村に地頭がやってきた 八王子城が落城(天正18=1590年6月23日)して間もなくのことです。 谷ツに発生し定着してきた集落は 天正18年(1590)7月5日、小田原城が開城され、小田原合戦が終結して1ヶ月 T 徳川家康の江戸入府 1 国替え 小田原合戦が終結した天正18年(1590)、秀吉が更に奥州討伐に向かう中、徳川家康は江戸に移りました(従来8月1日、最近7月23日説が有力)。これまでの駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から、後北条氏の支配地であった、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野と下野の一部の7か国、計240万石の関東への国替わりです。 この時の国替わりは「関東移封」「関東入国」「江戸打入」など言い方は様々。秀吉の家康排除であった、いや、家康の積極的関東進出策だ、秀吉・家康合意のもと・・・などなど、いろいろと背景が分析されています。元文5年(1740)成立とされる『武徳編年集成』(家康の伝記)は、次のように書いています。 『天正十八年四月九日……(中略)……秀吉 是二(石垣山)本営ヲ移シ、神君(=家康)ヲ抱キ 小田原城ヲ指サレ、北条既二我ガ脚下ニアリ、亡ン事 日ヲ歴ベカラズ、彼領スル所ノ関八州ヲ以テ貴客ヲ封ズベキ旨宣フ、神君 厚ク謝詞ヲ述玉フ』 小田原城総攻撃の最中に、石垣山の一夜城で豊臣秀吉が家康と肩を組んで、小田原城を指さして云うには、まもなく北条は滅びるから、そのあとの関八州は家康に任せる。家康は厚く謝意を表した、とするものです。さらに、『徳川実紀』になると 家臣の苦情 『小田原落城の前にさまざまの雑説ありて、北条がほろびし後は、当家の旧地を転じて、奥の五十四郡にうつしかへらるるなどいふ説もあり、井伊、本多の人々、もしさる事もあらば、僻遠の地にかがまりて、重ねて兵威を天下にふるふこと かなふまじ とてひそかに歎息す。 君(=家康)聞しめし、もしわが旧領に百万石も増加せば 奥州にてもよし、収納の善否にもよらず、人数あまためしかかへて、三万を国に残し、五万をひきゐて上方へ切て上らんに、我旗先をささへん者は、今の天下にはあるまじと仰られしとぞ』(『徳川実紀』) と書かれます。ここでは、移封先を奥州54郡とする噂があり、井伊・本多などの重臣たちが苦情を呈した、それにもかかわらず、家康は100万石も増加すれば、それをもって天下を取ると云った、となります。この辺も面白いですが、興味を引くのは、当時の秀吉と家康の関係、新領地への基盤づくり、家臣の配置など、家康の行動です。 @当時、家康は秀吉の一武将に過ぎず、他の戦国大名と同様で など、一つ一つ追うのが大変です。そして、『徳川実紀』はこう続けます。 秀吉もビックリ 『天正十八年七月小田原の城落去しければ、この度の勧賞に北条が領せし関東八州をもて、当家の駿遠三甲信の五国にかへ進らするよし関白申定られしとき、君御遷移の事を御いそぎ有て、同じ八月朔日には はや江戸の城に移らせ給ひ。 又下々に至りては八九両月のころ おほかた引遷りすみければ、大坂へ御使つかはされ、五ケ国引渡さんと有しかば、秀吉大に驚かれ浅野長政にむかひ、三遠甲信の四国はいそがば此頃にも引移るべけれ、駿河は其居城なり、それを引払といふも、速なるも限ある事なれ、いかでかくは弁ぜしならん、すべて徳川殿のふるまひ凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ』(『徳川実紀』) いずれも徳川方が書いたものですから贔屓の引き倒しの所もあることが論ぜられます。しかし、このような中で、武蔵府中御殿の建設が行われ、狭山丘陵周辺地域には家康直属の家臣(後に旗本・地頭)が実際に配置されて来ました。 2 家臣の知行割り あたかも、江戸開府400年、家康が江戸に入って、最初に手がけたという道三堀や小名木川の開削、あっちを削り、こっちを埋め立てるほっかほっかのまちづくり、天下普請の江戸城・・・それぞれに興味が湧きますが、武蔵野に関しては @江戸付近への家康直轄領の設定(蔵入地・御領・天領・幕領・100万石) などが中心になったようで、Dの江戸城から一夜泊まりの地へ配属された直属家臣についての状況を追ってみます。知行割りの原則は @新領国の周辺には、高禄の大名(10万石)と家康の子息、子飼いの家臣など であったとされます。配置された様子を地図で見ると、利根川の北南に上級家臣が点々とつながり、主要道路に代官・直轄地を置き、馬で駆けつければ江戸城まで半日程度のところには親衛隊と、まるで臨戦態勢のように思えます。日野市史はこの点について次のように記します。 『・・・その場合に注目すべきは、多くの上級家臣が、主として北関東の利根川の流域に配置されていることである。このとき軍役を課して軍事力を保持することができた一万石以上の家臣は、四二名に及んでいる。 そのうち三河国出身が二七名、ついで信濃国出身が六名、遠江国出身が三名、駿河国出身が一名で、合わせて三七名となり、三河譜代を中心に旧領五か国の出身が全体の八八・一%を占めていた(藤野保『新訂幕藩体制史の研究』)。 これらによって、上級家臣の配置は、一部に秀吉の介入もあったが、利根川の流域が徳川氏の関東領国体制の北関東における防衛線をなしていたのである。』(通史編2p9) 地図におとせば一目瞭然ですが、私の技術ではうまくゆきません。仕方がないから言葉で並べてみます。是非、一つ一つ、現地に立って後北条氏の頃からの出来事を巡ってみたいものです。 領国の周辺 上野 箕輪(群馬県群馬郡箕郷町) 井伊直政(12万石) 下総 古河(茨城県古河市) 小笠原秀政(3万石) 武蔵 八王子城(東京都八王子市) 廃城 関東十八代官集中配置 鎌倉街道筋 武蔵 府中(東京都府中市) 府中御殿、高室代官 江戸から一夜泊まりの距離(武蔵国南部と相模国)
1 最初の地頭 家康の江戸入府後間もなく、武蔵野の村々には、三河、信濃、遠江、駿河、甲斐などの出身者が新しい支配者として着任したとされます。200石とか500石などの直属家臣です。大勢来たのでしょうが、ほとんどわかっていません。 家康から、天正19年(1591)5月3日と17日に分けて出された「知行宛行状」(ちぎょうあてがいじょう)が僅かに残されていて、その状況を推測することができます。従って、家康江戸入府直後の天正18年の状況はわかりません。 天正19年5月3日 徳川家康知行宛行状
天正19年5月17日 徳川家康知行宛行状
*は日付推定 天正19年・月・日不明 徳川家康知行宛行状
この表は所沢市史、武蔵村山市史、入間市史、瑞穂町史をもとにつくりましたが、関連する各地の市史が、同様にそれぞれ記述しています。家康は、この宛行状が出された天正19年(1591)には、正月から奥羽で起こった葛西・大崎の一揆鎮圧に忙殺されています。3月末には江戸に戻ったようで、7月から8月にかけてまた、奥羽で陣を敷いています。この間に、精力的に事務をこなしたようです。 天正18年8月9日、高力清長(2万石)は岩槻城(埼玉県岩槻市)の防備を命じられています。このように、天正18年はある程度の規模以上の家臣について知行割りを行い、小規模家臣には、翌・天正19年から天正20年(1592)にかけて知行を宛ったようにも思えます。あるいは文書よりも先に現地に着任していて、後に確認の意味で宛行状が出されたのかも知れません。 知行宛行状の文面は一例として 『武州所沢郷之内を以て、三百石出し置く者也、よって件の如し のようになっています。 さらに、入間市史には天正20年分として20人(武蔵村山市史では17人)が紹介されています。この時の宛行状は、多摩・入間郡とともに秩父や比企郡、足立郡、相模、上総、下総と各方面にわたっています。 2 慶安2年頃の地頭 以上のように、狭山丘陵周辺では、家康江戸入府の頃の地頭については、これらの数人の他ほとんど実態がわかりません。それから60年後の慶安2年(1649)頃の様子が、「武蔵田園簿」(江戸幕府が作成)によってわかってきます。 そこには、それぞれの村々が、全て代官かあるいは徳川家直属の家臣によって治められている姿が記されています。主要な交通を挟んだ狭山丘陵の南麓の村に限って紹介します。
下図の通り、村山村は八王子から川越への主要道路、野口村、久米川村、南秋津村は鎌倉街道に接した村で、三ツ木村、中藤村(含む横田村)、芋久保村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、清水村、廻田日向村(下図では廻田)は狭山丘陵の谷ツに成立した村です。 江戸時代の「村山村」は寛永8年(1631)検地帳に箱根ヶ崎、石畑、殿ヶ谷、岸村の4村の総称として使われ、天正19年(1591)5月3日、徳川家康知行宛行状には「村山内三木之村」とあり、三ツ木村も村山村に含まれていました。 (東大和市史p143をもとに作成) 八王子〜河越道、鎌倉街道沿いの村々には代官が配置され、谷ツの村には地頭が配置されました。このあたり、家康の主要街道筋への重点配慮と蔵入地の設置の原則が生きていることがわかります。代官・今井八郎左衛門は関東十八代官として八王子に集中配置された代官の一人です。 ここで面白いのは、天正19年5月3日に「知行宛行状」が出された
の2名が「武蔵田園簿」(慶安2年=1649頃作成)には記載されず、天領として代官支配地になっていることです。約50年の間に変化があったことがわかります。武蔵村山市史では 『藁科氏は、元和2年(1616)知行を上総に移され、糟屋氏ものち将軍家光の弟駿河大納言徳川忠長に仕え、忠長が改易されたのち浪人しており、いずれも市域を去っていた。』(上 p721)としています。 V 地頭の出身地 村に来た家康の家臣は「御家人」、「旗本」、「領主」、「地頭」など様々に呼ばれますが、れっきとした村を支配する領主です。正確な戸数はわかりませんが、平均して20戸〜50戸程度ではなかったかとされます。後北条氏に属していて、帰農して農民になっていた人も含め、村人にとってはこれまで全く関係のない支配者でした。 いかにも国替わりらしく、その出身地が多彩です。家族とともに村に来て、農民と一緒に生活し、地域を開いていった様子が浮かんで来ます。見も知らぬ土地に来て、時には八王子城落人浪人の攻撃を危惧し、村人達とも苦労をしながら融合したのであろうこと、農民側も何かと、とまどいながら支配下に入ったであろうこと、・・・が想像されます。 新しく村に来た地頭の出身地は次のようでした。 家康の家臣(糟屋与兵衛・箱根崎、殿ケ谷村) 瑞穂町史は『もっとも、この糟屋与兵衛という人物には疑問が多く、寛政重修諸家譜七百四十七糟屋家譜には所見がない。与兵衛政忠という者があるが、遠江国(静岡県)で召されて東照宮(家康)に仕えたてまつる、某年死す五十、法名常円とあるのが、これに該当するのか・・・。政忠の子与兵衛吉成は十六歳の時召されて秀忠に仕え、のち駿河大納言忠長に付属せしめられたという。』(p399)としています。 武蔵村山市史は、『忠長が改易されたのち浪人しており』(上p721)としています。 なお、隣接する勝楽寺村にも糟屋新三郎勝忠 (かつただ)が着任したことが、所沢市史に紹介されています。この糟屋氏は相模国の出身で、後北条氏に仕え、後北条氏滅亡後徳川氏に仕えたとされます。『まもなく廃絶した様子であり、糟屋氏は寛政重修諸家譜には載せらていない。これにより、・・・勝楽寺に土着し、農民として続いた。』(上p561)としています。これらから、箱根崎、殿ケ谷村、勝楽寺村には、家康江戸入府とともに、早くから糟屋氏が着任していたことがわかります。 今川氏家臣(大河内兵左衛門・三ツ木村) 代々松平家臣との伝承もありますが、今川氏、武田氏に仕え、武田勝頼没落の時、家康に仕え、慶長5年(1600)死去、江戸に葬られたとされます。その後は正勝、忠次と続き、忠次は武蔵高麗郡に100石を加増され、寛文2年(1662)に亡くなりました。中藤村の長円寺に葬られました。 その子、忠勝は役職に就くことなく過ごしていますが、元禄11年(1698)には の5か村を治めています。忠勝は、正徳2年(1712)死去し、江戸牛込に葬られました。これからすると、忠勝の代には中藤村に住んで領地を治めるのは困難で、江戸に移ったものと思われます。なお、幕末まで、三ツ木村の支配は続きました。 今川氏家臣(藁科彦九郎・三ツ木村) 藁科氏は今川氏、武田氏に仕え、後、家康に仕官した駿河の土豪とされます。三ツ木村にいたのは20数年で、上総周准郡に移りました。 武田の家臣(前島又二郎・中藤村) 前島十左衛門の父・又二郎は武田信玄の家臣でしたが、天正10年(1582)武田氏の滅亡に際し、井伊直政の勧誘によって徳川氏に仕えました。天正20年(1592)2月に知行宛行状が与えられています。文禄元年(1592)には、朝鮮出兵の後詰のために、家康に従って肥前名護屋に行っています。 又二郎は慶長4年(1599)10月死亡。子十三郎重正は秀忠に仕え、慶長5年の関ヶ原の戦いに秀忠と共に出陣しました。後、書院番となって江戸城の警備に当たりました。慶長19〜20年の大阪の陣に出陣し、20年10月死去しました。その子重勝が家督を継ぎ、寛文8年(1668)9月、蔵米取りとなり、任地は天領となりました。 中藤村に残る「馬場」「屋敷山」などの地は前島氏の屋敷に関わるものではないかとされています。 家康の武将(渡辺半蔵守綱・中藤村) 父は「槍の半蔵」として、数々の合戦に戦功を立て、尾張藩の義直の補佐役をしていました。三男の成綱が秀忠に仕え、大阪の陣に加わり、家光に仕えました。中藤村の300石を領したのはこの時と考えられています。 正保2年(1645)の頃、中藤村の百姓と山の利用を巡って出入りがあり、地頭領を確保した記録が残されています。やがて、尾張藩に仕え、明暦元年(1655)中藤村から離れたとされます。 後北条氏の家臣(長尾藤四郎景継・中藤村) 長尾氏が中藤村に知行を得たのは寛永10年(1633)としています(武蔵村山市史上p728)。他氏より遅れて着任していますが、後北条氏の家臣でした。後、徳川家康に仕官し、天正18年の小田原合戦には徳川方として参戦しています。 最初は上総の山辺郡に200石の地を得て、そこに陣屋を構えたとされます。武蔵田園簿では中藤村に96石、入間郡宮寺村に103石を知行地として得ていますので、その頃、武蔵国に移ったのかも知れません。この知行地はやがて中藤村から横田村に分離・独立します。その契機は、寛文9年(1669)10月、長尾氏が蔵米取りとなり、任地が天領になった時ではないかと考えられています。 中藤村で「前島」「長尾」の両地頭が、なぜ、相次いで知行地を離れ、蔵米取りに変わったのか、その理由を突き詰めると、この当時の社会の背景が見えてくるかも知れません。奈良橋村の石川太郎左衛門が知行地を返上して、蔵米取りとなったのは、享保18年(1733)でした。 鎌波の城主(酒井郷蔵と酒井極之助・芋窪村と高木村) 酒井郷蔵と酒井極之助の父・酒井実朝(明)は近江国の鎌波の城主土肥近江守実秀の子でした。落城後に家老の酒井姓を名乗って武田信玄に仕えました。天正10年(1582)、武田氏が滅びると徳川家康に仕えて、芋窪村に来ました。その後、郷蔵昌明(兄)と酒井極之助実次(弟)の子供達に領地を分けました。酒井極之助実次は元和9年(1623)より富士見宝蔵番の頭となっています。 極之助実次は寛永2年(1625)または9年(1632)、墓所を高木村から江戸赤坂に移しました。寛永2年は、地頭に江戸の屋敷が割り当てられた年です。この頃から、地頭は村から引き上げ、江戸へ住居を移したようです。 郷蔵昌明は元禄2年(1689)公金費消の罪で改易、領地没収、以後幕府直轄領(天領)となりました。幕府が直轄領を増やす時に当たります。公金費消という、なにやら現代にも繋がりそうな罪で改易になり、領地を没収される話は結構出てきます。リストラの江戸版かも知れません。 酒井地頭は家族とともに芋窪村に居住し、陣屋跡と墓石が残されて ここで、面白いのが、地元の実力者を伴って大阪の陣に参加した伝承があることです。 ◎新編武蔵風土記稿は、『石井出羽守は、ここの地頭酒井某と大阪御陣にも出たなりしといえど、させる記録はなし』としています。石井出羽守は地元で最も古い創建伝承(慶雲4年=707年)を持つ神社(豊鹿島神社)の神主の先祖です。 初期地頭は関ヶ原の戦い、大阪夏・冬の陣に家康直属の戦闘員として参加しています。その際、地元の実力者・指導者を伴って行った様子が推測されます。当時、地元の実力者になっている人の出自について、多くが武田氏や後北条氏の家臣が帰農して土着、土豪になっていることが伝えられています。 ◎石井出羽守について、研究者は『神主でありながら武士的性格を持ち、また階級的には農民である。「石井」家のような土豪的百姓は、寛永の初め頃には一般的に広範に存在したのではなかろうか』としています。(大和町市研究8、煎本増夫氏) この土豪的百姓は、やがて、江戸幕府が開かれ、地方組織が整備されてくると、村方三役の一人として、名主になって活躍します。 徳川家譜代(石川太郎左衛門・奈良橋村)
代々(三代忠重、四代忠総、五代矩重)の墓石が地元の寺(雲性寺)に残されています。六代からは江戸に移りました。 地頭の墓は狭山丘陵の谷ッの入り口に丘陵を背負うように建てられた寺院の中にあります。画像に見える手前と左は、かって一面の水田でした。 江戸に屋敷地が与えられ、領地も多岐にまたがったことが考えられます。面白いのは地元の寺に残る墓石は八代の安次郎矩純がたてたものといわれます。なぜ江戸に移ってから、旧地に墓をつくったのかが謎です。 石川地頭は、享保18年(1733)知行地を返上して、蔵米取りとなりました。いわば領主から給料取りになったと同じで、幕府の政策の一つとも受け取れます。元文5年(1740)に、奈良橋村から江戸「市ヶ谷」に移りました。 甲州浪人(逸見四郎左衛門・後ヶ谷村) 後ヶ谷村の逸見四郎左衛門は甲州浪人(逸見郷)で、徳川家に仕官。相模、武蔵国で500石を知行しました。村山貯水池に沈んだ集落「杉本」に陣屋がありました。 延宝2年(1674)後ヶ谷村は幕府直轄領になりました。この頃から、地頭から土地を取り上げ、幕府の直轄領とする動きがはじまったようです。それから間もない、元禄3年(1690)には、蔵屋敷4畝6歩が年貢地として高入れされました。領主の土地は農地となり年貢対象になりました。この時点で、地頭は完全に村と関係がなくなりました。家康江戸入府、初期地頭の配置、100年後です。 陣屋を置いた杉本家は、後に代々名主を勤めていますが、元は石井と云い、先祖の石井勘解由は大阪の陣の時、逸見四郎左衛門と共に出陣したとされます。 織田信長の家臣(溝口佐左衛門・後ヶ谷村) 後ヶ谷村を治めた溝口佐左衛門は、祖父が織田信長、豊臣秀吉に仕え、後、家康の家臣となりました。伏見城の大番を勤めました。 元文3年(1738)6月、幕府領になりました。ここでは、典型的な「村切」による、新しい村がつくられたようです。頁を改めて紹介します。 三河出身の譜代(浅井九郎左衛門・清水村) 清水村の浅井地頭は、三河国額田郡の出身で、家康、秀忠に仕え、豊島郡と多摩郡清水村に領地を得ました。「狭山の栞」によれば、『元は橘姓にて、四代目浅井七平次元久の代、改めて藤原姓を名乗る、本国は近江』としています。 赴任した村に陣屋を築き、「成就院」という寺院を開基しました。しかし、延宝9年(1681)江戸小石川へ墓所を移しています。 斯波、織田家の家臣(中川佐平太・廻り田村) 先祖は代々尾張に住み、斯波家に属し、やがて織田信長に仕えました。父が家康に近侍し、長久手の戦、小田原攻め、関ヶ原合戦、大阪の陣に参加し、武蔵国橘樹、都筑、上総国望陀及び廻り田村を領しました。 伊奈家の家老(富田半之丞・廻り田村) 富田家は元和4年(1618)廻り田村の200石を領しました。伊奈半十郎の家臣として埼玉郡、葛飾郡、両川辺領の新田開発に功労があり、功績を認められて将軍家から褒美として得たのでした。伊奈家の葛飾郡赤山(埼玉県川口市)の伊奈家陣屋に屋敷を持っていますが、廻り田村にも陣屋を構えました。 今川氏の家臣(向坂与八郎・野塩村) 野塩村の向坂氏の先祖は今川氏に属し、近江国豊田郡向坂村に領地を得ていました。父の代に家康に仕え大番役を務め、本人は御先鉄砲の頭でした。 お国なまりの坩堝・知行地の分散理由 こうしてみると、村に来た領主は、それぞれが、家康が江戸へ入るまでの間に、戦乱の中で経てきた歴史の背景をそのまま背負って、新しい任地に赴いたのでした。江戸はお国なまりの坩堝と云われますが、文化もしきたりも違った支配者も、急にやってきて受け入れた住民も、さぞ戸惑った事でしょう。 また、大河内兵左衛門のように、5つの支配地を遠く国を離れて持ったり、酒井極之助が同じ地域でありながら芋久保村と高木村を知行し、知行地を1ヶ所にまとめずに分散してもったりしています。これは、家康の方針であったらしく、国分寺市史は『家臣が団結して強い権力を持つのを防ぐために、領主権を細分化したり、在地農民の集団と意を通じさせにくくさせる意図もあったことと思われる』(中巻p5)としています。 いざと云うとき、戦場に身を張る直属家臣ですが、当時としてはこのような配慮が必要だったとは、イヤハヤの気がします。三ツ木村、中藤村の各氏については、武蔵村山市史を参考にしました。同市史、資料には詳しい内容がいっぱい詰まっています。 W 地頭の生活 領主 地頭は独立した領主でした。課税権も農民の使役権も持っていました。すでにいくつかの例を紹介しましたが、課税権・年貢の徴収権をもつっているため、それらの実行とともに、収入源である農民の持つ田畑を検地しています。 また、陣屋を構え、田畑を経営しています。中藤村の前島氏は次のような広大な土地を持っていました。寛文12年「中藤村検地帳」(乙幡泉家文書) 芋窪村の酒井氏は狭山丘陵の大きな谷ツを構成する台地の南面に広大な陣屋と陣屋畑を持っていました。右画像は現在の姿です。 奈良橋村の石川氏は青梅街道を前面に狭山丘陵の谷ッの川を背後にした敷地に陣屋を構えました。屋敷の中に祀った稲荷社を現地に残しています。 地頭が最初に配属された時には、江戸のまちづくり・基盤整備がまだ進まない段階でした。そのため、地頭は家族を連れて、江戸から離れた任地の村々に生活の根拠を置きました。着任の時、住居が間に合わない場合は、地元の勢力家、寺などに一時、仮の住まいを定めたとされます。 やがて、陣屋を構え、自家用の耕作地を持ち、食料や日用必需品を賄うために、農民からは小物成や年貢を徴収しました。少し後の時代の記録の内容から類推すると、馬の飼料のために、藁や大豆が物納され、寝具・衣類用に綿花、灯明用に荏胡麻、その他燃料用に薪・炭など、こまごましたものが徴収されたようです。 地元では「領主様」で、農民は陣屋畑を耕作し、必要な使役に従事し、すでに紹介したように、有力者の家には、地頭とともに大阪の陣へ出陣したとの言い伝えもあり、主従関係に似た空気も生じていたことが推定されます。 江戸へは馬で通い、最初は未整備の江戸城の仮設の施設で業務に従事しました。業務の内容は200〜500石との小禄ですが、徳川氏の家政や奥向きの必需品を供給する役、小姓・親衛隊など主君の側に仕える役が多かったのではないかとされます。(所沢市史 上 p510、武蔵村山市史 上 p721) 江戸への出仕、戦場への出陣には、地元の農民が供として出かけたであろう風景が浮かびます。 裁判も受け持つ 天明4年(1784)3月、廻り田村では吉左衛門と金右衛門の間で、金銭貸借を巡って争いが起こりました。吉左衛門は地頭富田家に訴え出ました。最終的には示談となり訴訟は取り下げられてようですが、地頭の富田家は民事の訴訟を裁く立場にもあったことがわかります。 江戸への引き上げ 17世紀になると、江戸の整備が進み、地頭に与えられる領地の分散化もあって、それぞれの地頭の箇所で紹介しましたように、単独の村から離れて、家族とともに江戸に住むようになりました。 時代が過ぎると、地頭は何らかの理由をつけられては、領地を幕府に没収され、天領化=幕府の直轄地化されています。さらに、知行地を返上して、蔵米取りとなる場合もありました。 領主、家来が常駐しなくなった空き家の陣屋は、村の誰かが「陣屋守」となって留守を管理しました。村を離れて地頭が不在になると、地頭による村の支配は次第に形式的となり、名主以下の村方三役が実務をこなしました。年貢の割り当て徴収は「村請け」となり、村方三役が責任を持って処理する体制がつくられました。その頃、陣屋は廃止され、地元の村か関係者に払い下げられました。 18世紀になると、先に紹介した村々は一斉に武蔵野の原野を切り開き、新田開発に努めます。その実質的指導をしたのは、地頭のもとで力を蓄えた生え抜きの村の実力者でした。 狭山丘陵周辺の村でも、丘陵の中では地頭が江戸末期まで現地を支配し、明治維新を迎えた村もあります。地頭のあり方は様々であったようです。 X 村に地頭が来た時、『村切』がされた? 以上、狭山丘陵南面の麓の村々の地頭について紹介しました。時期は様々ですが、いずれにしても、家康江戸入府と時を合わせて、江戸周辺の村に、家康の直属家臣・地頭が着任したことは間違いないようです。 問題は、地頭が支配した村がいつできたのか、200や500石と収穫高が決められる村がどのようにして成立したのかです。城下や街道筋以外の自然発生的に谷ツに育った「集落」は、地頭が来たとき「村」につくられたように思えます。それを明らかにしたいものです。(2003.02.12.記)
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