君死にたもうこと勿(なか)れ・恋衣発刊計画
明治37年5月〜11月 
(東京府豊多摩郡渋谷村中渋谷341番地)

中渋谷382番地の丘の上の家では
経済的には貧困の中、鉄幹と晶子は結婚し
長男「光」が誕生しました。

晶子は最初の詩集「みだれ髪」を発刊しました。賛否、毀(き)・誉(よ)さまざま の評価が飛び交いましたが
若者に支持を受け、新詩社の活動は高まってきました。
石川啄木が来訪、一夜百首会(徹宵会)が開かれるようになりました。

夫婦共著の「毒草」が刊行されました。
今度は「君死にたまうこと勿(なか)れ」です。

またまた起こる、非難、支持、両論の中、丘の一段下
中渋谷341番地に転居してきました。

次男・秀(しげる)誕生

 明治37年(1904)5月、晶子26才 鉄幹31才です。丘の上の中渋谷382番地から 、一段下がって、恐らくいつも見ていたであろう、中渋谷341番地に転居してきました。
 7月2日 次男秀(しげる)が誕生しました。薄田泣菫が命名しました。晶子は

  欠くる期(ご)なき 盈(み)つる期(ご)あらぬ あめつちに
  在りて老いよと 汝もつくられぬ

 と詠み、産屋日記を書いています(明星)。  
 7月10日 新詩社で小集会
 7月26日 明治書院 三樹氏祝いに来て、詩堂を建てる話をします。(産屋日記)
        山川登美子と増田雅子が見舞いにきます。(産屋日記)
 8月13日 麹町中六番町平出露花(修)宅にて小集会
 9月11日 源氏物語講義

 と新詩社の活動が続きますが、源氏物語の講義が行われたようです。この当時の鉄幹と晶子の生活の様子を語るものに、菅原宗四郎が「鉄幹と晶子」で次のような話を伝えています。鉄幹が熱を出している様子から、千駄ヶ谷に移っての事とも考えられますが、ここで紹介します。 

 『浦崎氏は那覇出身で、かねてから歌人山城正忠をよく知り、可なり昵懇(じっこん)であつた關係(かんけい)から、寛先生もよく面倒を見たものらしい。

 或る日、千駄ケ谷だったか、澁谷だったかはっきり覚えてゐないが、浦崎氏が寛先生を訪ねたところ、狭い家で、古い畳の上に、煎餅蒲團(せんべいぶとん)にくるまつて、いやその煎餅蒲團も茣蓙(ござ)のやうな薄い汚れた蒲團に、あの長い足を蝦(えび)のやうに曲げて寝てゐた。

 風邪をひいて熱があるらしく、随分困ってゐた様子だったが、何とその時に私が手土産に持つて行つたのが、朝鮮飴に似た黄金飴なのだ。折箱の上に大きく黄金飴とレツテルが貼つてあるので、これを出すことが、いかにも皮肉らしく、これには私もほとほと閉口したと、彼が煤けた豆煙管のやうな顔に、白い歯をむき出して笑つたことがあつた。而して寛先生も随分貧乏したものだと沁沁(しみじみ)私に語った。』(p8〜9)

中渋谷341番地の家

 中渋谷341の家は382の家から少し下がったところにありました。名和家は多くの貸家を持っていたそうで、その中の一つと考えられます。なぜ転居したのかははっきりしていません。現在では確かめようがありませんが、当時の地図と重ね合わせてみると、現在の道玄坂一丁目6〜1 1番地あたりになるのではないかと推測されます。

 

当時は渋谷停車場から道玄坂へ大和田横丁が通じていて、3の位置にありました。
現在では大きく変わり、推測する以外にないようです。

やや強引に古地図と重ねてみると、図の3の赤印の辺りが中渋谷341に当たると推測されます。

現況は左画像の道路と家を含み、屈折する坂を上り、右画像の右側一帯

上左画像に見えるこの辺りまでと考えられます。
この家への路は「与謝野鉄幹と晶子の渋谷時代」にまとめました。

君死にたまうこと勿(なか)

 明治37年(1904)8月19日、日本は旅順総攻撃(日露戦争)をしました。日本軍は苦戦を重ね、出征していた晶子の弟・寿三郎の所属する第四師団もこの攻撃に参加しました。晶子は、9月1日 明星9月号に

 「君死にたまうこと勿れ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎げきて)

  ああ をとうとよ 君を泣く
  君 死にたまふことなかれ
  末に生れし 君なれば
  親のなさけは まさりしも
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと をしへしや
  人を殺して 死ねよとて
  二十四までを そだてしや(以下略)

を発表しました。これに対し攻撃が始まりました。津村節子 白百合の崖(はて)から引用します。

 『・・・詩は、世上にセンセーションを巻き起した。
 大町桂月は、「太陽」誌上で“国家観念を藐視(びょうし)にしたる危険なる思想の発現なり”と非難し、晶子は「明星」に「ひらきぶみ」と題した反論を載せた。 (藐視・びょうし=みさげる・軽視)

 当節のやうに死ねよ死ねよと申候事、又なに事にも忠君愛国などの文字や畏(おそれ)おほき教育勅語等を引きて論ずる事の流行は、この方  却(かえっ)て危険と申すものに候はずや――

 この問題に対して、角田剣南は、読売新聞に、「理情の弁(大町桂月に与ふ)」を書き、“この詩は理性未だ到らざる至情の声也、而(しか)して詩とはこの情を歌ふものに外ならず、晶子の詩何ぞ咎(とが)むるを須(もち)ゐんや、桂月は国家主義に佞(ねい)し、自ら其非に陥るを悟らざるものなり”とのべた。

 桂月は再び翌年一月の「太陽」に、「詩歌の骨髄」と題し“此の如き詩を作れる作者は、乱臣也、国家の刑罪を加ふべき罪人なり”と糾弾した。

 この桂月の論に対して、鉄幹は二月刊行の「明星」で、桂月との問答形式による「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」を掲載した。・・・・

 晶子の、国家や天皇に対する怨嗟(えんさ)の甚しさを危険とする桂月に対し、鉄幹は、“理性の錯(ま)じらぬ純粋の感情の声”で 、“非国家主義を謡ふとか非難する誣妄(ぶぼう)も亦(また)甚しい”と反論している。この論争は、「明星」のあり方に対して、正しい理解を求める、鉄幹の声でもあった。』(p166〜167)

 大町桂月の糾弾した明治38年1月の「太陽」には、大塚楠緒子(くすおこ・なおこ)の「お百度詣」が掲載されました。伊藤整は次のように云います。

 お百度詣(もうで)

 ひとあし踏みて夫(つま)思ひ/ふたあし國を思へども/三足ふたたび夫おもふ/女心に咎(とが)ありや
 朝日に匂ふ/日の本の/國は世界に只一つ/妻と呼ばれて契りてし/人は此の世に只ひとり
 かくて御國と我夫(あがつま)と/いづれ重しととはれなば/ただ答へずに泣かんのみ/お百度詣 ああ咎あ
りや

 この詩の作者は大塚楠緒子であつた。大塚楠緒子は「君死にたまふことなかれ」を書いた與謝野晶子を援護するために、大町桂月の膝もとへ、同じやうな女性の戦争憎悪感情を投げつけたやうなものであつた。この二人の女性の訴へには眞實の響があることは誰の目にも明らかであり、「君死にたまふことなかれ」とか「ひとあし踏みて夫思ひ」とか我知らず口ずさむ人が多かつた。(日本文壇史 8 p38〜39)

 ここで紹介するいとまがありませんが、「君死にたまうこと勿れ」の2節以降について、様々な論議が続けられました。 

「恋衣」の刊行計画

 騒々しい論争が続く中で、この年3月上京し、4月から日本女子大学に学ぶ山川登美子と増田雅子が中渋谷341の家に訪れるようになりました。山川登美子は明治35年12月22日、夫・駐七郎と死別し、明治36年生家に復籍し ました。明治37年3月に上京して、日本女子大学の英文科予備科に入学していました。

 増田雅子は明星の同人であり、登美子と友達で同じように明治37年4月、日本女子大学の国文科に学んでいました。この二人に晶子を加えて三人の歌集「恋衣」を刊行する計画が進みました。津村節子は、白百合の崖(はて)

 『「恋衣」の計画は、三十七年の夏頃起り、登美子が若狭で夏休みを過して帰京早々、具体化した。新詩社は、九月に渋谷から千駄ヶ谷村に移転し、登美子と雅子は、屡々(しばしば)歌を持って訪れるようになった。』(p167)としています。

 『九月に渋谷から千駄ヶ谷村に移転し』の月は疑問です。さすが鉄幹で、全くめげずに、次の手を打っています。 「恋衣の刊行です。ところが、予期しない問題が起こりました。「みだれ髪」と「君死にたまうこと勿れ」の騒動のもとである、晶子と一緒に歌集を出すことにとまどったのか、明星に「恋衣」の予告が出ると、日本女子大学は10月、山川登美子、増田雅子を停学処分にしました。

 親や鉄幹、明星の同人であり、弁護士である平出修(露花)の尽力で解消されますが、「恋衣」の発刊は翌年の1月に持ち越されました。この間の出来事として尾崎左永子は「恋ごろも」で次のような場面を描いています。

 『教壇で裾模様の紋付姿で三宅花圃女子が講義をしていた。日本女子大学には中島歌子のお伴で歌を教えに来ていた。

 ・・・・
 「みなさん、自由な題で歌をお作りなさい」
 花圃の声に、妙な棘が感じられた。雅子がそれと気づく間もなく、追いかけるように、
 「恋でも衣(ころも)でも」
 皮肉な一語が飛んで来た。
 ・・・』(p253〜255)

 この当時の花圃がどのような歌を作ったかは調べていませんが、樋口一葉(明治
29年11月23日死去)が生きていたら 面白かっただろうにと、つくづく思います。

千駄ヶ谷へ転居

 明治37年7月26日、二男「秀」の誕生祝いに、明治書院の三樹氏が訪ねてきます。そして、千駄ヶ谷に新たに家を建てる申し出をします。産屋日記7月26日に次のように書かれています。

 『神田の君供つれて見えぬ。此庭へ移りて後初めてなれば、あまりなるあばら家に驚くの外なしと語り給ひ、さて千駄ケ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるるなり。江戸の神田に佳み給ふ心早さは、尺(さし)よびて図など引き給ふよ。』

 明治37年9月10日、茅野蕭々(ちのしょうしょう)がこの家に訪ねてきて、増田雅子と一緒になります。そして次のような日記を残しています。

 『九月十日。渋谷に与謝野氏を訪問す。増田の君在り。暫く歌の話、山の話などして共々に千駄ケ谷村に与謝野氏に新に住むべき家を見にゆく』
 『九月十一日。渋谷へ新詩社の会合ありてゆく。(中略)山川様大人びて寂しらの御顔、実に世に泣くこと多き方なるべし。増田様さばかりならず、あでやかな笑ひ様あどけなき人なり』

 ほとんど毎日通っているようで微笑ましい限りです。山川登美子について「泣くこと多き方」とありとして、淋しげの漂う美人とあどけなき雅子を比較しています。やがて茅野蕭々と雅子は結婚します。それにしても、実際の転居が11月ですから、2ヶ月前に転居先がわかっていて、その家を同人が見に行くところに興味が湧きます。 明治37年7月26日の産屋日記、そして、9月10日の茅野蕭々の日記からすると、千駄ヶ谷の家は新築であったことが推測されます。

 明治37年11月3日 鉄幹と晶子は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村字大通549番地第四荻の家へ転居しました。この家は明治書院の所有 とされます。叩かれても、非難されても、晶子はエネルギッシュでした。この時期の千駄ヶ谷転居は何を意味するのか、迷います。津村節子は、白百合の崖(はて)

 『三十七年後半から、寛の歌は少なくなっている。そしてその内容も、暗く沈痛な雰囲気を帯びてきていた。
  
  のろはるる 身は枯木(からき)なし 髪ほそり 寝(ぬ)れば屋の上(へ)に 死鳥(しにどり)(な)くも
  よろこびは 我にあまりぬ あざけりと ねたみと科(とが)と こはき詛(のろ)ひと

 自然主義文学が盛んになるにつれ、新詩社の浪漫主義短歌は衰退の兆しを見せ始め、それをいち早く察知した寛は、「明星」に象徴詩としては第一人者の蒲原有明の詩や、上田敏の象徴詩の翻訳詩、馬場孤蝶の翻訳小説等を載せるようになった。

 寛の師 落合直文と親しかった森鴎外にも執筆を依頼し、・・・』(p180〜181)

 と時代の動きをとらえています。「君死にたまうこと勿れ」で、石を持って追われる状況もあったようですし、明治書院の寮ということからすれば、「安くで住めるからそれで移った・・・」(光 「晶子と寛の思い出」p33)ことも 考えられます。(2004.12.22.記)

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