義高と大姫
1183年、人質として囚われた義高が、婿の名で鎌倉へ送られてきました。 遠く、入間川の川原(狭山市)に義高の伝承が色濃く残ります。
北鎌倉駅からは、建長寺に向かって歩いて、長寿寺の横を右折、登りは急ですが 踏切を渡ってそのまま進むと、角に見えるのが「岩船地蔵堂」です。
ここを通るたびに、立ち止まらずには居られません。歴史好きの悪い癖で、見たこともないのに、途方に暮れた頼朝や政子、凛とした義高、愁いに満ちた大姫の姿が、次々と浮かび上がるからです。中を覗くと、木造の地蔵尊が安置されています。元禄3年のものと云われます。 2001年4月5日に訪ねた際には、『お地蔵様は、当堂建て替えを期に修復することとなり、暫くご不在です。海蔵寺』とのお知らせが扉の前に置かれていました。どうやら、堂は建て替えられるようです。雰囲気が残ればいいのですが・・・。 さて、この堂の床下に、もうひとつ舟型の後背を持った石のお地蔵様があると云われます。しかも、それは、頼朝の長女「大姫」の守り本尊だと説明されます。どうして、大姫の守り本尊がここにあるのか不思議ですが、この堂に引きつけられるようになったのは、これがきっかけでした。 大姫 1170年代、頼朝の周囲には、源氏に恩顧のある若者達が集まり、都からも情報が流れてきます。頼朝もまた、機をうかがって、伊豆を中心に、相模、房総武士との接触を持ち始めます。当然に身近な監視者の取り込みも意識したでしょう。 その一人が伊藤祐親です。頼朝は伊藤祐親に近寄り、祐親息子(祐清)の仲介もあって、娘の八重姫と恋をしたと云われます。八重姫は父の上京中に、頼朝の子、千鶴丸を産みました。平氏をおもんばかる伊藤祐親は怒り、千鶴丸を轟きが淵へ投げ込みます。「蛭ヶ小島」 それを横目に、もう一人、北条時政は特有の勘で時流を読んでいました。頼朝と政子との出会いを黙認し、それでいて、平家の伊豆目代・山木兼隆に政子を嫁がせます。政子は、風雨の夜、山木館を脱出し、頼朝と走湯権現で生活を始めます。打倒平氏の声がそのまわりにざわめきを始めます。 治承4年(1180)8月17日、頼朝は挙兵しました。石橋山合戦に敗れて安房に逃がれ、やがて、三浦、安房、千葉勢と共に戦況を盛り返します。10月3日、4日、武蔵武士の恭順を得て、5日、武蔵国府で武蔵国の指揮を江戸太郎重長に命じ、6日、鎌倉入りをします。そして、11日、別れ別れになっていた政子と再会します。 この間、9月2日、『 御台所、伊豆山より秋戸郷に遷りたまひ、武衛(頼朝)の安否を知りたてまつらず。ひとり悲涙に漂ひたまふのところ、・・・』とあり 10月11日、『 ・・・御台所鎌倉に入御す。・・・』と書き出し、さて大姫は、と期待して追いますが、前から伊豆の阿岐戸郷(あきとのごう=秋戸)から鎌倉に到着していたけれど、日が悪かったので稲瀬川の辺の民家に止宿した。で終わりです。 結局、吾妻鏡は大姫の出まれた年月や場所、容姿、気質などについて、何も書かないようです。他の類書も同じようで、一般に、大姫の生年月日は不明で、治承2年か3年に生まれたとされます。 これに対し、文学者は自由で、永井路子氏は治承2年暮れとし(北条政子)、倉本由布氏も同じ年(海に眠る)として、その顔つき、振る舞いを存分に描きます。咲村 観氏は、治承元年(1178)政子と結婚、治承3年(1179)2月、大姫誕生と設定しています(源頼朝)。 頼朝と義仲の対立 行家は頼朝の処遇に不満を持ち、木曽義仲方に走ります。常陸国では、頼朝の叔父・志太義広が頼朝に反抗し、頼朝と戦い、破れて義仲のもとに逃げ込みます。平家は平維盛を総大将として反撃体勢を作り、総力戦の構えを見せます。 後白河法皇の画策も考えられますが、頼朝と義仲の対立は、平家との全面戦を前に、あわや、味方同士衝突の寸前にまで深まります。そこでとられたのが、頼朝・義仲の和睦策です。今回の主人公である義仲の長子・義高(11才)を頼朝の娘・大姫の許嫁者として鎌倉に送るとする、いわば、ていのいい人質作戦です。 清水冠者(義高) 平家物語はこのくだりを 『
まったく義仲においては意趣おもひ奉らず・・・』として、真実意趣なきよしをあらわさんがために、生年十一才になる嫡子義高を頼朝のもとにおくることを申し出ます。これに対し、頼朝は といって義高を伴って鎌倉へ帰った。その時、義高に海野、望月、諏訪、藤沢などという、聞こゆる兵共をつけた、としています。 「雛人形のように」 平家物語は以上の記事だけで、勿論、無粋な吾妻鏡は幼い二人のことなど書きません。鎌倉でどのように義高が迎えられ、大姫と二人がどのように暮らしたかは、具体的には残されていないようです。そこで、前後の記事から推測をするわけですが、そこは、文学者、歴史学者です。 それぞれに、義高が鎌倉で優遇されたこと、11才の婚約者と5〜6才の大姫は、親たちの政争の具をそっちのけに、「雛人形のように」皆から愛されたこと、ほのかに愛が芽生えつつまれたこと、大姫を思う政子も満更ではなかったこと、などなどをこまごまと作品に描きます。
義仲の死と義高 歴史の場面は一転します。京に入った義仲は、数年来の飢饉のために、兵糧米の蓄えのない部下の狼藉の責めを負い、また、粗野なところもあって、都人には好まれず、京を追い払われるように、朝廷から西国の平氏追討に向かわされます。 倉本由布「海に眠る」では、 「わたしはおまえを殺そうと思っている」・・・ として、頼朝があらかじめ義高に処刑、死を話し、暗に逃げ延びることをほのめかしています。 永井路子「北条政子」では、政子をして 「男の世界のどうにもならない相剋(そうこく)から、せめて義高を守ってやりたい。義高と大姫の、無邪気な愛だけはそっとしておいてやりたい。・・・政子は必死になって羽をひろげて雛を守る母鳥だった。」としています。 咲村 観「源頼朝」では、捕らえた忍者から、義高の身内の反逆を知らされ、義高を 「成敗いたせ!」・・・「では・・・」 吾妻鏡はとても具体的にこの場面を残します。元暦元年(1184)4月21日の条です。 女房等この事を伺ひ聞きて、密々に姫公の御方に告げ申す。よつて志水冠者計略を廻らし、今暁遁れ去りたまふ。この間、女房の姿を假り、姫君の御方の女房これを囲みて、邸内を出でをはんぬ。馬を他所に隠し置きてこれに乗らしむ。人をして聞かしめざらんがために、綿をもつて蹄をつつむと云々。 しかうして海野小太郎幸氏は志水と同年なり。日夜座右に在りて、片時も立ち去ることなし。よつて今これに相替りてかの帳台に入り、宿衣の下に臥して髪を出す。日たくるの後、志水の常の居所に出でて、日來の形勢を改めず、ひとり隻六を打つ。 志水(義高)隻六の勝負を好みて朝暮にこれを翫(もてあそ)ぶ。幸氏必ずその合手たり。しかる間、殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめたまふ思ひを成すのところ、晩に及びてこと露顯す。武衛(頼朝)はなはだ忿怒したまひ、すなはち幸氏を召し禁められ、また堀藤次親家巳下の軍兵を方々の道路に分け遣はして、討ち止(とど)むべきの由を仰せらるると云々。姫公周章して魂を銷(け)さしめたまふ。』 武蔵野の義高
菅谷館跡 大蔵館跡 これからが、武蔵野の歴史です。義高はどこを目指したのでしょうか? 父が過ごした「大蔵の館」、あるいは世話になった「畠山重忠の館」、支持者の多い「信濃」を目指したことが考えられます。義高の馬は踵の音がしないように綿をもつて蹄をつつんでいたようですが、やがて武蔵野を疾駆したはずです。
化粧坂を通ったのでしょうか、それとも、畠山重忠の史跡が集まる横浜を通ったのでしょうか。いずれにせよ、 『 義高さんがここまで逃げてきて、急いでこのお地蔵さんの陰に隠れた。お地蔵さんの加護で、一旦は難を逃れたが、やがて追い手に発見されて、とうとう、討たれてしまった。』 という伝承を伝えます。 この話は、「新編武蔵風土記稿」にも載り、江戸の頃には定着していたことがわかります。地図を書く能力を持っていないため、場所の明示ができなくて残念ですが、入間川を渡って、地元では奥州道・信濃道とも呼ぶ旧鎌倉街道の脇に立っています。 お地蔵さんが先なのか、義高の伝承から地蔵がお祀りされたのかは別にして、何とも云えない場所と雰囲気があります。最初は木造で、明治7年(1874)に石仏に変わったとされます。 義高の生まれたところは、大姫と同じようにはっきりしません。そのため、生地が方々にあるようですが、狭山市の周辺にも「鎌形」説があります。 義仲が、この近くの比企の鎌形(かまがた=比企郡嵐山町)に住んだことがあり、その時に生まれたのが義高だ、との伝承です。嵐山町の鎌形八幡神社に義高の名を刻んだ「懸仏」があることからと考えられています。 また、鎌形八幡神社には「義仲産湯の清水跡」と伝える碑もあり、義仲は大蔵館で生まれたとの伝承を残します。さらに、班渓寺(はんけいじ)には、義仲の妻の「山吹姫」の墓もあります。この辺お国自慢も濃厚ですが、村人にとって、義仲・義高は格別の存在であったことがうなずかされます。 元暦元年(1184)4月26日、藤内光澄が義高の首を持って鎌倉へ凱旋してきます。 さらに、5月1日には、義高の伴類が甲斐、信濃で反逆の動きを伝えます。5月2日には『志水冠者誅殺のことによって、諸国の御家人馳せ参じ、およそ群をなす云々。』と不穏な空気が続いたことが伺えます。 静御前との交流 こうして、義高の事件は、頼朝と政子にとって、大姫の病気という形で大きな重荷となっているところへ、今度は義経の問題が重なってきます。経過は省きますが、義経は東北に追われ、静御前が捕らえられて、鎌倉に送られてきます。 文治2年(1186)4月8日、鶴岡八幡宮で静御前の舞が舞われました。畠山重忠が銅拍子を打ちます。 よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき と静御前が舞ったことに対し 『 二品(頼朝)仰せて云はく、・・・反逆の義経を慕ひ、別れの曲歌を歌うこと奇怪なりと云々。御台所申されて云はく、君流人として豆州におわしたまうのころ、吾において芳契ありといへども、北条殿、時宜を怖れて、ひそかに引き籠めらる。しかれどもなお君に和順して、暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君が所に至る。・・・・』 と、政子の頼朝へのたしなめと静への思いを語り、吾妻鏡の筆は冴えます。このとき、大姫は出席しなかったとされます。 このくだりは、永井路子「北条政子」が多くのページを割いて、真に迫って描きます。また、倉本由布「海に眠る」は、違った手法で、大姫と静の心の交流がお互い「幸せになりましょう」と、しんみりと約束する場を描きます。 当時の頼朝と義経、静御前の関係を考えると、静御前に対する大姫の思い、頼朝に対する大姫の辛辣とも云えそうな心の向きが思いやられます。 頼朝の「日向薬師」詣で、大姫の死 その後も、病状は回復せず、建久8年(1197)7月、20歳?の若さで亡くなってしまいます。『承久記』によれば、不憫な娘の死を悲しんだ政子は、死を決意したと伝えられます。 こうして話題としてきた大姫の守り本尊が岩舟地蔵堂の床下にあるというのです。立ち止まらないわけにはゆきません。 そして、はるか武蔵の入間川には、義高が身を潜めた「影隠地蔵」とともに、義高を祀る「清水八幡宮」があり、その途中の大船には、「木曽塚」があります。口だけの伝承にはしたくなかった、多くの その場を訪ねたいと思います。 「木曽義高塚」は大船「常楽寺」の裏山にあります。北条泰時が建立したお寺で、嘉禎3年(1237)創建、黄檗宗(現在は臨済宗)の立派な構えの山門を持ちます。 北条時頼が建長寺創建に際し、蘭渓道隆をこの寺に招き教えを受けたと言われます。泰時の墓もあり、静かなたたずまいの中に引き込まれるような雰囲気を持つお寺です。この寺の裏山に廻ると、左上画像の「木曽義高塚」があります。 狭山市史によれば、『 義高の死を哀れんだ入間川の里人がその遺骸を埋めて墓を築き、目印に欅を植えたのがそもそものはじまりで、その後廟所(びょうしょ)を転じて神祠を営み清水八幡と称したという。 北条政子の手厚い庇護を受けてから以後は社殿も立派になり、周囲に巡らす朱の玉垣も彩りを増したが、応永9年(1402)8月に当地を襲った暴風雨による入間川の氾濫ですべてが押し流されてしまった・・・』(狭山市史 通史編1 p220)とされます。 神社の中には石の祠があり、それには永享2年(1430)の銘があるそうです。江戸時代末期に、近くを流れる赤間川から掘り出されたものとされます。 義高は生き残った 判官贔屓はどこにもあって、義高にあやかり、その生地を名乗るところがたくさんあります。小諸市や松本市には、義高が元服した話が残ります。 また、義経がジンギスカンになったとの伝えがあるように、村の人々は、義高をどうしても入間川では死なせたくなかったのでしょう、入間川を離れて、栃木県佐野市や田沼町(阿蘇郡)には、事件後、義高は生き残って、田沼町の「山形」に御所を構えた。頼朝の死後、政子の取りなしで、西佐野越前守義基(にしさのえちぜんのかみよしもと)と改めて幕府御家人となって活躍した。とする話が伝わります。(以上 狭山市史 通史編1 p226) 拍手喝采で、何れ資料を集めたいと思います。 「岩船地蔵堂」は妹の墓所
吾妻鏡は、『 建久10年(=正治元年=1199)6月30日、姫君(三幡)遷化す。御年十四。尼御台所の御嘆息、諸人の傷唆、これを記すにいとまあらず。乳母(めのと)夫掃部頭(中原)親能、出家を遂ぐ。・・・今夜戌(いぬ)の刻、姫君を親能の亀谷堂(かめがやつどう)の傍らに葬りたてまつるなり。』
大姫は源氏の菩提寺・勝長寿院に祀られたのではないでしょうか。事実はそうであったとしても、武蔵との結節点に「岩船地蔵堂」があり、義高と大姫姉妹との絆が物語られることは、さらに親しみが湧き、去りがたくなります。 『小雨降る。今日南新御堂供養。本尊は弥勒の像なり。この梵宇は、右大将家(頼朝)の姫君(大姫)御早世の時、御追善のためにすでに建立せられんと欲するのところ、幕下(頼朝)崩御するの間、今かの御素願を果さると云々。・・・』 とあります。政子は67歳であり、早くから大姫の堂をつくりたかったのが、頼朝の死後、ようようその願いが叶えられたようです。実に26年後であり、短い記述ですが、『小雨降る。』の書き出しに凝縮するように政子の心情が伝わります。 金沢街道の南、滑川を大御堂橋で渡り、雪の下4丁目になるのでしょうか、勝長寿院跡には訪れる人も少なく、住宅地の道端に、そこだけこんもりとした木々に守られて、ひっそりと碑が立っています。 「鎌倉」と「武蔵野」が直結して、人間は云うまでもなく、様々な物流と文化の流れが一つの街道を通して、生命を持って輝いていたときの出来事です。アスファルトに覆われて、自動車が連なり、排ガスに顔をしかめる現在ですが、義高と大姫の居場所だけは、いつも用意して置きたいと思います。(2001.8.3.記)
「全訳 吾妻鏡」 新人物往来社
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