鉄幹・晶子結婚、新詩社隆盛
明治34年9月〜明治37年5月
(東京府豊多摩郡渋谷村 中渋谷382番地)

「みだれ髪」の発刊によって、すさましい反響の中
過去と区切りをつけるように、鉄幹と晶子は、新しい家に転居しました。
「明星」16号に

「新詩社を左の処に移せり、少なく番地の改まれるのみ、渋谷停車場より二町なり。
東京府豊多摩郡渋谷村 中渋谷三八二番地 東京新詩社」とあります。

明治34年(1901)9月中旬、中渋谷272番地から一丁(約100メートル)ほど離れた丘の上
中渋谷382番地へ本拠を移しました。 新詩社・渋谷時代の始まりとされます。

丘の上

 『このたび移りし渋谷の新居は高き土地の木立多く、この日頃 朝毎に 二合三合の落粟拾はれ候に、京の北
山に栖(すみ)し幼な時代も追憶(しの)ばれ 後の蕎麦畑より宮益(みやます)の坂ゆく人、青山の家並(やなみ)など望まれて、里居と云うよりは山居の心地致し候。』(「過渡期」)

と鉄幹が書く家です。下の図の2 中渋谷382になります。現在でも、息を切らせて登るくらい高いところです。

 長男の「光」氏がその著、「晶子と寛の思い出」で

 『ちょうど渋谷に、歴史に出てくる名和長年っていう、その人の子孫が男爵を貰って、大きな土地を持っていたんですが、その名和さんの家の借家を借りたんです。』

 と書いています。道玄坂から一度下ってまた登 り、渋谷停車場からも急坂を登る丘であることから、江戸時代も末の地図には、382の地域は一面の畑になっています。上の図の道玄坂から大和田横丁の道路が南北にあるだけで、その両側にまばらにいくつか住宅が点在しています。

 明治になって開発が進み、道玄坂と大和田横丁の道路沿いに家が張り付いて来た様子が追えますが、依然として382は大きな区域で、「畑」の書き込みの中に家屋が点在しています。木立が多く、落ち栗の実が拾える「山居」の状況の一軒を借りたことが わかります。

鉄幹と晶子結婚

 明治34年(1901)9月中旬、鉄幹と晶子はこの家に引っ越し、10月、木村鷹太郎の媒酌により結婚しました(入籍は明治35年1月13日)。鉄幹28 晶子23才です。鉄幹は「武蔵野」で

  井桁(いげた)苔に朽ちて
  竹に沿う井(い)古りぬ
  湯の水汲むと
  夕老婆の手助け
  松の葉くべ
  杉の葉くべ
  かざす手額に煙避けて
  姉様かぶり艶なるや
  慣れぬ里居の君二十

 とうたい、「夏草」で

  鍋洗ふと 君いたましや 井(い)ぞ遠き 戸は山吹の黄(き)を流す雨 (夏草)

 と詠んでいます。井戸は共同井戸だったようで、山吹の咲き乱れる中、カマドに松の葉や杉の葉を燃やし、手をかざして煙を除ける姉様かぶりの晶子の様子が浮かんできます。 晶子のこの時代を自ら書いた小説「親子」では

 『七夫とお浜は笹島の隣りを去って、二町ほども通りから離れた岡の上の一軒屋へ移った。お浜は嬉しかった。七夫の心も何とは知らず嬉しかった。今初めて、この女と一緒に住むような気がしたのである。女の唇は、日となく夜となく男によって潤おされた。』七夫=鉄幹 お浜=晶子(晶子小説集 p187) 

 としています。しかし、みだれ髪の出版によって明星の同人は増加したとはいえ、生活は苦しかったようで、与謝野光 「晶子と寛の思い出」では

 『・・・、いよいよ結婚ということになると、堺の僕のお祖母さんが、箪笥二棹に着物を詰めて送って来たそうです。貧乏だから、それをだんだん一枚一枚質屋へ持って行って流してしまって、おしまいになっちゃうんだよね。それも借りるのは嫌だって言って、買ってもらうの。自分が行くのも嫌で、金尾文淵堂という本屋の主人に売って来てもらうんです。渋谷の家のすぐそばに……道玄坂に質屋さんがあったんです。』(p24〜25)

 と書いています。晶子の

  一はしの 布につつむを 覚えけり 米としら菜と からさけをわれ   (しら菜=白菜、からさけ=塩鮭)

 少しずつの食べ物を買って、ゴッチャにして包んでくる晶子のわびしさが別の実感として偲ばれます。このようにして、明治34年は暮れて新年を迎えます。 明治35年(1902)鉄幹29才、晶子24才です。1月1日付けで「明星」は「第二明星」となり、鳳晶子は与謝野晶子になります。

晶子実家を訪ね、入籍、兄と絶交

 明治35年(1902)1月2日、鉄幹と晶子は関西に下ります。 晶子は実家に泊まり、鉄幹は大阪の文学同好者新年大会に出席します。1月13日、婚姻届を出しています。親からの承諾を得た晶子の晴れ晴れとした様子が玉野花子の手紙によって残されています。

 『「かねて思ひゐし通りの君、まこと乱れ髪の君にて、されど艶よきおぐしを蝶々にとりあげて、濃紫リボンにしら花かざし、まことお年ほどには見え候はず、御自分には二つぱかりも急にふけしやう仰せられ候へど。

 白のお襦袢の上に白茶地のおゑり、金糸も少からずおはして、菊びし更紗がた対のお下着二まいかさね、その上に召し給へるは綾のやうな地に織られて黒に白の二筋縞、名は忘れ候へどこのごろ流行の貴ときもの、くろ厚板の帯高くむすび給ひ、白に紅の小模様ある縮緬の帯上ふさひよく、まこと美くしき方様にて在し候。云々」』(玉野花子から増田雅子宛 中 晧(あきら) 与謝野鉄幹 p97)

 身も華やかに飾り、帰途、鉄幹の親の墓に詣でています。しかし、晶子の兄はこれを許さず、長男・与謝野光は次のように書いています。

 『渋谷の家で二人が結婚する。そしたら鳳の方では、兄の秀太郎が怒っちゃってね。「けしからん」というんで、東京帝大の学生だったから、渋谷の家へ会いに来たんです。そしたら、鉄幹の方も「帰れ」っていうようなことで、玄関で大喧嘩になる。これ有名なのよ(笑)。

 そこで両方で絶交を宣言する。それがずーっと一生続くわけです。母は間に入って困ったろうけど、しょうがないと思ったんでしょう(笑)。』  (晶子と寛の思い出 p23)

伊藤文友館との不和、「白百合」の刊行

 明治35年1月、どうしたことか、これまで、「明星」の発行、販売、「みだれ髪」の発行などに尽力してきた「伊藤文友館」と発売委託を解約します。 明星は明治35年1月から「第二明星」 となり、発行所は新詩社に変わっています。

 鉄幹は理由を伊藤文友館側の契約不履行としたようですが、やはり支払いをめぐるトラブルと考えられています。明星はこの年の6月号は「白百合」 と名を変えます。その理由を

 『「第二明星」は廃刊せり、新詩社は従来の主張たる新文芸趣味の鼓吹(こすい)を更に拡張して実行せむが為に、新たに機関雑誌『白百合』を出すに到れり。・・・

 ・・・西欧文芸の翻訳紹介、新短歌の研究と創作、新体詩の創作と批評、絵画及図案の創作、美文及小説の革新、新俳句の創作、文学美術両界の批評と報道、新進才人の紹介、女流文学の奨励・・・』(「白百合」謹告)

 として、新たな領域拡大を目指したようですが、実質は「明星6号」と全く同じ内容だったとのことで、不評をかいます。そして、7月からは、また「明星」に戻 っています。この辺の鉄幹の行動は不思議です。

明星と対立、敵対する出版

 文壇照魔鏡による攻撃は一旦収まったかに見えましたが、明治34年の暮れから、また別の形で様々な動きが出てきました。一覧にしておきます。

 へなづち集  明治34年11月 阪井弁=久良岐(くらき)著 新声社
 叙景詩論争  明治35年1月   尾上柴舟 金子薫園共著 新声社
 公開状事件  明治35年3月   鷲泉漁郎 鳴皐(めいこう)書店
 文壇笑魔経   明治35年5月   阪井弁=久良岐(くらき)著 文泉社
 魔詩人      明治35年10月 田口鏡次郎=田口掬汀(きくてい)著 挿絵 一条成美 新声社

 いずれも鉄幹批判と中傷で、晶子には好意的な面もありました。これらに対し、鉄幹はあまり騒ぎだてをせず、無視する態度をとったようです。

長男「光(ひかる)」誕生 

  明治35年11月1日 長男「光(ひかる)」が誕生しました。鉄幹29才 晶子24才 です。命名は上田敏でした。子供を産んで晶子は厳しい評論家になります。晶子の評論集に「一隅より」があります。その中の「産屋物語(うぶやものがたり)」では

 『妊娠の煩い、産の苦痛(くるしみ)、こういう事は到底(とうてい)男の方に解る物ではなかろうかと存じます。女は恋をするにも命掛(いのちがけ)てす。しかし男は必ずしもそうと限りません。よし恋の場合に男は偶(たまた)ま命掛であるとしても、産という命掛の事件には男は何の関係もなく、また何の役にも立ちません。

 これは天下の婦人が遍(あまね)く負うている大役であって、国家が大切だの、学問がどうの、戦争がどうのと申しましても、女が人間を生むというこの大役に優るものはなかろうと存じます。昔から女は損な役割に廻って、こんた命掛の負担を果しながら、男の方の手で作られた経文や、道徳や、国法では、罪障の深い者の如く、劣者弱者の如くに取扱われているのはどういう物でしょう。・・・・

 私は産の気(け)が附いて劇しい陣痛の襲うて来る度に、その時の感情を偽らずに申せば、例(いつ)も男が憎い気が致します。妻がこれ位苦んで生死(しょうじ)の境に膏汗(あぶらあせ)をかいて、全身の骨という骨が砕けるほどの思いで呻(うめ)いているのに、良人は何の役にも助成(たすけ)にもならないではありませんか。

 この場合い、世界のあらゆる男の方が来られても、私の真の味方になれる人は一人もない。命掛の場合にどうしても真の味方になれぬという男は、無始の世から定った女の仇(かたき)ではないか。日頃の恋も情愛も一切女を裏切るための覆面であったか。かように思い詰めると唯もう男が憎いのです。・・・』(岩波文庫 与謝野晶子評論集 p32〜33)

 として、男が「切端(せっぱ)詰まった人生」などと云うことがどれ程のことかと論じます。

石川啄木来訪

 明治35年11月10日、17才の石川啄木が来訪します。11月1日 、午前10時、上野駅に着いた啄木は、その夜、中学の先輩、細越夏村(ほそごし かそん)の小日向台の下宿に泊まり、11月2日 、夏村の下宿から1町(約110メートル)ほど離れた、小石川区小日向台町(こびなただいまち)3丁目93番地大館光(おおだてみつ)方に宿を定めます。

 中学校を中退しての上京のため、5年生への編入を目指し神田付近の中学を訪ねますが、叶いません。11月7日、朝、鉄幹のもとへ手紙を投函し、11月9日 、牛込神楽丁二丁目22番地の城北倶楽部で開かれた「東京新詩社 」の会合に参加します。

 鉄幹と啄木は初めて会いました。相互に深い印象を与えあったようです。翌日、10日、光を生んで10日ばかりしかたっていない、ここの家を訪ねてきました。啄木の印象は非常に強いばかりではなく、文壇照魔鏡やその他の非難に傲然として立つ当時の鉄幹や晶子を的確に捉えています。11月10日の日記に

 『先づ晶子女子の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、八畳の一室秋清うして庭の紅白の菊輪大たるが今をさかりと咲き競ひつ玉あり。

 談は昨日の小集より起りて漸く興に入り、感趣湧くが如し。かく対する時われは決して氏の世に容れられざる理なきを思へり。

 氏曰く、文芸の士はその文や詩をうりて食するはいさぎよき事に非ず、由来詩は理想界の事也 直ちに現実界の材料たるべからずと。又云ふ、和歌も一詩形には相異なけれども今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざるべからずと。

 又云ふ、人は大なるたたかひに逢ひて百方面の煩 雑なる事条に通じ雄々しく勝ち雄々しく敗けて後初めて値
ある詩人たるべし、と。又云ふ、君の歌は奔放にすぐと。 又云ふ、日本の詩人は虚名をうらんとするが故にその名の 一度上るや再び落ちんことを恐れて又作らず。我らが友に 於て皆然り、と。

 又曰く、古来日本の詩に最も不完全なり しは比喩の一面にあり、泣董氏の如きは今までの詩界に最 も多く比喩を用ゆる人也と。又云ふ、白星林外諸氏に交は れ。と。

  面晤することわづかに二回、吾は未だその人物を批評す べくもあらずと雖もも、世人の云ふことの氏にとりて最も 当れるは、機敏にして強き活動力を有せることなるべし。 他の凶徳に至りては余は直ちにその誤解なるべきを断ずる をうべし。

  晶子女史にとりても然り、而して若し氏を見て、その面ぼうを云々するが如きは吾人の友に非ず、吾の見るすべては その凡人の近くべからざる気品の神韻にあり。この日産後 漸く十日、顔色蒼白にして一層その感を深うせしめぬ。

  鉄幹氏の人と対して城壁を設けざるは一面尚旧知の如し。 四時また汽車にてかへる。弦月美しく夕の空に高う輝き 秋声幽にして天外雲空し。』(筑摩書房版 啄木全集 第五巻 p17)

 17才の啄木の面目躍如たるものがあります。訪ねた道筋や前後の様子は「石川啄木」のページにまとめてあります。明治35年1 2月 鉄幹は歌集「埋木」を刊行します。小説、美文、長詩、短詩などで一冊にまとめられています。 こうして明治35年は暮れ、明治36年、37年は新詩社の隆盛期を迎えます。その家の跡を訪ねたいと思います。

中渋谷382番地の家

272番地の家の入り口に立つ標識から、マークシティの方向に進みます。
京王 井の頭線 渋谷駅西口の前を通ると

道が二方に分かれます。上記概略図の数字3の辺りです。右の道を進みます。

二つ目の路地を右に曲がります。急な坂道になっています。

坂は急なカーブとなり、なお、登ります。

登りは続き、左右ともビルで埋められています。強いて云えば
左画像の左側ビルの辺りから右画像の道路とビルが、鉄幹達の住んだ中渋谷382になります。
区画整理による市街地整備のため、地図の重ね合わせは不可能です。

ここからは宮益坂が手に取るように見えたと知人は云います。このページ最初の復元図から見ると
鉄幹の云う「宮益坂」「青山の家並」がよく見える様子がうかがえます。

さらに、蕎麦畑であったところに立っても、現在では全く展望がありません。
高さだけは実感できます。

昼休みの時間は多くの人通りがありますが
それを過ぎると駐車をする車の関係者だけのひっそりとしたビル街に変わります。

鉄幹と晶子、そして新詩社、それを取り巻く様々な人々の
エネルギーの吹き溢れはどこへ行ったのか、影も形もなく寂しい限りです。
全体の案内は「鉄幹と晶子の渋谷時代」にまとめました。

その後

 明治36年から明治37年にかけての動きは下の通りです。晶子の父、鉄幹の師・落合直文、山川登美子の夫が死去します。新詩社は隆盛を迎え、山川登美子、増田雅子などが活躍します。そして、明治37年5月、丘の下の中渋谷341へ転居します。

明治36年(1903)鉄幹30
 3月14日 麹町区富士見町 平出露花邸で東京新詩社同人の集まり
 7月5日 新詩社で小集会開催
 7月の明星に山川登美子新詩社に復帰
 9月12日 新詩社で一夜百首会(徹宵会)はじめて開かれる
 9月14日 晶子父宗七脳溢血で死去56才
 11月15日 新詩社で小集会開催
 12月16日 落合直文死去 寛 門生総代として弔辞を読む

明治37年(1904)晶子26才 鉄幹31
  1月15日 晶子、第二歌集「小扇」(金尾文淵堂)刊行
  2月7日 樋口一葉旧居で一葉会
  2月10日 日露戦争布告 第一回旅順港閉鎖
  3月 山川登美子上京
  3月17日 石川啄木「あこがれ」の“夜の鐘”“暁鐘”“暮鐘”を鉄幹宛に送る
  4月 山川登美子日本女子大学英文科予科に入学
     増田雅子日本女子大学国文科に入学
  5月8日 源氏物語講座
  5月29日 毒草(本郷書院)刊行

 これらの出来事は、いずれページを改めて書き込んで行きたいと思っています。

  5月 中渋谷341へ転居

それは中渋谷382番地から、地続きの坂を少し下ったところでした。

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