笠松坂 東大和市と武蔵村山市が行政境を接する近くに「笠松坂」(かさまつさか)があります。 貯水池を巡る
周囲道路からは、余程注意しないと通り過ぎてしまいますが
中央に見える道は狭山丘陵南麓の芋窪方向へ下ります。 画像左側の丘の上に地蔵尊が祀られていて 左側面に、道しるべが刻まれています。
道しるべから南を見ると丘陵の谷ツに定着した草分けの旧家を最奥に
北側は貯水池の地内で金網に遮られていますが、かっての「石川」への道が残されています。 まだ、人間と動物たちが隣り合って生きていた頃 石川に住む藤兵衛さん 周辺には、今も松の木が見られます。「笠松坂」と呼ばれることから、この一帯は江戸時代には、幕府の御料林で、松林に囲まれていたようです。「東大和のよもやまばなし」は次のように始まります。 こうして、藤兵衛さんは笠松坂を毎日通っていたのです。 『ある朝、いつものように笠松坂をのぽって行くと、先方に獣の姿が見えたので、一瞬足をとめ、よくよ
不思議に思った藤兵衛さんが、こわごわ近よってみると、のどに捨場の肉を食べて骨が刺さって苦しんでいるようです。藤兵衛さんはこわかったけれど、痛かろうと思い、 と云って、骨を取ってやります。狼はうれしそうに首を一つさげて林に入って行きました。その日の夕方です。藤兵衛さんが仕事から笠松坂まで戻って来ると、今朝の狼がでてきて、後についてきます。とうとう家まで送ってくれました。 翌朝、藤兵衛さんが家を出ると、あの狼が待っています。帰ってくると、また、待っていて、家までついてきます。こうして、何日間か、朝晩の送り迎えが続きます。狼はおとなしいのですが、 『藤兵衛さんは気味が悪くてしようがありません。 「狼や、そんな姿でついてくると困る。もう明日からはこないでくれよな」 と云うお話です。青梅の御嶽信仰と結びついて、素朴に御料林と村人のありようが語られています。あれこれ思いを馳せることが多く、つい散歩の時間が長くなります。この話はさらに続いて 『大正の初期に、石川の谷が東京市の水道用水池となることにきまり、藤兵衛さんの子孫は芋窪の原へ引 として、終わります。『』内は「東大和のよもやまばなし」(編集 東大和市自主グループ 郷土史みちの会 お宮は、藤兵衛さん一家の移転と共に、当時は人がまばらな芋窪村の南のはずれに遷されました。現在も鳥居をくぐると正面に「住吉神社」その左側に「藤兵衛さんのお宮」が祀られています。
左側の小さな社が「藤兵衛さんのお宮」
藤兵衛さんが祀った「大口真神」のお札は 笠松坂は史跡に指定されているわけではありません。しかし、周辺の景観と併せると、貯水池ができる前の村の姿と人々の活動を彷彿とさせる基点です。大事にされることを願っています。 狭山丘陵の御料林にまつわる話として紹介しました。貯水池建設前の松林の景観は「東大和市史資料編2 多摩湖の原風景p15」に画像が紹介されています。
笠松坂へは西武バス「大橋」バス停で下車、そのまま丘陵側に入れば20分ほどで着きます。 (2006.07.23.記)
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