晶子・評論、小説を書く、寛・「相聞」刊行、牧水と決別
明治42年1月〜43年8月
(駿河台東紅梅町2番地)

明治42年(1909)1月31日、与謝野寛と晶子は家族と共に
千駄ヶ谷村大通549番地から駿河台東紅梅町2番地に転居してきました。

前年11月、明星を100号で廃刊し、寛と晶子は次の活動の場を目指して転換を図ります。
比較的地味な時期ですが、駿河台東紅梅町2番地は、寛、晶子の土性骨が問われる場でもありました。

子供の通学に便利な所

 駿河台東紅梅町への転居は、長男・光が「暁星」へ通いやすい所として選ばれたとされます。渡辺淳一は次のように書きます。

 『前の干駄ヶ谷の借家からこちらへ移ったのは、都心部に近くて便利であるとともに、学齢期に達した長男の光が、暁星小学校に通うのに好都合という理由もあった。この暁星への進学については、一般の小学校より自由で進歩的な暁星の校風に、晶子が惹かれていたからでもあった。』(「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」下p196)

  お茶の水駅下車、今は道路景観も変わり、大学街になって、高低差は坂でしか実感できませんが、当時は、台地に大邸宅が並び、方や湯島方面が一望できて、便利で、環境がいいという晶子の選んだ理由も頷けます。まだ、ガス灯だったそうで、夜の景観も 霧が潤む格別のものがあったでしょう。しかし、年譜を見ると、そのような生やさしいものではなく、鉄幹・寛には八方塞がりの感があって、その打破にもがいたところでもあったように思われます。

 上田敏が海外の詩を紹介、寛がそれらに関心を持ちながら行き詰まり感 に陥り、晶子はやるせなく、周囲は心配していろいろ打開策を講じ、ついに、寛はフランス語を学んで、フランス行きを決心するのがこの時代でした。

ニコライ堂の東

 駿河台東紅梅町2番地の家はニコライ堂の崖の際、東側にありました。 ただし、当時は現在と道路状況はだいぶ異なり、御茶ノ水停車場は、現在の明大通りより左側にあり、現・JR御茶ノ水駅から下車するのと様相が違っています。

明治期の状況を復元し、現在の大きな道路を破線で入れました。

 寛・晶子の時代には御茶ノ水停車場から降りて、現明大通りを雁木坂か紅梅坂を下り、新坂に出たものと思われます。ニコライ堂とは路を隔て表通りには面せずに、一軒奥になっていたようです。

 現在はJRお茶ノ水駅を聖橋・ニコライ堂方面に出ると、現・本郷通りの前面にニコライ堂が見え、本郷通りが拡幅されたため、旧東紅梅町2番地の家の敷地が直接に本郷通りに面しています。かっては名倉堂医院があってわかりやすかったのですが、今は合同・共同ビルに建て替えられています。



JRお茶ノ水駅の聖橋・ニコライ堂方面に出て本郷通りに立つと正面にニコライ堂
その左側に見えるビル群が、寛・晶子の住んだ旧東紅梅町2番地の家の敷地になります。

ニコライ堂を右に見て

左側ビル群・中央の白いビルの裏側が旧東紅梅町2番地になります。

ビル群の切れ目に路地があり左折すれば新坂です。

左画像は旧東紅梅町2番地の現況です。
右画像は「園公路淡市京東」と明治期の標示のある公園で、奥に寛・晶子の住んだ家がありました。

『一昨年 駿河台の家で「二階から見たニコライ」という絵を描いたのを両親は宝のようにしていた』
と、晶子の小説「明るみへ」の中にあります。
二階だてで、目の前にニコライ堂が見えたようです。

寛・晶子の住んだ家と隣り合う場所に立派な屋敷があります。左側が工事中の建物。
寛・晶子と交流があったのでしょうか?

 この家には、明治42年(1909)1月から明治43年(1910)8月 までの2年足らず居住しました。しかし、短期間にもかかわらず様々な出来事がありました。以下主立った事柄を紹介します。

寛・明星を失い、登美子の死に慟哭

 与謝野寛は、明星廃刊により、当面の活動の拠点を失い、苛立ちの中に悶々の日を送ったようです。長男・光が 『もう、明星がないから、自宅で一週間に一回・・・二回かなあ、歌の講座を開いてたんです。』と回想するように、手足を取られた日々が続いたようです。

 森鴎外が手をさしのべ、鴎外の自宅で開かれる観潮楼歌会の実質の纏め役をつとめたようですが鬱々とした日が続きます。明治42年3月13日、この2月、朝日新聞社に就職の決まった石川啄木が訪ねてきます。その時の印象です。

  三月十三日 風
  風が烈しく吹いた。
  朝に与謝野さんから電話。午前をジヤーマンコースで送つて、昼飯がすむや否や古本屋から(生)をかり
  て与謝野氏へ行つた。晶子さんは少しいいさうだ。

  与謝野氏は創作の事について真面目になつてゐる。朝日へかくのを(第一歩)と題するといふ。ああ、与
  謝野氏は、小説のために真面目になつてるのではない! 生活の為に!

 「晶子さんは少しいいさうだ。」とあるのは、3月3日に三男「麟」を出産したばかりだったことによるのでしょう。寛が 「第一歩」との標題で新聞「小説」を書こうとしている様子、歌の革新に燃えた鉄幹が、寛となって生活のために身を処す気配を啄木に感じ取らせる様子が伝えられます。

 明治42年4月15日 山川登美子が、故郷・若狭で死去しました。29才の若さでした。『終わりの雑誌かなしく候。しかし御写真にて皆様の大人に成り給ひしを見ればうれしさに涙おち候。私病気大層よろしく成り候。』 と寛・晶子に手紙を送ってきてから数ヶ月後のことです。

 死を感じながら『病気大層よろしく成り候』と結ぶ登美子の心情が伝わります。 5月、新詩社の月報として「トキハギ」(常磐樹)が創刊されますが、それは山川登美子の哀悼号でもありました。寛は 

 十とせこそ 下(した)に泣きけれ 天(あま)飛ぶや 帰らぬ君を 声あげて泣く
 わが為めに 路ぎよめせし 二少女(ふたおとめ) 一人は在りて 一人天翔(あまがけ)

 と詠って慟哭します。歌集「相聞」に山川登美子のみまかれるを悲みて詠める(明治42年4月)として載せられています。手晶子の方は

 背とわれと 死にたる人と 三人して 甕(もたひ)の中に 封じつること

 と意味深長に詠んでいます。 東紅梅町の時代も、寛と晶子の間では第三の女性を巡っての葛藤が絶えない日々が続き、そのとばっちりが子供達にも及び苦笑させられる話が伝えられています。

観潮楼歌会

 明治42年から43年3月まで、年譜のように観潮楼歌会が頻繁に開かれ、寛が出席しています。明星廃刊後の寛の活動の場の一つとなっています。観潮楼歌会は、森鴎外の主宰によ り、鴎外の家・観潮楼で毎月行われた歌会です。

 最初は、明治40年(1907)3月で、当時の歌壇を代表する
 竹柏会(ちくはくかい)佐々木信綱(旧派)
 新詩社・与謝野鉄幹(ロマンティズム派)
 根岸派・伊藤左千夫(写実派)
 らが森鴎外の誘いにより鴎外の自宅に集まりました。

 伊藤整はこのことについて、次のように書いています。『鴎外は、この三人の旧派、写実派、ロマンチズム派の主宰者を一堂に会させることに成功した。鴎外は、この三派の歌人たちが、それぞれに自己の主張、作風に執しすぎて、何かを見失つてゐると考へ、そのいづれにも服さぬ自己をその間において、綜合者たる役割をなし得るかも知れぬ、と考へてゐた。』(日本文壇史12p10)

 一般的に、「与謝野鉄幹の「新詩社」系集団と正岡子規の「根岸」派系集団との対立を見かねて、鴎外が両派の融和策をとるため開いた歌会だ」と解説されますが、鴎外はもう少し大きなことを考えていたのかも知れません。また、鴎外は与謝野寛を重用していた傾向が見られます。

 先にあげた代表者に加えて吉井勇と平野万里が加わっていました。いずれも新詩社に属する若者達でした。吉井勇は伯爵家の跡継ぎ、平野万里は鴎外の先妻の子である於莵の預け先で、乳兄弟となるところから特別扱いとされます。しかし、他から見れば何故、新詩社系が多いのかと疑問視もされたようです。

 伊藤整が『事實上、観潮楼歌曾は與謝野寛が取りしきつてをり、鴎外もまた與謝野寛の扱ひにまかせてゐる趣があつた。そして與謝野家と森家を結ぶ存在として萬里平野久保がゐたのである。』(日本文壇史13p182)とするように、実質上、鴎外は次第に歌壇から影響力を失いつつある与謝野寛に肩入れをし、 鴎外と寛の両方に関係が深い平野万里がその中を取り持っていたのではないかと推測できます。

 この歌会には、後に、北原白秋・石川啄木・木下杢太郎・斎藤茂吉・古泉千樫らの新進歌人が加わって、大いに歌の世界の隆盛に寄与したとされます。 石川啄木は、明治42年1月9日の様子を、次のように日記に残しました。

  『一月九日 曇、夜雪、寒

 森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての斎藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君、今日パンの会もあつたのだ。
 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他。十時散会、雪が六七分薄く積つて、しきりに降つてゐた。』

 夕方から開かれ、あらかじめ題が出されていること、出席者が読み会って点を入れ合った様子が分かります。 この観潮楼歌会も明治43年(1910) 3月に閉会されています。

晶子が小説「親子」を書く

 香内信子がこの時代の晶子について、『1908年11月「明星」は100号を持って廃刊になる。晶子は30才ですでに4人の子の母であった。基本的な発表場所を失った晶子は、依頼されるまま、あるいは積極的に他紙誌に随筆、評論、短編小説を発表して行くようになる。』(香内信子 岩波文庫与謝野晶子評論集 p348) というように晶子は歌からその活動の場を多元的に拡げます。

 その短編小説の第一作目が「親子」でした。多分に自伝的要素を持ち、登場人物も中心となるのは、鉄幹・寛、晶子、前妻瀧野、子供「萃」(つとむ)、婆やで、中渋谷時代が描かれます。当時の現実の流れを追ってこの作品を読むと、晶子の「うめき」のような情念が伝わってきます。別のページ『与謝野晶子「親子」と正富汪洋「明治の青春」 』にまとめます。

寛が詩集「相聞」(あいぎこえ)、「槲之葉」(かしのは)を刊行

 自然派の隆盛に伴い、いかに影響力を低めたとはいえ与謝野寛は相変わらず力持ちで、明治43年3月には、詩集「相聞」(あいぎこえ=明治書院)、 7月には、詩歌集「槲之葉」(かしのは=博文館を発刊 しました。「相聞」は上田敏に捧げられ、鴎外が序文を書いています。いかにも寛フアンらしいので一部を引用します。

 『 興謝野寛君が相聞を出す。
  これ丈の事實に何の紹介も説明もいる筈がない。 一体今新派の歌と称してゐるものは誰が興して誰が育てたものである か。此問に己だと答へることの出來る人は與謝野君を除けて外にはな い。

 ・・・周囲は絶間なく変遷して行く。新派は最新派を生み、最新派は最々新派を生む。與謝野君の歌さへ人に古いと云はれるやうになつた。
 人の歌の生涯も、進むときがある。低囘してゐるときがある。退くときがある。併し其人が几庸でない限は、低囘しても退いても、丁度 鷙鳥(あらどり)が翼を歛(斂ではないか・おさめ)めて、更に高く遠く蜚(とぶ)ぶ支度をするやうなもので、又大いに進むのである。・・・

 與謝野君は散文をも書かれる。議論をもせられる。そしてそれが極めて忌憚なき文章である。世を驚かし俗を駭(おどろ)かさずには已まない。それで與謝野君は恐ろしい人になつてゐる。哲學者ニイチエは矯激の説を唱へた。然るにその人は身綺麗で、衣服に氣を着けてゐる、極めて優しい紳士であつた。そこで人に女子の崇拝者の多いのを嘲られた。要するに、抱負が大きいので、人には下らなかつたが、心立のおとなしい人であつたらしい。

 僕は與謝野君を知ることがまだ淺い。併し與謝野君の議論を読んで、其人物を誤解する人がありはすまいかと思ふので、一言書き添へるのである。(明治四十三年三月六日於観潮楼)』

 「相聞」は、1111首 明治35年から43年に至る間の歌で

 ぞんざいに 荒き言葉を 鑢(やすり)とし 倦(う)みし心を がりがりと磨(す)

 「槲之葉」は、五行詩160 短歌50首で

 かにかくに 悲しみ白し 三十路(みそじ)をば 越えて早くも 老いにけらしな

 などと詠われています。寛の心情がやり切れなかったのでしょうか、晶子は「卑下自慢」(ひげじまん)と揶揄っています。 

堀口大学と佐藤春夫

 堀口大学は明治41年、長岡中学5年生の時、吉井勇の「夏のおもひで」を知って、明治42年、父親の友達であった寛を訪ね、歌を学び始めました。第一高等学校受験を目指しましたが、慶応大学仏文科に入学、中退して、外交官 であった父親と一緒にヨーロッパに渡り、帰国後、フランス文学の翻訳・紹介に尽くしました。

 明治42年、佐藤春夫は「趣味」や「スバル」に歌を投稿し、採用されたことから急速に寛に近づきました。明治43年上京して、第一高等学校受験を目指しました 。受験準備の最中、東紅梅町の寛を訪ね、そこで、堀口大学に引き合わされました。伊藤整は

 『しかしこの頃は、かつて新詩社にゐた秀才たち北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、石川啄木等はほとんど「スバル」に籍を移してをり、與謝野家には佐藤春夫の期待するやうな若い詩人はあまり集らなかつた。しかし春夫はそこで先輩の詩人木下杢太郎と高村光太郎に逢ふことができた。佐藤春夫は歌にはあまり自信がなく、詩作に興味を持つてゐた。興謝野寛もそれを知つて詩に力を入れることをすすめた。』

 と書いています(日本文壇史16p134)。以後、有力な作家として寛を支えます。東紅梅町時代の新しい動きでした。

若山牧水と決別 

 『拝復、御健勝 賀上(よろこびあげ・いわいあげ)候。さて御眷顧(けんこ)を垂(たら)せられ毎回雑誌を御恵送にあづかり候が、御芳情に対し何の微力も致しがたき我につき、今後 御見合(おみあわせ)被下(くだされ)たく、従来の御厚情は万々御礼申上候、猶(なお)又 十六日の同人会にも出席の余裕無之(これなく)、併せてお断り申上候。追て 又 私共の拙作も貴誌を汚し候に忍びず候間(そうろうあいだ)、今後一切御勘誘(ごかんゆう)無之(これなき)やう願上候、由来短歌にのみ興味を持ちかね候ため、従つて拙作を世に出す興味も無之(これなき)次第に候。草々
                                                      寛・晶子
        七月十二日』

 これは、明治43年7月12日、若山牧水に宛てた与謝野寛・晶子連名の手紙です。牧水から雑誌「創作」に掲載するための原稿依頼に対し、断りの意志を伝えるものです。「私共、寛・晶子の作品があなたの雑誌・「創作」を汚すのは耐えられないから、今後一切勧誘しないでくれ」との激しいもので、絶縁、決別を伝えるとされます。

 もちろん、寛の一種の「すね」との批判もありましたが、スバルを中心として、大方は当然としたようです。今にしてみれば、何故、牧水と寛・晶子がここまで対立しなければならなかったのか不思議な気もしますが、切羽詰まるような背景がありました。

 若山牧水は、明治41年(1908)7月 第一歌集『海の声』、明治43年1月 第二歌集『独り歌へる』、4月 第三歌集『別離』などを出版し、歌壇の注目を集めていました。明治43年3月には、「創作」の編集同人である前田夕暮が、処女歌集『収穫』(易風社)を刊行して、牧水の『別離』とともに大きな反響を呼んでいました。「牧水・夕暮時代」と呼ばれるように、あたかも「自然主義短歌時代」を人々に思わせていました。

 そして、「スバル」批判を繰り返し、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『時勢という強い味方をつけた「創作」にとって、残された敵は「明星」の浪漫主義の 流れをくむ「スバル」だけだったが、これに対して「創作」系の評論家は初めから激し い攻撃をくわえてきた。とくにその創刊号では「所謂スバル派の歌を評す」と題して、 「スバル」系の歌は理念のない、バラック式のおおまかな歌が大半で、時代精神のかけ らもないと切り捨て、さらに吉井勇、茅野蕭々、平出修などから晶子、寛の歌まで、 舌鋒鋭く批判した。

  とくに晶子の歌については、ただ目さきのみ刺激する、ふわふわとして実体のない雲 のような歌が多く、晶子という人間の存在が少しも浮き出てこないと決めつけ、さらに 寛の歌については、大振りな技巧だけに溺れ、形にとらわれて月並みであると断じている。』(下p188)

 としています。寛・晶子ばかりでなく、同人達は一様に不快感を持っていました。そのような背景のもとにあっての返書ですが、当時の寛・晶子の置かれた状況をよく物語ります。寛の歌は更に落ち込み、手持ちぶさたを詠います。

 めずらしく この男こそ あわれなれ 生きぬる程(ほど)は 専(もっぱら)きらわる
 しょざいなさ 動物園の 木の柵に 面(つら)いだしたる 駱駝(らくだ)ならねど

 とまで所在なさを訴えます(明治43年10月、三田文学「ありのすさび」)。いくら「卑下自慢」(ひげじまん)と揶揄っても、晶子には耐えられなかったはずで、打開策を念じます。海外の詩のありように関心を深める寛のヨーロッパ行きでした。それが東紅梅町からの脱出につながったようにも思えます。明治43年 8月4日、麹町区中六番町3番地へ転居します。

隣り住む 南蛮寺(なんばんでら)の 鐘の音(ね)に 涙のおつる 春の夕暮れ

と、歌集「左保姫」で詠んでいます。寛も晶子もこの時代は結構、辛い時を過ごしたのかな、としんみりして、ニコライ堂に別れを告げました。

東紅梅町時代の年譜

明治42年(1909)寛36才 晶子31才

1月9日 観潮楼歌会
1月31日 千駄ヶ谷村大通549番地から駿河台東紅梅町2番地へ転居
2月6日 観潮楼歌会
3月3日 三男「麟」誕生
3月6日 観潮楼歌会
3月13日 石川啄木来る
4月4日より、新詩社で毎週2回文学講座を開く 寛「万葉集」、晶子「源氏物語」を講話 
4月11日 新詩社で短歌会
 啄木が出席していますが、この頃にはもう飽きが来ていたようで、日記に次のように書いています。
  『例のごとく題を出して歌をつくる。みんなで十三人だ。選のすんだのは九時頃だったろう。予はこの頃
   真面目に歌などをつくる気になれないから、相変らずへなぶってやった。・・・
   晶子さんは徹夜をして作ろうと言っていた。予はいいかげんな用をこしらえてそのまま帰ってきた。』
4月15日 山川登美子死去 29才
4月 晶子が小説「親子」(「趣味」)発表
5月 新詩社月報「トキハギ」(常磐樹)を創刊 
 寛 万葉集講話 晶子と共同執筆「和泉式部歌集評釈」
5月16日 晶子歌集「佐保姫」発刊
7月 森鴎外の「ヰタ・セクリアス」がスバルに掲載された。スバルは発売禁止となった。
   鴎外は学位剥奪、地位への影響を承知の上で発表したという。
9月5日 観潮楼歌会
9月18日 小林政治から晶子に「源氏物語」訳の依頼あり
9月 堀口大学が寛のもとで歌を学ぶようになった
10月 晶子「婦人くらぶ」に随想「おさなき日」を発表

明治43年(1910)寛37才 晶子32才

 この年、慶應義塾では文芸雑誌の発行 を計画し、「三田文学」の刊行を目指して編輯者の選定が行われていた。森鴎外はその責任者に与謝野寛を推薦したが、寛は辞したとされる。3月26日に上田敏に送った書簡に書かれている。永井荷風が携わることになった。  

2月28日 三女佐保子誕生 池田家に里子
3月 「創作」創刊 東雲堂
   若山牧水が編纂者 「スバル」に対抗 詩、小説、評論も載せる 
3月 寛「相聞」(あいぎこえ)刊行 明治書院  
3月 観潮楼歌会閉会
3月 佐藤春夫上京 寛を訪ねる 寛 堀口大学と引き合わせる 
4月10日 「女子文壇」誌友会三宅花圃、森茂子(鴎外夫人)など80名が出席
4月 白樺派 「白樺」創刊(〜大正12年8月)
5月 トキハギ(常磐樹)廃刊
5月16日 晶子第八歌集「佐保姫」(日吉丸書店 神田神保町)刊行
5月 「三田文学」創刊
   創刊号 スバルとあまり代わりばえがしなかったとされる
6月 晶子・寛による文学講演会閉会
6月 大石誠之助(西村伊作の叔父)検挙される(大逆事件との関係)
   寛は平出修を弁護に付ける
7月 寛 詩歌集「槲之葉」(かしのは)発刊 博文館
7月12日 若山牧水との決裂 牧水の主宰する「創作」への一切の勧誘を断る
8月4日 麹町区中六番町3番地へ転居

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