敗荷
(はいか)
(与謝野鉄幹・山川登美子)
 

 初冬になると思い出します。鉄幹の「敗荷」(はいか)。上野・不忍池(しのばずのいけ)の蓮(はす)は枯れて、 湖畔の酒亭で酒を含んでも、心の寒い鉄幹が、フーッと深いため息と一緒に吐き出したような歌 。「紫」(明治34年4月出版)の中にあります。残荷、漢語で、冬に枯れた蓮の意味とか。

      敗荷

       夕(ゆうべ)不忍(しのばず)の池ゆく
       涙 おちざらむや
       蓮(はす)折れて月うすき
 
       長だ亭(ちょうだてい) 酒寒し (だ=酉+它)
       似ず 住の江(すみのえ)のあづまや
       夢 とこしへ甘きに

       とこしへと云ふか
       わづか ひと秋
       花 もろかりし
       人 もろかりし

       おばしまに倚(よ)りて
       君伏目がちに
       鳴呼(ああ)何とか云ひし
       蓮に書ける歌

 嫁いでしまったのに、胸にいつまでも残り、思い切れない人。枯れて、折れた己の向こうに輝く、美しい人、才ある人。伏目がちの君は「山川登美子」。前年(33年) 8月と11月に出会ったばかりでした。

 明治33年8月3日、鉄幹は関西青年文学界の誘いを受けて、新詩社の支部設立、明星の宣伝・拡大運動に、大阪、堺、京都へ出かけます。 妻の実家がある徳山へ廻り、生まれくる子供の入籍、金策のことで、瀧野の父親との話し合いも必要でした。

初めての出会い

 講演会、歌会と行事が続く中で、鉄幹はかねてから明星への投稿を求め、歌の指導と賛辞を送っていた、山川登美子、鳳(おおとり)晶子と初めて顔を合わせました。 登美子は、「文庫」に投稿した

    鳥籠を しづ枝にかけて 永き日を 桃の花かず かぞえてぞ見る

 をいきなり鉄幹によって明星2号に転載されて、その上、続けての投稿を待つとの手紙を受けました。当時、登美子は美術の道 を目指していたそうですが、歌の世界へと火が付けられました。方や、明星第1号をむさぼるように読んだ晶子のもとにも、鉄幹から

   いまだ見ぬ 君にはあれど 名のゆかし 晶子のおもと 歌送れかし

 と誘いの手紙が届きました。晶子は羊羹の老舗の帳場で、夢の世界に心をおとどらせていました。 さらに、明星の歌壇の消息欄で、二人を「妙齢の閨秀作家」とその動向を紹介します。こんな扱いを受けたら、二人とも気持ちが揺すぶられ、一度に世界が開かれたような思いであった ろうと想像できます。

 晶子は当時 、家から近い「覚応寺」の僧・鉄南に、「二、三日も御返事御まち申してもなき時は、私は死ぬべく候」と手紙を書いて、心を寄せていました。その鉄南 が、晶子に明星を紹介したのでした。さっそく

   しろすみれ 桜がさねか 紅梅か 何につつみて 君に送くらむ

 など、6首を詠んで鉄南に投稿を託します。何と、その全てが明星2号に掲載されました。一方、登美子も

 新星(にいぼし)の 露ににほへる 百合の花を 胸におしあて 歌おもふ君

と詠んでいます。完全に両者とも鉄幹に気が向いています。以後、明星3号、4号には、二人の歌が競うように登載され、相互に相手を尊敬しながら、その存在を意識するようになっていました。 頃合いを見たかのように鉄幹は姿を目の前に現しました。

 待ち望んでいた8月6日、浜寺の寿命館で 歌会が開かれました。時の人鉄幹は、意外にざっくばらんで優しく気を遣う人。出席した二人は感激に包まれて、鉄幹の一挙手、一言が憧れとなり慕情を深めます。夕刻、浜に遊んだ折り 、鉄幹は、さりげなく身辺の様子を語り、妻との関係は

   むらさきの 襟に秘めずも 思ひいでて 君ほほゑまば 死なんともよし

と、微笑みのない瀧野との生活、そのほころびを打ち明けています。この時の歌会には、文壇照魔鏡で名が出る、梅渓も参加していました。 三人の動きはどのように写ったのでしょうか。

 8月7日、鉄幹は神戸で講演を行いました。登美子は出席しましたが、晶子は欠席でした。8日には、鉄幹の宿で歌会が開かれました。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では、8月7日、神戸からの帰途、登美子と鉄幹は二人だけの時間を過ごし、8日の歌会に登美子が送れてきたことなどから「愛をたしかめ合った」(上 p100)と指摘しています。

住吉神社の蓮

 8月9日の午後、鉄幹は中山梟庵(よしあし草の編集長)、登美子、晶子を誘い、大阪の住吉神社・縁結びの「おもと社」を訪ねました。蓮池の大きな太鼓橋 を渡ります。ここからは物語の世界です。

 『太鼓橋の下には蓮池があった。寛はたわむれに、矢立ての筆をとり出して、蓮の葉のうらに歌を書いた。

   神もなほ 知らじとぞ思ふなさけをば 蓮のうき葉の うらに書くかな

 「あなたたちも書いてごらんなさい」
 寛は笑いながらいった。
 「あら、葉を折ってもよろしゅうございますの? 神さまが見ていらっしゃらないかしら」
 登美子は白い繊手をのべて水の中に指を入れ、蓮の葉をたぐりよせた。そして口ずさみつつ、

   歌かくと 蓮の葉をれば いとの中に 小さきこゑす 何のささやき

 と書いた。まことに乙女らしい可愛い歌であった。

 晶子は、白い登美子の顔がほほえむのを、可憐で美しいと見た。しかしその登美子を、寛もな
 がめているのに、心をみだされた。それは登美子への友情のうらに流れている、嫉妬である。

  「〈蓮きりて よきかと君が もの問ひし 月夜の歌を また誦(ず)してみる〉というところがお返しだ。
 鳳くん、ひとつ、歌があるべきじゃないか」

 寛は楽しそうに晶子を見返った。晶子は蓮の葉に書くことはしないで、今宵は華やかな友禅の
 絽のたもとを抱え、

  「〈月の夜の 蓮のおばしま 君うつくし うら葉の御歌 わすれはせずよ〉」

・・・・・。』(田辺聖子 千すじの黒髪 文春文庫 p178)

 この会の後、鉄幹は岡山、徳山と廻り、瀧野の実家を訪ねます。新しく生まれてくる子供の入籍などについて、瀧野の父らと話し合った ようです。しかし、婿養子として入籍する約束を守らないで、資金の用立てを頼み込む鉄幹に対して、離婚の話もほのめかされたようです。

登美子の婚約

 登美子は鉄幹に手紙を書きます。

 浜寺、住の江の歌まきは 早おもひで草となりて、やさしき人々のみこころを語り申し候。
 けさ 起きいでて 雨にぬれたる露の朝顔、あまりのかはゆさに 思はず口つけ候へば、冷かなるその露、
  かりそめながら やさしきかをりは 忘られがたく候。
 殊に 少し なやみたらむやうに 傾きたるが、さ はりし手に おちまゐりしかば、拾ひて 頬にあてて、
 更に あまきあまき 露を唇に致し候。云はん方な き やさしさに、この罪、神に祈りつつ、
 ひと花つみて 封じ参らせ候。御手に上らん時まで しをれ なとこそ 念じ参らせつつ。

                                              登美子

 鉄幹は

   やさぶみに 添へたる紅の ひと花も 花と思はず 唯君と思ふ

 と返しています。晶子も情熱的な歌を送り、早々に、鉄南に別れの手紙を出しています。登美子は歌に生き、鉄幹との生活を夢見ますが、登美子の父は許しませんでした。 明治33年10月、父親は本家筋に当たる山川一郎家の養子・駐七郎(もと外交官) との婚約を進めました。武家の空気に育った登美子は、気の進まないままにも嫁ぐことを決めざるを得なかったようです。

永観堂・登美子の結婚

 明治33(1900)年10月27日、鉄幹は再度、徳山へ向かいます。10月29日、瀧野の実家・林家を訪ね、 9月23日、瀧野が生んだ長子「萃」(つとむ)と瀧野の与謝野家への入籍の話をします。林家ではかってからの約束=鉄幹の婿入りの実行を主張し 、物別れとなり、離縁を申し出たとされます。

 鉄幹はその帰途、登美子に手紙で大阪に立ち寄ることを連絡しました。登美子は嫁ぐ身であることを伝え、晶子にも連絡するように答えます。鉄幹からの連絡を受け晶子も、登美子と会うことを理由にして、11月5日、三人で京都で落ち合います。紅葉が映える東山に向かう途中、鴨川を目にして登美子は

   鴨川は それにふさはず この夕 花投げて入らん 淵はいづこぞ

 と身を投ずることを示唆しています。その日は永観堂に遊び、粟田山の辻野旅館に一泊します。鉄幹は、『男子として耐えられない侮辱を受けたから、妻と離別すると誰彼に告げ・・・』(正富汪洋(まさとみ おうよう)「明治の青春」p31)ます。晶子は歯がゆかったのか

   星の子の あまりによわし 袂あげて 魔にも鬼にも 勝たむと云えな

と詠んでいます。登美子は心なくも嫁ぐことを話します。そして

   絵筆うばひ 歌筆折らせ 子の幸と 御親(みおや)のなさけ 嗚呼あなかしこ
   それとなく 紅き花みな 友にゆづり そむきて泣きて 忘れ草つむ(明星11月号)

と詠みました。

 登美子は若狭へ帰ります。終日部屋にこもる日が続いたとされます。そのなかで

   さわいへど さはことほげど 我も おとめ あけの袖口 けさ引き裂きぬ

 と悲痛な気持ちを詠んでいます。明治33年12月、仮祝言をします。津村節子「白百合の崖(はて)」では次のように書いています。

 『東京の牛込矢来町に住む山川家へ嫁ぐのは来春を待ち、祝言も東京で挙げることになっているので、これは主として登美子の身内が集まっての披露とも言うべきものであった。

 押し詰ったこんな時期に、慌しく仮祝言を挙げるというのは、登美子の予想以上の悲嘆ぶりに貞蔵が不安を抱き、早々に覚悟を固めきせようとしたのではないか、と登美子は思った。

 だが、結納もすでに交わした縁談に、逆らうことなど出来るものではない。貞蔵は、家長としての絶対的権力を持っている上に、性格的にも瘤癖の強い男で、家族たちは、かれの勘気に触れることを極度に恐れてもいたのである。』(p85)

 『仮祝言の日、登美子は高島田に結い、白の元結に銀の丈長、鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)と銀の平打(ひらうち)を挿し、衣裳は本格的な式服ではなかったが、白羽二重の長襦袢に白羽二重の下着を重ね、紋付の友禅裾模様に、錦の丸帯を締めた。

 ゑいは、今更ながら娘の美しさに興倉を抑えかね、前に立ち、後ろに廻って、何度も嘆声をあげていた。
 やがて、人声や足音が表玄関に近づいてきた。
 新郎、仲人、新郎側の親戚が揃い、新郎はまず仏間にはいって仏壇に参拝する。続いて、奥座敷の金屏風の前に新郎新婦が並び、めおと盃を交わすのだが、登美子はその時初めて駐七郎を見た。

 眉の濃い、鼻すじの通った整った容貌の男であったが、口髭をたくわえているのが、年齢より老けて見える。軍人のようないかめしい髭のせいか、外国帰りらしい雰囲気が感じられるせいか、ひどくとりつきにくい印象であった。紋服を着けているので、体格はわからないが、頬は削ぎ落したようにこけている。』(p88)

 その後、明治34年4月、正式な結婚式が行われ、牛込区矢来町三番地の山川家に住みました。

敗荷

 鉄幹はその頃(明治33年末から34年にかけて)、散々な目に遭います。

 明治33年12月、明星8号発売禁止 その後始末、
 昨年来の正岡子規との歌をめぐる論争、
 2月27日、「日本新聞」による明星廃刊の記事に代表されるように、明星の資金繰りと不振、
 3月10日、文壇照魔鏡でたたかれ、
 4月9日、妻・瀧野が「萃」(つとむ)をつれて故郷に帰ります。
 4月末、借金取りと競売に追われるように、渋谷村に転居します。

 敗荷の掲載された「紫」は、明治34年4月の出版であり、上のような過程の最中でした。恐らく、明治33年11月の永観堂から、登美子の嫁ぐ間に詠われたのでしょうが、 瀧野は離れ、晶子が思いを寄せる中で、山川登美子への思慕が切なく、不忍池の縁にあのとがった鉄幹の顔が、寂しげに浮かびます。(2004.12.09.記)

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