原点』を読みながら、思わず涙が出そうになった部分がありました。それは孫さんは大村収容所にもいましたし、裁判は福岡であります。そこに東京の支援の会の人々が行っているわけです。そこにかけられた膨大なエネルギーと金、そのような支援によって最高裁判決を勝ち取ったのだということが、今の戦後補償運動にとって、大きなはげみになります。
私は韓国・朝鮮人BC級戦犯問題に関わってきました。しかし、「戦犯」―――戦争犯罪人――をなんで支援するのかということは、すごく難しい問題です。私は最初にこの人たちことを知ったとき、対日協力して戦犯になったのだと率直に思いました。私は朝鮮人、台湾人がなぜ戦犯になったのかということをお話します。今月の27日に宮崎で台湾人の戦犯が補償要求に裁判を起こしました。資料で説明します。
BC級戦争犯罪裁判で有罪判決を受けた人数は、全部で五七〇〇人ですが、その内、朝鮮人一四八人、台湾人一七三人の数がようやく分かりました。分かった時、一九七五年ですが私はインドネシアのバンドンに住んでいました。その時、バンドンのそばで日本人がインドネシア独立の英雄として顕彰されたのです。そのうちの一人が朝鮮人だったのですが、日本大使館はそのことを一切ふせていました。たまたま式典にでる人が「梁川七星、内海さん、変な名前でしょ、朝鮮の名前だよ」と問題を知るきっかけでした。彼はインドネシアのジャワの捕虜収容所に勤務していて、戦後、脱走してインドネシア独立軍に入って、それで戦ってオランダに銃殺されたのです。それから戦後三十数年経って、他の日本人と一緒に独立英雄としてインドネシア共和国の英雄墓地に埋葬してほしいとインドネシア人が政府に申請書を出したのです。申請書を見てインドネシア政府はこの人たちを新たな独立英雄として英雄墓地に埋葬したのです。このうちの一人が朝鮮人だということを日本政府は隠したまま、元日本兵としてこの人を埋葬したのです。私はその後、梁川七星(梁七星)の遺族を調べて韓国に訪ねました。
私がインドネシアに持っていった資料は十枚ぐらいのものでしたが、朝鮮人が戦犯として処刑されたのが、シンガポールとジャカルタです。朝鮮人戦犯一四八人のうち、一二九人が捕虜収容所の監視員です。残りは通訳です。台湾人戦犯一七三人もほとんどが捕虜監視員です。これはどういうことなのか。
BC級戦争犯罪とは通例の戦争犯罪です。BC級戦争犯罪裁判を行ったのは連合国です。ポツダム宣言の第十項は「我等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ」とうたっています。連合国にとって、日本の戦争犯罪は数々あるが、最も許しがたい戦争犯罪は、捕虜虐待です。日本軍は捕虜になるなと日本兵に教えているのです。日本軍が開戦直後に捕まえた捕虜は二十五万人です。戦争の期間を通じて日本軍は三十万から三十五万人の捕虜を捕まえたのです。その中には広島に送られた被爆した捕虜もいた筈です、記録にはないのですが。長崎にはオランダ人捕虜がいました。私がインドネシアの小さな島に旅行したとき、長崎で被爆したオランダ人捕虜の人に会いました。
連合国は自国の国民に対する日本による戦争犯罪を重視しましたから、朝鮮人に対する戦争犯罪、強制連行などはまったく裁判で裁かれていません。中国(中華民国)は日本軍によって4万人が日本国内に強制連行されましたので、かなり問題になりました。有名なことでは秋田県の花岡鉱山に強制連行された中国人が反日暴動を起こし、戦後、横浜で日本人が戦犯裁判で裁かれました。もう一つ、大阪の築港で強制労働させられた中国人のことで戦犯裁判で日本人が裁かれました。しかし、朝鮮人については、戦犯裁判は一件もありません。
これに反して、連合国のアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアも自国の兵士を虐待した者を徹底して洗い出しました。例えば、戦争末期、市原に落下傘で降下したアメリカ人のパイロットを村民が全員で竹槍で刺殺した事件がありました。市原の村民には箝口令がしかれましたが、この事件は戦後アメリカ軍が横浜法廷で裁きました。BC級戦犯裁判は軍人だけではありません。民間人も裁いています。また、有名な事件では、福岡でも高射砲で打ち落とされたアメリカ人パイロットを日本軍が軍事裁判にかけずに斬首したという西部軍事件があります。これもアメリカ軍が徹底的に調査して、横浜法廷で裁きました。それから『私は貝になりたい』というテレビドラマになった事件があります。この原作を書いた人は加藤さんという、慶応大学出身の学徒兵です。日本軍は日本国内に戦時中、約三万五千人の捕虜を連行しました。その捕虜収容所の所長はだいたい学徒兵を使いました。
日本は捕虜について規定したジュネーブ条約を批准しませんでした。アメリカは戦争が始まるとすぐに、アメリカは日本人の捕虜に対してジュネーブ条約を適用するから、日本もアメリカ人にも適用しろと言ってきました。しかし、日本は「準用します」と答えました。日本が実際にやったことは将校を労務に使いました。一番典型的なのは、泰緬鉄道です。映画の『戦場にかける橋』です。この工事では四万五千人の捕虜が動員されて一万六千人が死亡したのです。だから連合国にとっては、日本軍の捕虜虐待のシンボルは泰緬鉄道です。今度、平成天皇がイギリスに行きます。その時イギリスの元捕虜の人たちが「クワイ河マーチ」の口笛を吹いて抗議の意思表示をするといっています。このイギリス人元捕虜も補償要求をしています。
こういう大量に捕虜を捕まえた段階で日本がやったことは、一つは、国内の労働力の不足のために捕虜を労務に使うことでした。国際条約では将校は労務に使うことはできません。しかし、日本は使いました。三万五千人を日本国内に連行しました。
もう一つは、三十五万人からの捕虜を日本国内に連れてこれません。だから、日本に連行できない捕虜は、日本軍が占領した東南アジア全域に収容します。捕虜収容所で捕虜の面倒をみるために配置されたのは植民地の青年でした。日本が朝鮮を植民地にして、皇軍の思想宣伝をしても、英米崇拝の観念が濃厚であった。植民地の人たちに具体的に連合軍の捕虜を監視させることによって、日本政府の宣伝している皇軍は強いというのは事実なのだということを知らせる指標的効果をねらった。こういうふうに、三千人の朝鮮人をタイ、ジャワ、シンガポールの捕虜収容所に連れていき、監視の仕事にあてました。台湾人はボルネオで捕虜監視にあたりました。
私たちはナチスはひどいといいますが、あのナチスでも捕虜は四%しか死亡していないのです。しかし、日本軍に捕まった連合国の捕虜は四人に一人(二七%)死んでいるのです。オーストラリア人は三三%死亡しています。オーストラリアにとって戦闘で死亡した人よりも捕虜で死亡した人が多いといわれるぐらい、捕虜問題は重大なのです。これはアメリカでも、イギリスでも同じです。
ところが戦後日本人は、私もそうですが、捕虜の戦争被害をあまり考えてこなかった。捕虜被害を受けた側の憎悪の深さというものをあまり考えてこなかったのです。
泰緬鉄道では、線路をつくるのは鉄道隊で捕虜を預かるのは捕虜収容所です。私たちが今裁判を支援している、李鶴来(イハネ)さんは泰緬鉄道の捕虜収容所にいたのです。私はオーストラリアで今小学校の校長をしている、泰緬鉄道で酷使された元捕虜の人の日本への憎しみ、それから解放されるためにどれだけの時間と努力が必要なのかを、目の当たりにして捕虜の苦しみの一端を知りました。連合国捕虜虐待では、その他、フィリピンのバターン死の行進、サンダカンの死の行進があります。
このような日本軍の連合国の捕虜虐待政策の現場に、朝鮮人捕虜監視員はいたのです。三千人の朝鮮人が動員されて一二九人が戦犯になった。このように高い戦犯の比率を出した部隊はないのです。朝鮮人捕虜監視員による捕虜虐待はあっただろうと思います。李鶴来さんも一度オランダ人捕虜をなぐったといっています。それで死刑の判決です。
もう一つ、朝鮮人が戦犯になったケースは民間人の抑留です。東南アジアはヨーロッパ諸国の植民地であった。インドネシアはオランダが三〇〇年間植民地にしていましたから、ここには民間人が約一〇万人いました。日本軍がインドネシアを占領した後、これらの民間人を抑留しました。女性と子供たちが多くいました。一九四三年頃になるとこれらの抑留所は日本軍が管理する軍抑留所になりました。そこに朝鮮人軍属を朝鮮から連れてきて監視員としました。スマランの抑留所ではオランダ人女性が慰安婦とされ、現在、当事者たちが裁判を起こしています。軍抑留所では日本人の下に朝鮮人監視員がいて、その下にインドネシア人がいました。日本の敗戦後、オランダは戦犯として日本人と朝鮮人をほぼ全員逮捕しました。・
このような日本の捕虜政策のなかで朝鮮人、台湾人がおとしめられているということが、ようやく見えてきた。
BC級戦争裁判のなかで有罪になった七%は植民地出身者です。なぜ、植民地出身者が戦争責任を問われなければならないのか。今、裁判をやっている当事者たちは、連合国に文句を言おうと思っていない。捕虜に日本がひどいことをしたと自分の思う。たとえ自分が無知であったとしてもそれに荷担したことは事実だ。だから連合国に対して自分は無罪であると言うつもりはない。それにしても日本の政府に対して絶対言いたいことがあるというのです。最後にそのことを述べます。
日本が戦争に敗北しました。連合国は日本の植民地問題と東京裁判で天皇の戦争責任を問いませんでした。これは連合国の大きな誤りだと思います。もう一つ、連合国の戦争責任は戦争裁判では論議されていません。原爆と投下した責任も議論されていません。
アメリカ、オランダ、イギリスは戦争裁判に関するかぎり朝鮮人、台湾人は日本人として裁けという申し合わせをしています。BC級戦争犯罪裁判では、朝鮮人一四八人のうち二三人、台湾人一七三人のうち二一人が処刑されています。
サンフランシスコ平和条約が発効する前に日本は戦犯をどうするのか話し合いました。平和条約第十一条で連合国が裁いて有罪になった戦犯は日本の法務省が身柄を引き取って拘留を続けることが規定されました。それから、当時、日本と朝鮮は自由に往来ができなかった。日本から朝鮮に引き揚げることはできたが、朝鮮から日本に来ることはできなかった。外国から日本に自由に来ることはできなかった。朝鮮人、台湾人の戦犯はジャワやジャカルタにいるのです。それで特別措置で軍人と戦犯に関しては日本に入国できるようにしたのです。
日本では朝鮮人、台湾人の戦犯は日本人の戦犯と同じように巣鴨プリズンに入れられました。しかし、平和条約第十一条の規定では、「日本国で拘禁されている日本国民」に刑を執行するとあります。平和条約が発効すると朝鮮人、台湾人は日本国籍を剥奪されました。これは孫振斗さんの場合も同じです。朝鮮人、台湾人戦犯は外国人となった。刑の執行は外国人にはできないのですが、彼らは釈放されなかったのです。当時、朝鮮人戦犯たちは人身保護法に基づく釈放要求を最高裁に求めたのです。この時の判決は、刑をうけた時日本国民であった者はその後の刑の執行に影響を与えないというものでした。
その後、日本人戦犯には軍人恩給、援護金などが支給されていきます。しかし、日本は朝鮮人戦犯たちは日本国籍を持たないからということで、これらの援護体制から排除しました。巣鴨プリズンの拘留されていた日本人戦犯には政府から月々千円の金が出ている。さらに、占領軍がいなくなると県人会などから差し入れが山のように来る。しかし、朝鮮人、台湾人は対日協力者なので故郷から見放されている。日本政府から金もこない。だから日本人の差し入れのタバコを貰って一本を三人で分けたというようなことを当事者は話しています。なぜ、同じように軍務につかされ、同じように戦犯として拘留されながら、補償から排除されるのかというのでこの人たちは、自分で運動を始めました。
李鶴来さんたちは、一九五五年四月一日、「韓国出身戦犯者同進会」を結成しました。彼らは釈放されても韓国に帰国できなかった。帰国しても対日協力者として迫害される。ある人は長男で韓国に帰ったが、家族から自分の村からソウルに移り住もうといわれた。ぞれは対日協力者として村で住むことができないということであった。その人は結局、日本に帰ってきた。もう一人は、韓国で奥さんが戦犯になったということを聞いて自殺しています。
日本国内では朝鮮半島から徴用されていますから、日本に身寄りがいない。釈放されてから自殺した人が二人います。「たしかに自分たちは日本に協力してバカだった。しかし、日本政府は自分たちを使うだけつかって、要らなくなったらボロきれのように捨てた日本政府だけは許せない」というのが彼らの思いです。彼らだけで日本政府に謝罪と補償要求を続けています。あるとき何人かの日本人が献身的に支援しました。
私たちは、韓国・朝鮮人BC級戦犯の謝罪と補償要求の運動を支援するために「日本の戦争責任を肩替わりさせられた韓国・朝鮮人BC級戦犯を支える会」を発足させました。どうか皆様の支援をお願いします。
(文責・笹本征男)