青梅・新町村 2 縁(えん)は異(い)なもの 江戸の初めにはいろいろのことが起こります。新町村での出来事もその一つです。新田集落ができると、農民は親村や古村から移住します。生きるか死ぬかの厳しい条件の中での生活です。心のよりどころとして、どこでも寺や神社の新設が課題になります。それが、新町村の場合はひょんなことから実現しました。 なんと、井戸掘りと密接な関係があるのです。水のない武蔵野での新田開発を始める最初の関門は井戸掘りの成否でした。吉野織部之助は慶長18(1613)年8月、井戸掘り職人を求めて、相当の覚悟で行脚(あんぎゃ)を続けます。 この奇遇に織部之助は新田開発の計画を話し、惣太郎はその助力を約します。 鈴法寺(れいほうじ)全景 最初に虚無僧(こむそう)寺ができた そして、早くも、慶長18年9月に、惣太郎は吉野織部之助のもとに来ました。織部之助は開発予定地に屋敷3戸分の土地を寄進して草庵を建てました。上の画像がその場所です。 惣太郎は「月山養風」と号して、葦草村(いぐさむら=川越市)の「鈴法寺(れいほうじ)」の住職でした。そこで、新町村でも、「鈴法寺(れいほうじ)」としたそうです。鈴法寺は新町村に移った後、普化僧を優遇した徳川幕府の庇護を受け、全国にある普化宗括総派(ふけしゅうかつそうは=120余)の触頭(ふれがしら)となり、千葉県の一月寺と並んで関東普化宗の総本寺格の扱いを受けるようになりました。 このため、新町村には諸国から来る人も多くなり、宿も栄えて、毎月6日の六斉市が立つようにもなりました。ところが、明治4年の太政官布告により「普化宗」は廃宗となり、廃寺となりました。明治28年、伽藍も火災に遭い、現在は石の標識と歴代住職の墓石が残るだけになっています。 武蔵野の新田と虚無僧の取り合わせが、一味違った時代劇を思わせます。この経過からでしょうか、鈴法寺跡は東京都の指定旧跡になっています。 鈴法寺に掲げてあった扁額はさすがに立派で、右書きで「武叢禅林」と刻まれています。近くの東禅寺に保存されて、本堂に掲げられています。裏側には文化12年(1815)の年号が刻まれているそうです。 鈴法寺には、鈴法寺薬師と人々に尊ばれた薬師を祀る堂がありましたが、これも東禅寺に移設されて保存されて、現在は新町薬師如来として親しまれています。画像左が扁額、画像右側の山門の右の堂が移設された薬師堂。 神社は権現様(御獄神社) 鈴法寺は特別の感じがありますが、移住者が増えるにつれて、産土(うぶすな)神社が求められてきます。新町村では、開拓開始以来5年後、元和2年(1616)に、開拓の完成、新町村の開村を期して大和の吉野から「金峰山権現」を勧請し「御獄大権現」としてお祀りしました。江戸時代の地誌、新編武蔵風土記稿では「蔵王権現社」となっています。 明治4((1871)年に御獄神社と改称したそうです。 新町御獄神社 現在の祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、押武金日尊(おしたけかなひのみこと) 東禅寺 虚無僧寺は有名になりましたが、日常の生活ではお葬式が重要な意味を持ちます。また、なにより幕府は宗門改めを担当する寺が必要でした。新町村でも現実的な問題になり、お寺を持つことになりました。御獄神社勧請と同じ年、元和2年(1616)に吉野織部之助は根ヶ布(青梅市根ヶ布)の天寧寺に新寺の建立を願い出ます。 しかし、天寧寺には派遣僧が居なかったため、羽村の一峰院から秋岩和尚を招いて、屋敷5軒分を寄進して「東禅寺(とうぜんじ)」を開創したといわれます。場所が開発地の東寄りで、禅寺のところから、この名前が付いたとされます。やがて、建長寺28世覚海禅師を勧請開山として、建長寺末になりました。(青梅市史 上 p514、下 p807)
このお寺に、虚無僧寺「鈴法寺」の扁額と観音堂が保存されています。
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