晶子・評論、小説を書く、寛・慶応義塾大学教授 麹町区富士見町5丁目9番地へ転居 大正4年(1915) 8月 寛と晶子は麹町区中六番町7番地から麹町区富士見町5丁目9番地に転居 しました。転居の理由はわかりませんが、寛が衆議院議員に立候補して落選し、また無口となり、見あたるような仕事もなく、家へ籠もりがちになっていたことも、あったことと思われます。寛は8月に、詩歌集「鴉と雨」を刊行します。その中のいくつかを 拾い出すと わが心 またあらたまる よしなきか 路に死にたる 人のたぐひか 外濠の近く 現在、富士見町の家を訪ねるのは飯田橋駅から降りるのが一番近いのですが、寛・晶子が住んだ頃は、まだ飯田橋駅はなく「牛込停車場」でした。そこで、当時の復元を してみました。ただし、ホームと駅前広場がどのようになっていたのか、正確な地図を持っていないのではっきりしません。 当時は壕に2本の橋が架かっていて、駅からの路はそこに繋がっていたとされますので、その前提に立ってつくりました。間違いがあるかも知れませんので、ご指摘をお願いします。
JR飯田橋駅を降りて、堀端を東京逓信病院、法政大学の方向に進み、東京逓信病院の角を左に回れば迷うことなく赤○印の箇所に出られます。ところが、現状はビルで何の標識もありません。 ビルの向こうが東京逓信病院です。
麹町区富士見町5丁目9番地一帯の現状はこのようなビルになっています。ビルの角を左に回ると 靖国神社方面に少し進むと、画像右のように、左側が駐車場になっています。 左画像のように、駐車場と路一つ隔てて小公園が設けられています。 与謝野鉄幹 晶子居住跡 『二人は明治34年に結婚し、大正4年から大正12年の関東大震災まで当地に居住した。 と書いてあります。写真を撮っていると、二人連れが 『あッ、ここに与謝野晶子が住んでいたんだ!』 といって、感慨深そうです。恐らく誰もが、ここに居住跡があったものと思うでしょう。 古図では、麹町区富士見町5丁目7番地になります。それでいいのかな?と 割り切れませんが、それも仕方ないかと諦めの気分にもなります。その内、当時の家の写真やたたずまいを伝える案内板が設置されるだろうから、それを期待しようと、言い聞かせて別れを告げました。 大人のメルヘン 今回はJR飯田橋駅から歩きました。ついでだったので、石川啄木が一時住んだ市谷砂土原町に廻ろうと、堀端を新見付橋の方に歩きました。右側に濠と中央線の線路が見えます。そうだ、「金魚のお使(つかい)」の主人公達はこの線路の上を往復したんだと、晶子が明治43年に発表した童話の世界が急に浮かんできました。 三匹の金魚が、「甲武線の電車の新宿の停車場(すていしょん)」で、「金魚さんには切符は上げられません、お手々がないから。」と断られたのを、駅夫さんの特別の計らいで「大久保の方から来た電車」に乗ります。出発しようとすると、息が苦しくなって、「ああ苦しい、水がなくちゃあたまらない」と金盥に水を入れてもらって、「ちゃぷん、ちゃぷんと飛び込んで」、出発します。 「代々木だの千駄ヶ谷だの信濃町だのを通りまして、四谷のもとの学習院の下のとんねるへ入」ると、急に「電気燈」がついてそこらが暗くなったので、2匹は「夜分になったのだと」思っていびきをかいて眠ります。「それからだんだんと市ヶ谷だの牛込だの飯田町だの水道橋などを通って電車はお茶の水の停車場(すていしょん)へ着きました。」 「景色の好い処(ところ)だねえ。」「あれはね、僕達の御馳走の ぼうふらを とって居るのですよ」 用事を果たして、電車に乗って新宿に帰ってくると、「太郎さんと二郎さんと千代ちゃんは停車場へ小さいばけつを一つずつ持って金魚をお迎に来て居ました。」 で、「金魚のお使(つかい)」は終わります。太郎さんと二郎さんと千代ちゃんは 、晶子の子供、「光」と「秀」と誰か女の子の実名が使われていたはずです。晶子が、それぞれの子供達を主人公にして、即席の話を語って聞かせている様子が白昼の堀端に陽炎になって、これは大人のメルヘンでもあったのだと思った次第です。
「」内は比較的手に入りやすい松平盟子編著「母の愛11人の子を育てた情熱の歌人 与謝野晶子の童話」(婦人画報社)から引用しました。銀貨社のHP中、「児童文学散歩 第3回「金魚のお使」電車路マップ」がとても軽快にこのルートと晶子のことを伝えて魅力的です。 荻窪へ転居 昭和2年(1927)9月、寛と晶子は東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪(現・杉並区荻窪二丁目119番地) の新築の家(遥青書屋(ようせいしょおく)・采花荘(さいかそう))に転居 しました。 大正12年(1923) 9月1日、関東大震災が発生し、寛・晶子の住む家は破壊焼失を免れましたが、晶子が丹誠込めて続けてきた「新新訳源氏物語」の原稿を焼失 してしまいました。それも、安全を考えて、文化学院に保存していたことが逆となって、文化学院が壊滅状況になったため、焼失したものでした。 この関東大震災が郊外への転居の理由のようです。与謝野光の「晶子と寛の思い出」では
『関東大震災で、富士見町はうちの近くまで焼けたんです。その時に、市民がぞろぞろ汽車や電車に乗ったり歩いたりして郷里へ帰るわけです。 『震災のあとに、僕と秀が、もうすでに小さい家を建ててそこに住んでいたんです。自炊をしてね。だんだんそこへ建て増ししていくわけです。それで昭和二年に母屋も出来て、みんな引っ越すんです。』(p88) としています。 この時代の活動 この時代、晶子は歌つくりとともに、童話、評論と活動が一段と拡大しました。また、「明星」の復刊がなされ、文化学院への参画、寛の慶応義塾大学教授就任と経済的にも安定したようです。この家での寛と晶子の主な活動をあげておきます。 寛 大正4年(1915)8月 詩歌集「鴉と雨」刊行(東京新詩社) 何としても、明星の復刊は寛にとって 死地を脱する思いであったと想像します。寛が、慶応義塾大学の教授に就任し、また、文化学院に携わり、収入の安定化が図られたとはいえ、のこの裏には、晶子の必至の尽力がありました。大正7年から、懐紙に自分の歌を書いて資金集めをしました。1部5円であったとされます。 晶子 五男・健、六男・寸(そん)(2日後に死亡)、六女・藤子を出産 童話集 「うねうね川」(啓成社)、「行って参ります」、(天佑社)、「藤太郎の旅」(朝日書房) 文化学院創設 教師として教壇に立つと共に学監となる 関連年譜 いましめの 鈴を振るなる 僧の居ぬ 君と向へる 心の中に 大正11年(1922)寛49才 晶子44才 7月9日 森鴎外死去 大正14年(1925)寛52才 晶子47才
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