君死にたもうこと勿(なか)れ・恋衣発刊計画 中渋谷382番地の丘の上の家では 晶子は最初の詩集「みだれ髪」を発刊しました。賛否、毀(き)・誉(よ)さまざま
の評価が飛び交いましたが 夫婦共著の「毒草」が刊行されました。 またまた起こる、非難、支持、両論の中、丘の一段下 次男・秀(しげる)誕生 明治37年(1904)5月、晶子26才 鉄幹31才です。丘の上の中渋谷382番地から
、一段下がって、恐らくいつも見ていたであろう、中渋谷341番地に転居してきました。 欠くる期(ご)なき 盈(み)つる期(ご)あらぬ あめつちに と詠み、産屋日記を書いています(明星)。 『浦崎氏は那覇出身で、かねてから歌人山城正忠をよく知り、可なり昵懇(じっこん)であつた關係(かんけい)から、寛先生もよく面倒を見たものらしい。 風邪をひいて熱があるらしく、随分困ってゐた様子だったが、何とその時に私が手土産に持つて行つたのが、朝鮮飴に似た黄金飴なのだ。折箱の上に大きく黄金飴とレツテルが貼つてあるので、これを出すことが、いかにも皮肉らしく、これには私もほとほと閉口したと、彼が煤けた豆煙管のやうな顔に、白い歯をむき出して笑つたことがあつた。而して寛先生も随分貧乏したものだと沁沁(しみじみ)私に語った。』(p8〜9) 中渋谷341番地の家 中渋谷341の家は382の家から少し下がったところにありました。名和家は多くの貸家を持っていたそうで、その中の一つと考えられます。なぜ転居したのかははっきりしていません。現在では確かめようがありませんが、当時の地図と重ね合わせてみると、現在の道玄坂一丁目6〜1 1番地あたりになるのではないかと推測されます。
当時は渋谷停車場から道玄坂へ大和田横丁が通じていて、3の位置にありました。
やや強引に古地図と重ねてみると、図の3の赤印の辺りが中渋谷341に当たると推測されます。 君死にたまうこと勿(なか)れ 明治37年(1904)8月19日、日本は旅順総攻撃(日露戦争)をしました。日本軍は苦戦を重ね、出征していた晶子の弟・寿三郎の所属する第四師団もこの攻撃に参加しました。晶子は、9月1日 明星9月号に 「君死にたまうこと勿れ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎げきて) ああ をとうとよ 君を泣く を発表しました。これに対し攻撃が始まりました。津村節子 白百合の崖(はて)から引用します。 『・・・詩は、世上にセンセーションを巻き起した。 この桂月の論に対して、鉄幹は二月刊行の「明星」で、桂月との問答形式による「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」を掲載した。・・・・ 晶子の、国家や天皇に対する怨嗟(えんさ)の甚しさを危険とする桂月に対し、鉄幹は、“理性の錯(ま)じらぬ純粋の感情の声”で
、“非国家主義を謡ふとか非難する誣妄(ぶぼう)も亦(また)甚しい”と反論している。この論争は、「明星」のあり方に対して、正しい理解を求める、鉄幹の声でもあった。』(p166〜167) お百度詣(もうで) ここで紹介するいとまがありませんが、「君死にたまうこと勿れ」の2節以降について、様々な論議が続けられました。 「恋衣」の刊行計画 騒々しい論争が続く中で、この年3月上京し、4月から日本女子大学に学ぶ山川登美子と増田雅子が中渋谷341の家に訪れるようになりました。山川登美子は明治35年12月22日、夫・駐七郎と死別し、明治36年生家に復籍し ました。明治37年3月に上京して、日本女子大学の英文科予備科に入学していました。 増田雅子は明星の同人であり、登美子と友達で同じように明治37年4月、日本女子大学の国文科に学んでいました。この二人に晶子を加えて三人の歌集「恋衣」を刊行する計画が進みました。津村節子は、白百合の崖(はて)で 『「恋衣」の計画は、三十七年の夏頃起り、登美子が若狭で夏休みを過して帰京早々、具体化した。新詩社は、九月に渋谷から千駄ヶ谷村に移転し、登美子と雅子は、屡々(しばしば)歌を持って訪れるようになった。』(p167)としています。 『九月に渋谷から千駄ヶ谷村に移転し』の月は疑問です。さすが鉄幹で、全くめげずに、次の手を打っています。 「恋衣の刊行です。ところが、予期しない問題が起こりました。「みだれ髪」と「君死にたまうこと勿れ」の騒動のもとである、晶子と一緒に歌集を出すことにとまどったのか、明星に「恋衣」の予告が出ると、日本女子大学は10月、山川登美子、増田雅子を停学処分にしました。 親や鉄幹、明星の同人であり、弁護士である平出修(露花)の尽力で解消されますが、「恋衣」の発刊は翌年の1月に持ち越されました。この間の出来事として尾崎左永子は「恋ごろも」で次のような場面を描いています。 『教壇で裾模様の紋付姿で三宅花圃女子が講義をしていた。日本女子大学には中島歌子のお伴で歌を教えに来ていた。
・・・・ 千駄ヶ谷へ転居 明治37年7月26日、二男「秀」の誕生祝いに、明治書院の三樹氏が訪ねてきます。そして、千駄ヶ谷に新たに家を建てる申し出をします。産屋日記7月26日に次のように書かれています。 『神田の君供つれて見えぬ。此庭へ移りて後初めてなれば、あまりなるあばら家に驚くの外なしと語り給ひ、さて千駄ケ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるるなり。江戸の神田に佳み給ふ心早さは、尺(さし)よびて図など引き給ふよ。』 明治37年9月10日、茅野蕭々(ちのしょうしょう)がこの家に訪ねてきて、増田雅子と一緒になります。そして次のような日記を残しています。
『九月十日。渋谷に与謝野氏を訪問す。増田の君在り。暫く歌の話、山の話などして共々に千駄ケ谷村に与謝野氏に新に住むべき家を見にゆく』
ほとんど毎日通っているようで微笑ましい限りです。山川登美子について「泣くこと多き方」とありとして、淋しげの漂う美人とあどけなき雅子を比較しています。やがて茅野蕭々と雅子は結婚します。それにしても、実際の転居が11月ですから、2ヶ月前に転居先がわかっていて、その家を同人が見に行くところに興味が湧きます。
明治37年7月26日の産屋日記、そして、9月10日の茅野蕭々の日記からすると、千駄ヶ谷の家は新築であったことが推測されます。 『三十七年後半から、寛の歌は少なくなっている。そしてその内容も、暗く沈痛な雰囲気を帯びてきていた。 と時代の動きをとらえています。「君死にたまうこと勿れ」で、石を持って追われる状況もあったようですし、明治書院の寮ということからすれば、「安くで住めるからそれで移った・・・」(光 「晶子と寛の思い出」p33)ことも 考えられます。(2004.12.22.記)
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