与謝野晶子「親子」と正富汪洋「明治の青春」

与謝野晶子に「親子」という小説があります。
 明治42年4月、雑誌「趣味」に発表されました。晶子初めての自伝小説。

前年秋、明星が廃刊となり、寛は自信を失いつつありました。
寛の山川登美子への思慕もあって寛と晶子の仲はぎくしゃくすることもありました。
千駄ヶ谷から駿河台東紅梅町・ニコライ堂の近くに転居して来たときです。

 寛、晶子がよりどころとしていた浪漫主義から、世の一般が自然主義に大きく転換する時期に当たり
二人とも新たな方向を見いだそうとしていました。晶子は小説を書き始めます。

この小説に対し、前妻である林瀧野は「明治の青春」(正富汪洋)で徹底して反論します。
黙っていると、小説に書かれたことが本当のことになってしまう、との恐れを真っ正面に出しての抗議です。

物語りとして読み過ごせない情念が漂って
この時代と晶子の一面を知る手がかりになると思い、引用して紹介します。

晶子の「親子」

 『恋の初めは盲目(めしい)であるというのは嘘だ。目の無いものが恋のような大事をなんでできよう。』という書き出しで、 晶子の鉄幹への出会いから自分が盲目になった過程が描かれます。

 中渋谷272番地の家に転居したばかりの5月、前妻・瀧野が子供つれて上京して来ます。子供の具合が悪くなり帰郷して、その時、晶子が堺の実家から出奔してき ます。その日時を巡って議論がありますが、小説では

 『お浜(晶子)が来たのは、先の妻が去って半月の後であった。七夫(鉄幹・寛)の家には、先妻と同国生まれの、四十余りの目の恐い婆やがいた。』

 としています。お浜は、先妻びいきの婆やと暮らすのが耐えられずに、七夫に婆やを帰すことを嘆願します。七夫は隣に住む笹島の奥さんが出産することから、そこに婆やをやり、中渋谷382番地に引っ越します。

 『二町ほども通りから離れた岡の上の一軒家へ移った。お浜は嬉しかった。七夫の心も何とは知らず嬉しかった。今初めて、この女と一緒に住むような気がしたのである。女の唇は、日となく夜となく男によって潤された。』

 と、お浜が半目明になったことをつげます。そんなとき、また先妻が子供を連れてお浜の家を訪ねてきます。実際には9月のことに当たります。

  『・・・お父さんだよ、父さんだよ。』と云って七夫は子の頬に顔をすりつけている。
  『坊や、いらっしゃい、お父様がいいの。』と女(先妻)は云った。

 なぜ、女が上京したのか、お浜は気になります。『初めて僕と家を持った時の二百円という金は、伯母さんにもらって来たと云うたが、真実(ほんとう)は友達に借りて来たのだから、返してくれと云いに来たというのだ。』七夫・鉄幹はこんな言い訳をします。先妻は 中渋谷272番地の笹島の家に逗留します。そして、ある日、突然 

 『奥様がお父様のところへつれて行けとおっしゃいました。』と云って、婆やが子供を抱いてきます。お浜が抱っこします。
 『坊や、母さんに抱っこしてもらってるんだね、母さんだよ。』
 と七夫が云った。お浜ははらはらと涙を零(こぼ)した。この親子が、気の毒で気の毒でならなかったのだ。
 『私はお母さんになるわ。』
 とお浜は云った。それから子供を負(おん)ぶして牛乳を買いに行った。夜分私が抱いて寝ると云ったら、
 『真ん中へ入れて寝てやろうじゃないか。』
 と七夫は云った。

 ところが、子供が泣き出して、お浜が子供をあやして門の前の坂を上がり下りしているところへ、七夫が来て
 『やっぱり真実(ほんとう)の乳がいいんだろう、お貸し、つれて行くから。』
 と云って、つれて行った。いつであったかお浜が
 『真実(ほんと)に実(先妻の子供)さんをどうなさるの。』
 と問うた時、
 『どうするのか、家内の心が決まらないから。』
 家内と云って、七夫ははっと思ったらしかったが、・・・・

 このようにして、先妻と子供と晶子の不思議な関係が描かれます。そして、作品の最後は次のように晶子の憂さ晴らしのように、心をむき出しにするかのようにして終わります。 以下は全文です。

 『ある夜、お浜が寿司を作ったからと言って、七夫が迎いに行ったのを初めに、先妻は毎日のように七夫の家へ遊びに来た。男のことを七夫、七夫とお浜に言った。誰がこうしたそうだとか、某(なにがし)は便(たより)をしないそうですねなどと、七夫に聞いたことを先妻はまたお浜にききただした。

 「○○さんや□□さんは、このごろ、いらっしゃいませんか。」
 と文壇の大家の名などをよく言う。お浜はこう考えた。この人は田舎に居て、自分のむかし教師であった七夫
が、文壇に多少の名を成したのを見て、名に恋をしたのが初めで、一緒に住んで貧乏がつらく、今になってお浜というもののために、嫉妬が恋の形式をなしているのに過ぎない、心から炎えている自分とは違う。

 先妻は美しい人でもない、しかしいつも薄化粧をして、山のような丸髭に結っている。お浜はある時、そっと青山の小間物屋で丸髭の形と赤の手柄を一つ買って来て、新聞紙やら、風呂敷で上を包んで支那鞄の底へしまっておいた。細君が女の子を生んで十日目に、笹島は婆やに暇を出した。七夫の先の妻は、婆やをつれて神田へ移って、下宿屋を始めたそうである。

 月末に八百屋や魚屋や肉屋やらが、お浜の知っている三倍ほどの勘定書をもって、
  「笹島さんへさし上げたのですが、婆やさんが橋本さんへ書付を上げろと言いました。」

 と言って来た。七夫が某新聞社へ寄稿してもらった四十円の報酬の半(なかば)を、笹島へ親子の世話になった礼にしたあとの二十円で、支払いようのないのを、家賃を一月待ってもらうことにお浜が頼みに行って、その月
は済ました。十二月に、お浜は民法上正当な七夫の妻になった。お浜が二十四になった正月の五日に、実家の母から忘れることのできない文を、お浜は受取った。

 七夫どのの前の妻と名のらるる人、麻布の兄上の聯隊へ面会にきたられしよし、七夫どのに二百円の貸金あるよしにて、その金子を兄上に請求され候よし、軍人気質(かたぎ)の兄上は借金はもとより、そのやうの人(ひと)のあること御存じなく、お浜はわれを欺き大恥辱を与へしと立腹甚しく、七生まで兄妹の縁を切る旨申くれとに候。

 どのやうの目に逢ふやうも知れねば忘れても六本木辺を御通りなさるまじく候、父上も同じやうのこと申され母はこまり届り候。この後(のち)手紙は別家まで御遣(おんつかは)しなさるべく候。

 これを見た七夫は、婆やがこんなことをさせたのだと言った。』(晶子小説集 与謝野晶子選集3 p194〜195)

  先妻・瀧野がお浜(晶子)の「麻布の兄上の聯隊へ面会に・・・」行き、七夫(鉄幹・寛)がした借金200円の返済を請求した箇所あたりは、何やら創作の上の虚構がありそうで、七夫がまだ、先妻・瀧野をかばって、婆やのせいにして終わるところ とともに、晶子の一刺しを感じます。

 佐藤春夫が「晶子曼荼羅」に、この箇所を取り入れたこともあり、この小説に対して、正富汪洋は瀧野からの直接の話として、その著書「明治の青春」でことごとく事実との違いを強調して反論します。

明治の青春での反論

 例えば、滞在が長くて、その間にかかった経費を請求されるところと婆やのその後ですが、

  『私が、粟島家に在ったのは数日である。神田へ去る時、婆やを伴れて出たというのも誤り、婆やは、粟島家にいて後には、数学で当時知られていた上野清という人の家へ奉公した。・・・そんなに長くいなかった。数日と数月とでは、大変な差である。』

 とします。また、「七夫どのの前の妻と名のらるる人、麻布の兄上の聯隊へ面会にきたられしよし、七夫どのに二百円の貸金あるよしにて、その金子を兄上に請求され候よし麻布の聯隊へ面会にきて、寛にどのに二百円の貸金あるよしにて、・・・」について は

 『なんて、あきれかえって言葉も出ない。こんなことを晶子が小説の中に書いて「趣味」誌か何かに載せたのを、佐藤さんが、「晶子曼陀羅」に、採用されたのではないか知ら? 晶子と同棲の寛から、九月一日づけで、十五日までに、三十円助けてくれと、山口県在の私のところに泣きついて来た手紙も存している。とてももどらない金と承知して三十円送ったら、それで、丘の家へ移転ができた。移転さきは、近いとこで三八二番地とも知らせて来ている。

 八月の家賃が、払って無いので、転居しようと思りても、敷金は返らず、晶子と同棲後、相当、生活費が要るとも書いてあった。又、別の手紙に、千円の口は、あきらめたが、四百円ほど、助けてくれとも泣きついてきている。こんなに私は、晶子さん達の生活費を助けているのに、晶子さんの兄さんを聯隊に訪い、二百円を返せといったと、よし、それが小説の形式によったものであっても書いてあるならば晶子という人の一面を知ることが出来る。』(p84)

 のように書いています。二つの作品を並べて読むと、おどろおどろの世界を見るようで、いささか辟易させられます。しかし、この小説を晶子が東紅梅町の家で書いたことに 思い至ると、次への打開策を図るこの時代の晶子・寛の生活の空気が沈んだものとして伝わってきます。

 また、両方共にムキになっているのが気になって、たじろぎます。翁 久美(おきな くみ)はこの小説を「嫉妬にからむ灼熱的な葛藤」と評します。両方の作品とも、なかなか手にすることができず図書館の世話になるより他ないのが残念です。

 「親子」 晶子小説集(与謝野晶子選集・3 春秋社 昭和42年
 「明治の青春」 正富汪洋 北辰堂 昭和30年
 (2005.01.8.記)

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