青梅・新町村 3

吉野家の囲炉裏

  村はできたが

 困難な中に、村づくりは次第に進みました。そして、寛文8年(1668)幕府の検地を受けるまでになりました。東京百年史に、この検地帳を分析した結果が書かれています。(第1巻 p620)

 総反別158町 畑157町 屋敷9反6畝
    内 92町 新町村から半径10キロ以内の加治丘陵、草花丘陵の40余ヵ村743名の持ち分
       66町 新町村51名 53屋敷

 つまり、約60%が、新田地内には住まない、通勤耕作の「出作百姓」であったことがわかります。 

 市争い

 吉野織部之助の努力により、新町村(しんまちむら)には「六斉市」が立つまでになりました。綿織物や農産物の集散地となりつつありました。成木から江戸へ搬出された「石灰」の運搬路にも当たり(多分、織部之助はそれを狙っていたでしょう)、人の流れ、物流ともに賑わったことが伝えられ、江戸中期には商屋も多く旅籠屋や問屋もできたと云われます。

 しかし、ここで問題が起こります。新町村から4キロ程度しか離れていない「青梅」の市との競合です。文政年間(1800年代始め)から市立ての日付けの問題で双方に争いが始まりました。

 天保3年(1832)、青梅側から奉行所に提訴がなされています。新町村の市立ての横暴を訴えるものです。新町村は新田村ですから、市立ての場合は、競合を避けるため、どこかの村の「市」の権利を買うことによって成立します。その根元を争うものでした。

 結局は新町村は敗訴し、これを機会に、新町村の市は衰微し、宿場としての機能も失ったようです。参考までに、幕末には、居酒屋6軒、穀屋3、反物商2、木綿糸商、たばこ屋、魚屋、青物屋、古物商、薬屋、鍛冶屋、荒物屋、煮売家(にうりや)などが散在したと云われます。 (青梅市史 上 p516,892)

 セットの魅力

 だいぶ、理屈っぽくなりました。飽きられない内に終わります。何と云っても、大井戸が魅力です。そして、景観はすっかり失われましたが、村人のよりどころとなった神社やお寺がセットになって残って居るのが貴重です。

鈴法寺の最初の住職か「元坊」と言われる供養塔

 青梅市教育委員会の「新町地区の文化財案内」によって、その配置をご覧下さい。もし、現地をお訪ねになるなら、都バスの「鈴法寺跡前」で降りて、歩かれるのが効率的です。

青梅市教育委員会「新町地区の文化財案内」から関係地区抜粋
(旧吉野家住宅で配布)

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