与謝野寛・初めての上京
(明治25年(1892)9月)
(本郷区菊坂・異母兄宅)

与謝野寛がいつ上京し、どこに住んだのか、何をしていたのかについては わからないことだらけです。
結論を出せないので、諸論を併記します。

明治の文豪達は同じ地域に住みながら、一足違いで別の道を歩みます。
本郷菊坂での与謝野寛と樋口一葉もそのようです。

本郷菊坂町

 寛が初めて東京に来たのは、明治25年(1892)とされます。9月説、11月説など いろいろのようです。中 晧 は「与謝野鉄幹」で

 『寛が初めて東京に出たのは明治二十五年八月であった、という。途次、御殿場駅より徒歩で月夜に三坂峠を越えて、甲府市に住む異母兄大都城響天を訪ねたが、異母兄は既に職を辞して、東京へ出ようとしていた。それで、異母兄の妻子と共に先発して、東京に出て、一カ月ぱかり異母兄の妻子の寓居に居候した、という。 しかし、この出京の時期は十一月である、と佐藤亮雄氏は指摘している(「明星以前の鉄幹」)。』

 として、8月と11月を紹介しています。逸見久美「評伝・与謝野鉄幹 晶子」では

 『九月、上京す。その後一月あまり本郷菊坂の異母兄大都城響天の家に寄宿したが極貧生活を察してその家を出る。そして徳山時代(明23)に知り合った佐村八郎とともに本郷駒込吉祥寺内の寄宿舎に住み、佐村の師事する井上哲次郎を知り、また大町桂月らとも知り合う。 』

 とあります。そして、寛の自伝では

 『……異母兄また窮状にあり、寄食すべきに非ず、由って前年より東京哲学館に学べる佐村八郎と貸間を物色し、たまたま駒込吉祥寺内にもと学寮に附属せし寄宿舎の空房となれるを発見し、僧に乞ひ、一室月額十五銭の借料を約して移る。 』

 とします。上京の月については緒論あっても

 ・異母兄大都城(おおつき)響天宅に1ヶ月程居候したこと
 ・本郷駒込吉祥寺内の寄宿舎に住んだこと
 
 は共通しています。この時代、寛が発行した「鳳雛」の発行兼印刷者、発行所は

  東京市本郷区菊坂町四十七番地寄留 大都城 誠

 となっています。大都城 誠=響天の居住地で、上京後1ヶ月あまりを過ごした、としていることから、本郷菊坂町から跡をたどってみます。 本郷菊坂町四十七番地は樋口一葉宅のすぐ近くです。しかし、どうも、二人が出会った様子はないようです。両者とも、同じ年代で歌の道の人ですが、世界は全く違ったのでしょう。それだけに出会って交流があったら、面白かったと思います。

明治20年代の概略図ですが、現・本郷三丁目、菊坂の位置は変化していません。
そのため、現道を辿れば、与謝野寛が住んだ異母兄大都城(おおつき)響天宅の跡を訪ねられます。

本郷三丁目交差点から東大方面に進み左側を見ると
本郷薬師の参道が見えます。(車の左)

参道を左に見て、そのまま東大方面に進み最初の路地が菊坂です。

菊坂を下り、最近増えてきたビルの左側に「本郷4−33」の標示を付けた電柱があります。

ここは、階段になっていて白い建物の植木の間に黒くあるのが、樋口一葉宅の説明版です。
この階段を下りて左に行けば一葉宅、すぐ右に鐙坂への路があります。

この白い建物の位置が、かっての「本郷区菊坂町四十七番地」になります。

菊坂からの全景はこのようなたたずまいになっています。

鉄幹上京の原因

 鉄幹は、もともと上京意識を持っていたようですが、上京した直接の原因は、山口県徳山に住む次兄・照幢(しょうどう)が経営していた、「徳山女学校」(寛の頃は「白蓮女学校」 )の教師として熱弁を振るう寛と教え子の浅田信子(あさださだこ)の間に芽生えた恋のようです。

 鉄幹は、不遇の時代、明治22年(1889)17才のとき、 次兄・赤松照幢を頼って山口県徳山の徳応寺(現・周南市)に身を寄せます。そして、寺の境内に設けられた赤松家が経営する、徳山女学校で、国語の教師として教鞭をとりました(明治25年・1892 ・20才まで)。その時の生徒に浅田信子(徳山町の旧家・資産家・徳応寺の寺総代の娘、)と林瀧野(佐波郡出雲村の資産家の娘)がいました。

 信子は熱弁を振るう鉄幹に思いを寄せたようですが、父母は身元のしっかりしない、学歴のない鉄幹との交際を許さず、狭い町の中でも噂が立ちはじめ、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『狭い田舎町だけに二人の噂はじき周りの者の知るところとなり、学校長であった兄照憧は妻の安子らと相談の末、寛に退職をすすめ、三年で寛は徳山を去ることになった。』(p15)

 としています。中 晧は後年の寛の「自嘲自虐」癖を早くも読み取って(中 晧 「与謝野鉄幹」p48)

 『教師と生徒との恋は醜聞として受けとられるような時代であったから、照幢は寛をやはり父の許に返さざるを得なかったであろう。寛も徳応寺を去って、結局は比叡山が重苦しく頭上に迫ってくる一乗寺の僧院で淋しく衰残の身を養っている父礼厳の許に帰っていかざるを得ない。

 寛が徳応寺を去ったのは明治二十五年の六月前後であるとの由(谷林博氏)。明治二十六年二月一日の「婦女雑誌」掲載の「周防徳山女学校の生徒諸嬢に贈りたる書中に」と題して、別れて来た教え子たちへの愛情と悲しみを綴った、寛の文章の中で「時もて云へば己に六月(むつき)を経、云々」とあるところから、二十五年七・八月のころとも考えられる。同じ「婦女雑誌」二巻十六号には次の二首も掲げられている。

 夏述懐
 己が身ハ 夏の夜頃の 麻衾 押のけられて 世にもある哉
 己が身ハ 蓮の浮葉の 立出ん 望もなくて 世を過すかな

 この余計者意識、不遇感は寛の心から一生離れることなく、後年、自嘲自虐の痛痛しい痕をその作品の上に残すことになるが、この時追いつめられたような気がしたにちがいない。寛は十九歳になっていた。』

 としています。そして

   馴衣(なれぎぬ)の 胸も心も 合ふ中を 断たんとすらん 人ぞうれたき(婦女雑誌)

 と詠むような気持ちで、明治25年(1892)夏、上京しています。別に略年譜を添えますが、幼少を他人のもとで過ごし、渡り歩いた寛にとって、徳山もその一過程で、心情的には必ずしも安定した土地ではなかったようです。しかし、この時の信子は最初の妻となり、同じように学んだ林 瀧野が次の妻となっています。

駒込・吉祥寺境内・学寮へ移る

 菊坂には1ヶ月ほど住んで、同じ本郷ですが少し距離がある本郷駒込吉祥寺境内に転居しました。義兄の家があまりにも経済的に困窮し、迷惑を掛けるわけにはいかなかった とされます。(2005.02.22.記)

東京の与謝野鉄幹 ・晶子目次へ

関連略年譜

明治6年(1873) 1歳

2月26日、山城国愛宕郡(おたぎのこおり)願成寺(第四区岡崎村本願寺掛所)に与謝野礼厳、ハツヱの四男として生まる。

明治9年(1876)4歳

京都市外吉田村錦隣小学校最下級(現在の幼稚園)に入学、佐々醒雪も入学。

明治13年(1880)7歳

4月、父礼厳は、次兄照幢、三兄巌をつれて鹿児島市西本願寺別院開に教師として赴任。
9月、母、弟修、妹シズと共に寛も鹿児島に移り、鹿児島市名山小学校に転校。

明治14年(1881) 8歳

父に従って鹿児島県姶良(あいら)郡加治木町説教所へ転居。
1月、母が妹を連れて京都へ帰る。

明治15年(1882) 9歳

11月末 一家、鹿児島から京都に戻る(木屋町仏光寺橋下ル=鴨川西岸)。
12月20日頃、京都市西本願寺派発願寺の鈴木忍宏の養子となる。

明治16年(1883) 10歳

2月 養家を去って父母のもとに帰る。
6月 大阪府住吉郡遠里(うり)小野村安養寺の養子となる。安藤姓を名乗る。
    鉄南の父を通じて鉄南と知り合う。

明治17年(1884) 11歳

次兄照幢 西本願寺の僧赤松連城の養子となる。

明治18年(1885) 12歳

7月1日 三兄巌が失踪。
11月 「海内詩媒」に漢詩を投稿しはじめる。澄軒逸史、鉄雷道人等の雅号を用う。
この年、雅号を鉄幹とする。梅花を愛する故とされる。

明治19年(1886) 13歳

4月、養家安養寺・安藤家を去る。岡山の長兄和田大門に身を寄せる。

次兄照幢、7月22日廃嫡、8月6日 山口県下周防国都濃郡徳山村赤松連城養子に入る。

明治20年(1887) 14歳

11月初め京都の父母の許に帰る。

明治21年(1888) 15歳

同志社入学を志望したが学資がないため果たせなかった。

明治22年(1889) 16歳

 この年、西本願寺で得度し、法号を「礼譲」とした。
4月、山口県徳山の次兄照幢の許に身を寄せ、照幢の経営する徳山女学校で国語・漢文を教える。
   傍ら「山口県積善会雑誌」の編集に従事する。教え子に浅田信子、林瀧野がいて、知り合う。

明治23年(1890) 17歳

9月、『邦光社歌会第三集』に礼譲の名で和歌二首掲載される。同月、「善のみちびき」一号に鉄幹生、
   12月の同誌二号に鉄幹居士の署名で、短歌、長歌を発表する。

明治24年(1891) 18歳

6月10日、安藤秀乗養子離縁、安養寺から離籍、与謝野姓に戻る。

明治25年(1892) 19歳

2月、積善会より「霊美玉廼舎主人」の号で『みなし児』刊行。
3月 徳山女学校を辞す。6月退職との説もある。浅田信子との関係が原因とされる。
9月ごろ上京。1ヶ月ほど本郷菊坂の異母兄大都城響天の家に寄宿。本郷駒込吉祥寺境内寄宿舎に住む。 
9月15日、落合直文門下生となる。以後直文の庇護と指導を受ける。
12月1日 「鳳雛」を発行。この年から翌年にかけて「婦女雑誌」に本名の他に奇美霊舎主人、桜暾(おうとん)山人の号で、歌文、評論を掲載する。

明治26年(1893)20歳

2月、落合直文宅に寄食。