与謝野鉄幹文壇に登場、朝鮮に渡る
明治26年(1893)2月〜明治31年(1898)
本郷区浅嘉町78番地(本駒込3−6−9)

駒込吉祥寺内の寄宿舎で
「焼芋を以て一日一食に代へ、或はしばしば絶食」しながら勉学に励む鉄幹を
路一つ隔てて住んだ、落合直文が見ました。

直文は鉄幹を自宅に寄食させ、世に出します。
鉄幹20才、いよいよ文壇への登場です。
たまたま、同じ地域に住んだことが幸いして、直文とは生涯の交流が続きます。

駒込吉祥寺の目の前

 落合直文が住んだ、本郷区浅嘉町78番地(現・本駒込3−6−9) は鉄幹が苦行していた駒込吉祥寺と路一つ隔てた目の前にありました。この出会いは本当に不思議だと思います。鉄幹は明治25年上京後間もなくの9月15日、あこがれの落合直文門下生となりました。

 したがって、鉄幹と直文の文学上の結びつきはすでにありました。しかし、直文は明治26年1月、小石川掃除町から、ここに転居してきました。もし、別の処に転居していたら、鉄幹の運命はまた別になっていたかも知れません。

 雪の夜に 蒲団も無くて 我が寝るを 荒き板戸ゆ 師の見ましけむ

 と、寛が「明星」終刊号で詠んでいるように、直文は、雪の朝、寺内を散歩している時、寄宿舎の中で、あるかないかの煎餅蒲団にくるまって寝ている鉄幹の姿 を発見して、明治26年2月、自宅に寄宿させたとされます。永畑道子「憂国の詩(うた)」では

 『まもなく、近くにボヤ騒ぎがあって、鉄幹が直文の家に避難したとき、直文は鉄幹をつれて銭湯に出かけた。
やがて家に帰ると、まあたらしい衣服、羽織、下着まで用意してあり、桐の下駄も、直文自身と同じものがととのえてあった。“先生の、当時の乏しい俸給と、著作報酬”のなかで、後進をおもう愛情に、鉄幹は心をあつくした。』(p77) とあります。その家は 吉祥寺の目の前にありました。

 上記の図のように、営団南北線・本駒込駅下車、1番口でも、2番口でも本郷通りに出ます。 2番口に出れば、そのまま右にJR駒込駅、六義園方面に進みます。本郷通りの左側に天栄寺、南谷寺(目赤不動)、養昌寺と見ながら5分もかからずに、右側に吉祥寺が見えてきます。吉祥寺の 山門に至る前に

「吉祥寺通用門」の石柱がある路があります。
5〜60メートルほど進むと、右側に

文京区が設置した「あさ香社跡(落合直文終焉の地)」の案内標示があります。

 『・・・・、明治26年(1893)旧小石川掃除町から、旧浅嘉町78番地(当地)に移り住んだ。翌年2月町名にちなんで「あさ香社(浅香社」という歌塾を創設し、新しい短歌運動をおこした。社友には鮎貝塊園(かいえん=実弟)、与謝野鉄幹、尾上柴舟(おのえさいしゅう)ら30人ほど集まった。ここから、新詩社(鉄幹)、いかづち会(柴舟)など、和歌革新運動が起こり、発展していった。・・・』と書かれています。「塊園」が使われています。

直文も愛でたのだろうかと思わせる庭石が置かれています。

 直文と鉄幹との出会いを、矢野峰人は「鉄幹・晶子とその時代」で

  『早起の癖のある直文は雪景色を賞するため山内に入つたところ、たまたま破窓を通して、一枚の煎餅蒲団にくるまつて臥してゐる鉄幹を認めたが、そのときはそのまま黙つて帰つた。数日後、彼が直文を訪れたところ、萩の家の主人は彼に向つて、「予の家に仮寓せよ、書生として鄙事に与る要無し」と勧め、傍なる鮎貝槐園またしきりにこれを慫慂(しょうよう)した。鉄幹は大いに感激してこれに従つたが、数日の後、派せられたる婢に
迎へられて落合邸に移るや、「特に衣服、羽織、下着まで新調しありて直に着替へしめられた」のみならず、やがて共に銭湯に誘はるるままに出でんとすれば、「先生の常に穿き給ふと同じ桐の大型なる下駄を寛のために調へられたるを見」た。

 鉄幹が寄食を勧められてから婢に迎へられるまでに数日を隔てたのは、その間に彼に与ふべき衣類一式を調へんがためであつた。しかし、二人相携へて銭湯に赴くに当り、各々の穿つ履物に毫末の差違もなからしめた、こまやかな心遣ひを見ては、鉄幹ならずといへども感激せざるを得ないであらう。』(p42〜42) 

 と書いています。鉄幹はここでようやく生活の基盤を得 て、文壇への登場の基盤をつくりることができました。最初に参画したのが「浅香社」の創立でした。

「浅香社」の創立

 「浅香社」の創立については、その時期を2月、4月とするなど多くの論があり、素人にはとても整理がつきません。伊藤整 日本文壇史から引用します。(3巻p116〜117)

 『明治二十六年一月、即ち正岡子規が俳句の革新を「日本」の俳壇で實践しはじめてから二月目に、落合直文は、萩の舎と名づけたその住所のある本郷区駒込淺嘉町七十八番地にちなんで、「淺香社」なる結社を起
し、和歌のみならす、新体詩、新しい國文學等の指導者としての實践活動に入つた。この年彼は数へ年三十三歳であつた。

 この淺香社には、・・・・それ等の同人の中で國學漢學に特に傑出し、しかも強靱な性格を示してゐた一人の苦学生があつた。名前を与謝野寛と言ひ、年は二十歳であつた。彼は不規則で複難な教養を経て來てゐた。・・・』

 ここで、寛・鉄幹は直文の紹介により森鴎外と近づきになり、大町桂月、尾上紫舟(さいしゅう)、金子薫園(かねこくんえん)、久保猪之吉らと交流します。また、直文の弟である鮎貝槐園( あゆがいかいえん)と特に親しくなりました。この年の1月、島崎藤村や北村透谷が「文学界」を創刊しています。 文学の世界も大きく動こうとしていました。伊藤整(日本文壇史 3 p119)は

 『明治二十六年の初めは、文壇の實質的な変換のきざし始めた時である。ロマン主義的傾向の新精神は北村透谷を中心にする「文學界」の創刊においてその基礎をおかれた。また俳句の革新は正岡子規の「日本」俳壇において準備された。和歌の革新は落合直文とその弟子與謝野寛等の淺香社においてその緒についてゐた。』

 とします。直文は「棚草紙」、「日本」、「自由」新聞、「二六新報」、などに寛を紹介して、寛の文壇へ登場する基盤がつくられて行きました。

正岡子規との交流

  明治26年夏、寛は親友となった鮎貝槐園と一緒に槐園の故郷仙台へ旅をしました。その途中、松島へ旅行中の正岡子規と会い ました。後に、両者は対立しますが、この時期には意気投合しています。伊藤整 日本文壇史では

 『與謝野は壮士風な性格を衒(てら)ふところがあつた。彼は明治二十六年の八月に、親友であつた落合直文の弟なる槐園鮎貝房之進と共に鮎貝の郷里仙台へ族をしたが、その時松島へ族行してゐた正岡子規に逢つた。

 そのとき鮎貝槐園と與謝野寛が和歌の改革をしなければならぬと語り、正岡子規もそれに賛成した。正岡子規は、その頃から俳句のみでなく、和歌の改革をも志してゐて、その明治二十六年の三月から五月にかけて「文界八つあたり」を書き、その中で、古風になづんだ和歌の沈滞ぶりを攻撃してゐた。

 その頃、與謝野寛は萬葉集に熱中してゐて、二度も萬葉集の筆写を試みたことがあつたほどであつた。そしてそれから後、興謝野寛は駒込に佳み、また根岸に佳んだ。根岸は正岡子規のゐる所であつたので、彼はしばしば正岡を訪ひ、志を同じく、する二人の交際は続いてゐた。』(伊藤整 日本文壇史 4p140)

 としています。

鉄幹 文壇への登場

 寛は号を「鉄幹」としました。明治26年(1893)10月26日、「二六新報」が創刊され ると、鉄幹は直文から推挙されて、記者となります。 編纂や大組の実務に従事し、その傍ら、歌を作り、明治27年(1894)5月10日から18日まで、「亡国の音(おん)」を二六新報に 連載しました。

 徹底した宮中御歌所派批判で、直文も困惑したと伝えられます。また、後に明星で自らが演出した「恋歌」を亡国の音とするあたり、鉄幹の若気を感じます。

 『彼等歌人の多くは恋歌を排斥しない。これを奨励さえする。・・・・・醜聞は往々妙齢歌人の間に起こる。世に風俗を壊乱するものがあるとすれば、自分はこの「恋歌」をもってその一に加えるをためらわない。ああ亡国の音。……いま都も鄙もいたる所宮内省派を模倣している戯(たわけ)け者が多いのを見れば、・・・・・毒は現に一世を病ましめつつある。革新は進歩の一段階、・・・・・現代の歌人を代表する者その自己を省みらるることを望む』

 鉄幹への風当たりも強かったでしょうが、向こう見ずの純粋さがそうさせたようにも思えます。日清戦争(明治27年=1894)を契機に、鉄幹は朝鮮に出かけます。

 明治28年(1895)4月、二六新報社を止め、京城に渡っていた槐園の招きにより、朝鮮政府がつくった学校「乙未義塾」(いつびぎじゅく)( 槐園が総長・校長)に、日本語教師として招かれます。

 その年、10月、 朝鮮でクーデターが起こり、鉄幹も巻き込まれそうになりますが、腸チフスで入院中であったことから、広島に護送されて帰国します。この間に、詩集「東西南北」がまとめられました。

 その後も寛は、年譜に記すように何度か朝鮮に渡ることを繰り返します。その目的が外国へ渡っての文学修行のための資金づくりで、朝鮮人参を扱う事業の展開であるとか、政商への転身とかであることが伝えられ、直文を心配させます。そして、直文は明治29年、帰国した鉄幹を明治書院の編集部に推挙し、その後、跡見女学校の国文科教師に推薦しました。

 鉄幹は 第二詩集「天地玄黄」(29年7月、明治書院)を出版し(この年11月23日樋口一葉死去)、明治30年、再度、朝鮮に渡り、翌31年に帰国します。その間につくられたのが「人を恋ふる歌」 とされます。(30年京城においてつくる)

  妻をめとらば才たけて     恋の命を たずぬれば
  顔うるはしくなさけある     名を惜しむかな 男子ゆえ
  友をえらばば書をよんで   友の情けを たずぬれば
  六分の侠気四分の熱     義のあるところ 火をも踏む

 でした。事業経営者、政商を目指すなどと云われながら、いつの間にか詩人としての地位を確保し、文壇へ登場していました。時代がそうさせたのでしょうが、つくづく不思議な人だと思います。 なお、この間に、鉄幹は次々と住所を変えたようです。

   ・根岸に住み、正岡子規を訪ねた
   ・巣鴨に、鮎貝槐園と同居した
   ・本郷西片町の下宿に住んだ

 などの説があります。残念ながら、無力で確認できていません。

浅田信子(さだこ)との結婚

 鉄幹が朝鮮から帰国して間もなく、明治31年(1898) 8月17日、父・礼厳が死去しました。長兄、次兄もそれぞれに他家に養子縁組していることから、寛が与謝野家を継ぐことになり ました。父は、徳山の照幢のもとに養生していたため、鉄幹は徳山を訪ねて、病床を見舞い最期を看取ったようです。

 そこには、かっての教え子で、恋をし、その仲を裂かれて上京を余儀なくされた「信子(さだこ)」がい ました。鉄幹は浅田家に立ち寄って、やがて信子は上京してきます。浅田信子との生活については、ページを改めて「与謝野鉄幹と浅田信子」にまとめます。 (2005.02.16.記)

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関連年譜

明治26年(1893) 20歳

2月 落合直文宅に寄食する。
2月 浅香社設立。4月20日ごろ、あさ香社成立とともに、その中心となって活躍する、との説あり。
7月 直文、鮎貝槐園、寛の合著『騎馬旅行』刊行。
7〜8月 槐園と仙台、松島に遊ぶ。子規と会談する。紀行「松風島月」を新聞「日本」に連載。
10月ごろより鉄幹の雅号を再び用い初める。
10月26日 「二六新報」創刊。鉄幹記者となる。社主秋山定輔、社員で天祐侠でもあった鈴木天眼、安達九郎(本間九助が本名)等の大陸経営に志を寄せる国粋的志士と知り、影響を受ける。

明治27年(1894) 21歳

5月、歌論「亡国の音」を「二六新報」に連載。
5月16日 北村透谷自殺
8月1日 日清争が起る。この年から翌年にかけて「二六新報」に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載。
      「筑後壮年義会」の機関誌「後筑」一号に寛の短歌、新体詩掲載。
夏 父礼厳が一乗寺村より愛宕郡田中村に移る。
秋 鮎貝槐園が朝鮮の乙未義塾長となり、渡鮮。

明治28年(1895) 22歳

4月 二六新報社を止める。京城の槐園の招きにより、朝鮮に渡り乙未義塾の教師となる。
   その途次、大阪に立ちより、河井 酔茗と初めて会う。
10月8日 朝鮮王妃閔妃(びんぴ)殺害事件起こる。鉄幹政治犯と誤解され、広島に護送される。
11月2日 京都の父母のもとに帰る
12月 再び朝鮮に渡る。

明治29年(1896) 23歳

4月16日 直文の招電により朝鮮より帰国。
 明治書院の編集部主任となる。『中等国文読本』等の編集を助ける。
 跡見女学校の国文科教師となる。
6月 『孝女阿米』を防長婦人相愛会より刊行。
7月 第一詩歌集『東西南北』刊行。
9月2日 母ハツヱ死去。釈尼信順。亨年57歳。
  冬 父礼厳、清閑寺(京都市東山区)に僑居する。

明治30年(1897) 24歳

1月 詩歌集『天地玄黄』刊行。
7月31日 第三回渡鮮。朝鮮民謡の研究。

明治31年(1898) 25歳

2月 正岡子規「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載 
   佐々木信綱の「心の花」創刊
3月 正岡子規 根岸庵で短歌会を開く。
4月  朝鮮より帰る。3月説、4月説などあり。
   「人を恋る歌」に「四たび玄海の浪をこえ」があるので四回目の渡鮮があったことも考えられている。
6月 落合直文門下による「雷会」結成
8月17日 照幢の養家にて父礼厳死去。亨年75才。寛が与謝野家を継ぐ。
 浅田信子との恋が実る。