与謝野鉄幹と晶子の渋谷時代

明治34年(1901)4月から明治37年(1904)11月まで
鉄幹と晶子は渋谷に住みました。

最初に中渋谷272番地に住み、その後
中渋谷382番地、中渋谷341番地と二度転居しています。
下の案内図の1,2,3,の順番でした。

約100年前のため、その足跡を訪ねるにはすっかり変化しています。

古図を頼りに、明治34年代の状況を復元してみました。
道玄坂と大和田横丁のほんの一部が残されています。図の道玄坂から4までです。
(4はマークシティの中にある 京王・井の頭線 渋谷駅)

幸いに、中渋谷272番地の家がその中に入り、渋谷区教育委員会の表示柱が立てられています。
そこを目当てに、訪ねてみました。

現在の概略図に、かって家があった位置と晶子歌碑のある場を書き入れてみました。

JR渋谷駅「ハチ公口」に出ます。目の前はビル群です。

一番左側に、「109」の建物が目に付きます。

109を右に見ながら坂(道玄坂)の左側の歩道を登ります。

人混みの状況によりますが、数分で「イワキメガネ」の看板が目に入ります。
細い路地があり、左に曲がります。

先が行き止まりのような路地ですが、向かって左側の歩道に

渋谷区教育委員会の建てた「東京新詩社跡」の標柱があります。
中渋谷272番地(現・道玄坂2−6付近)の家があったところで
鉄幹が「麹町区上六番町四五番地」から転居し、そこへ、晶子が上京しました。
渋谷区教育委員会は

 『与謝野鉄幹は明治三十四年(一九〇一)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関誌「明星」を十二号から発行し、晶子も歌集「みだれ髪」を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行いましたが、明治三十七年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くで二度住まいを変えています。

 千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集「恋衣」や「夢の華」などを刊行しましたが、新詩社の機関誌「明星」が百号で廃止される事態となり、、明治四十二年に神田駿河台に移りました。』
 と説明をしています。

渋谷区教育委員会のポールの向こうに細長い建物がありますが、かっては、路地で
そこに3軒の家が並んでいたようです。

標柱から次の転居先である「中渋谷382番地」へ向かいます。
マークシティの下に路地は続き

京王・井の頭線 渋谷駅西口の前を通ると

道は二つに分かれます。復元図では4の位置、概略図ではマークシティと3の間の位置です。
右の道を進みます。

まっすぐに国道262号線までやや上り坂でつながる路です。2番目の角を曲がります。
右側赤煉瓦の建物の先です。

角は、現在寿司屋さんで、全体は右画像のようになっています。
古地図から合わせると、この辺りから、鉄幹・晶子が住んだ3番目の家「中渋谷341番地」になります。

坂は急速に登りになり、屈折しています。
右画像の右側あたりまでが「中渋谷341番地」(現・道玄坂1−6〜11付近)のようです。

341番地あたりから、坂はビルに挟まれて、さらに登ります。

左画像の奥が右画像でこの一帯が、鉄幹・晶子の渋谷時代2番目の住居があった
中渋谷382番地(現・道玄坂1−10付近)と考えられます。

晶子歌碑

 道玄坂をイワキメガネから曲がらずに、そのまま左側歩道を登ります。

道玄坂上交差点の手前左側に、道元坂道供養碑と共に

晶子の歌碑が渋谷区教育委員会によって建てられています。

鉄幹・晶子のそれぞれの家やその活動、歌碑については下記のページをご覧下さい。

中渋谷272番地
中渋谷382番地
中渋谷341番地
晶子の歌碑
石川啄木(東京の軌跡1)

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