「みだれ髪」
与謝野晶子 第一歌集 明治34年8月15日発刊、晶子(23才)

明治34年6月、上京した晶子は

『先妻と子供を追い出し、同棲』 『不倫の恋』 『 人倫に反し』・・・・・と、非難ごうごう
経済的にも、どん底に近いピンチ、日々の食にも事欠く中

装丁も新たに「みだれ髪」が世に送り出されました。

その反響は「乱倫」・・・「秀絶」・・・毀(き)・誉(よ)さまざま
しかし、 明治の多くの人は、歌に、新しい時代が来たことを実感したことでしょう。

男かわゆし

 四海平等、万機公論に決すべし、と、維新の掛け声は勇ましくとも、現実には、女性は相変わらず、家長の絶対権力のもとに従属されがちで、表の会合の出席にも遠慮させられてい ました。その女性が、

  『下京や 紅屋が 門をくぐりたる 男かわゆし 春の夜の月』

と詠いました。先走りの恋歌に過ぎないではないか。実質的には女性は何ら解放されない。などとの批判があったとしても、この時代に、堂々と女性が男を「かわいい」と表現したことに、世間はさぞ驚いたと思います。

やは肌のあつき血汐

  やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
  乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれない)ぞ濃き

 もう云うまでもなく、誰でも一度は耳にして、晶子の代名詞みたいになっています。今では、至極普通に思えますが、当時の人々は「驚倒させ」られたようです。入江春行は「与謝野晶子の文学」で次のように書いています。

 『・・・・、短歌が、まだ「和歌」とか「敷島の道」などとよばれて、花鳥風詠をこととするものという観念が色濃く残っていた明治の半ぱ、大阪は堺出身の無名の少女、鳳晶子が世に問うて、一世を驚倒させた歌集である。

 なぜ一世を驚倒させたか、簡単に言えばそれは、恋愛の自由を謳歌するとともに、支配道徳を否定し、肉体の美を讃える歌が多く詠まれていたからである。』(桜楓社 昭和58年 p137)

 この歌集によって、当時の日本女子大学に学ぶ女学生が、新しい歌集(恋衣)の発刊に関わるのはケシカランと休学を命じられたこともありました。

娼妓夜鷹の口にすべき乱倫の言

 明治34年当時、全体としての評価はどのようなものであったのか、気になりますが、伊藤整 日本文壇史は次のようにまとめています。

 『「みだれ髪」の批評は、「文壇照魔鏡」事件に封する批判とともに、この年の新聞雑誌に色々な形で現はれ、鐵幹と晶子は悪漢と淫女のやうにも見られ、また天才と才媛の組み合せのやうにも書き立てられた。

 即ち五月には田口掬汀が「新声」に「與謝野寛対新声社誹諛(ひゆ)事件顛末」を書き、「帝國文學」記者は「三十四年鐵幹に與ふ」といふ攻撃文を載せ、鐵幹は、駁論「魔書文壇照魔鏡について」を「明星」に書いた。

 七月、「帝國文學」記者は「鐵幹が弁解の妄」を書き、九月、鐵幹と晶子は「明星」の「ひと夜話」で反駁した。またこの月、高山林次郎は「太陽」で「みだれ髪」を評して、「『乱れ髪』は一時奇才を歌はれたれども淫情淺想久しうして堪ゆべからざるを覚ゆ」とこれを非難した。

 またこの月「帝國文學」記者は、七月に刊行された服部躬治の「迦具土」と並べて「みだれ髪」を貶し、一方、鐵幹の友薄田泣董は大阪の「小天地」で、「みだれ髪評」を書いて支持した。佐佐木信綱、石榑千亦等の「竹柏曾」の雑誌「心の花」の合評曾では、「みだれ髪」は「娼妓夜鷹の口にすべき乱倫の言を吐きて淫を勧めんとする」とか、「此一書は、猥行醜悪を記したる所多し、人心に害あり世教に毒あるものと判定するに憚らざる也」と酷評された。

 「文壇照魔鏡」事件についての論評と、「みだれ髪」評とは、この年から翌明治三十五年にかけて続けられたが、やがてそれは鐵幹についての人間的攻撃と、「みだれ髪」の著者の否定すべからざる才能の公認といふ形で落ちついた。鐵幹と晶子はこの明治三十四年の九月、友人の木村鷹太郎を媒酌人として、正式に結婚した。この時與謝野寛は数へ年二十九歳、晶子は二十四歳であつた。

 このやうな雰園氣はかへつて若い読者に、「明星」を新しいロマンチシズムの拠点と感じさせたので、新詩社に加はるものが改めて増した。鐵幹と晶子が既成文壇人に非難されることは、新精紳のためのやむを得ぬ犠牲だと青年たちは考へた。第一高等學校生徒の小山内薫とその仲間である武林盤雄たちは、與謝野寛に同情し、彼等はある日、「鐵幹を励ます文」といふのを書き、小山内がそれを持つて行き、與謝野家の窓から投げ入れて逃げ帰つた。』(伊藤整 日本文壇史 6 p77〜78)

 明治20年代には、若い娘が「源氏物語」を読むことを禁じられたとの話がありますから、「みだれ髪」がこのような評価を受けるのは時流だったとも思えます。しかし、麹町の関係で云えば、若い住人である小山内薫と武林盤雄が 「鐵幹を励ます文」を投げ込みに行ったとは微笑ましい限りです。つい先頃まで鉄幹が住んだ麹町上六番町45番地の家は、二人の行き交う道すがらであり、 「明星」の張り紙を見ては、文学論を交わしていたのでしょう。

詩壇革新の先駆

 明星16号では、匿名ですが、欠点をあげながら、『罵倒する者は文芸の友にあらず』と擁護しています。

 『「みだれ髪」は耳を欹(そばだ)てしむる歌集なり。詩に近づきし人の作なり。情熱ある詩人の著なり、唯容態のすこしほのみゆるを憾(うらみ)とし、沈静の欠けたるを瑕(きず)となせど、詩壇革新の先駆として、又女性の作として、歓迎すべき価値多し。其調(そのしらべ)の奇峭(きしょう)と其想の奔放に惘(あき)れて、漫(みだり)に罵倒する者は文芸の友にあらず』

 仲間はいいもので、この文は上田敏が書いたとされます。明治40年代に入り、明星はかげりを見せますが、上田敏はヨーロッパの新しい風を吹き込んで 、刷新を図ります。

早熟の少女が早口にものいふ如き

 『斎藤茂吉は「明治大正短歌史概観」(改造社版『現代日本文学全集』38巻―1909〈昭和4〉年―所収)で、 早熟の少女が早口にものいふ如き歌風であるけれども、これが晶子の歌が天下を風摩するに至るその第一歩として讃否のこゑ喧しく、新詩社のものも新詩社以外のものも、歌人も非歌人も、この歌集の出現に驚異の眼を
目+争(面白くない目つきで見る)ったのである。
と総括している。』(入江春行 「与謝野晶子の文学」桜楓社 昭和58年 p139)

 大家は悠然と、「早口にものいふ」として、何か一つ足りない部分があることを指摘し、反面、何やら得体の知れないものの出現 に、他人をして驚異させ、それが必ずしも、面白いものではないと批判しています。

石つぷての中に

 『・・・・・寛と晶子は女たらしと色きちがいの一対のようにいわれ、石もて投げる人々が多かった。石つぷての中に、寛と晶子は立っていた。彼らによれば、歌と実人生は、そのまま合致していなければならぬのである。

 おのが生活を自我の解放に賭け、それゆえにこそ、歌も自我のままにうたいあげることが出来るのだった。文学上の主張と人生上の主張は重なりあっていた。心を野曝(のざらし)にしてうたいあげることこそ、「明星」の誇りで、挑戦であったのだ。』( 田辺聖子 千すじの黒髪 p261)

 後書きに、『この作品はいわば、寛・晶子に宛てた私のラブレターである。・・・・二人の天才歌人に捧げるわが讃め歌である。私は長らく、晶子や寛の歌を愛してきた。寛も晶子もわが内るものとなり、わが魂の住人となって久しかった。』と書くだけに、ともかく暖かいです。

まだ残されているもの

 小田切秀夫は

 『かくてわたしたちは知る、『みだれ髪』の方向は先になお進むべき余地が技巧的側面に十分残されていたことを。しかし現実においては技巧は単に技巧としてあるのではなかった。

 それはその芸術家の全体としての人間内容のあり方と有機的な関係においてのみ機能するものである。したがってわたしたちは『みだれ髪』の道が『みだれ髪』以上に歩まれなかったことを惜しむとともに、技巧の未熟さとして現われている近代精神の密度のなお緻密ならざる様から目をそむけぬのである。』(「みだれ髪」論)

 と云います。「みだれ髪」がまとめられた家の前で、それから100年たって、どうなっているのだろうかと、大きな宿題を背負って帰ってきました。(2004.12.15.記)

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