与謝野鉄幹と浅田信子
与謝野寛・鉄幹は明治27年以降、3回ほど朝鮮に渡り、その間、何回か転居を繰り返したようです。 その時、再会した浅田信子(さだこ)と結ばれ、上京してきました。 下谷区金杉町上町五六 鉄幹は明治31年から32年にかけて、下谷区金杉町上町五六番地(現・台東区根岸4丁目)か、同上野桜木町(現・台東区上野桜木1・2丁目)に住みました。17歳の時、徳山で浅田信子と恋をして、浅田家の反対から生木を裂かれるように別れて、単身上京してから7年目 です。今度はその浅田信子と一緒でした。経過は下に書きます。 実は、果たしてここに住んだのかどうか、不明です。鉄幹が書いた一枚のハガキが、かすかな手がかりとしてあるだけです。 それは、明治32年8月10日 大阪時代の親友である河野鉄南あてに、信子が出産したことを知らせる書簡で、発信地が「東京下谷区金杉町上町五六 文学書院」とあります。住んだ月日も、家の構造もわかりません。ただ、大きく動こうとする鉄幹のあえぎにも似た意欲を 感ずるとともに、ふと寂しさを見る時代です。
鉄幹が住んだ頃の非常に単純な交通状況であった当時の図を復元したものですが、東京下谷区金杉町上町五六は、当時、上野停車場から日光・奥州街道に出て、三ノ輪方面に向かえば、三島神社の斜め北に、街道に面してありました。
金杉通りはビルと昔のたたずまいが混在する通りで
この三島神社の鳥居の前から、金杉通りを挟んで、やや左上を見ると
三軒ほどの家並みがあります。道路を拡幅する前、この位置に 下谷区上野桜木町
もう一つ考えられる下谷区上野桜木町の方は、最初に生まれた子供が亡くなって、戸籍簿に
「明治三十二年九月十七日午後拾弐(12)時東京市下谷区上野桜木町ニ於テ死亡」と登載されているところです。番地がないため範囲が広くてつかみきれません。
永畑道子「憂国の詩」では「下谷の家」として、
鉄幹と信子が住んだ頃は、状況が全く違っていました。
桜木町の範囲は薄緑のような形で多くの寺に囲まれるようにありました。
ただし、戸籍簿に届け出たのが子供の死亡によるもので
その位置は、東京国立博物館の前の通りを東京芸術大学を過ごして、
東京国立博物館方面から進むと、上野桜木交差点から前方に この復元建物から東京国立博物館方面を見ると
交差点の右角に酒屋さんとビルがあります。この一帯に「丸茂病院」がありました。
少し住宅地の中に入ると、桜の並木があり、落ち着いた雰囲気を伝えます。 父礼厳の死と信子との再会 明治31年(1898)、新進の歌人として中央の文壇に登場し、朝鮮から帰国した鉄幹を待ち受けていたのは、父・礼厳(れいごん)の病でした。礼厳は山口県徳山の徳応寺(現・周南市)の次兄・赤松照幢(しょうどう)に養われていました。鉄幹は徳山に行き、病床を見舞い、8月17日、病死した父を弔います。 父を失い、長兄、次兄もそれぞれに他家に養子縁組していることから、鉄幹が与謝野家を継ぐことになり ました。 鉄幹は、かって、不遇の時代、明治22年(1889)17才のとき、 次兄・赤松照幢を頼って、徳山の徳応寺に身を寄せたことがあります。その時、寺の境内に設けられた赤松家が経営する、徳山女学校で、国語の教師として教鞭をとりました(明治25年・1892 ・20才まで)。その生徒に浅田信子(徳山町の旧家・資産家・徳応寺の寺総代の娘、)と林瀧野(佐波郡出雲村の資産家の娘)がいました。 信子は熱弁を振るう鉄幹に思いを寄せたようですが、父母は身元のしっかりしない、学歴のない鉄幹との交際を許さず、狭い町の中でも噂が立ちはじめ たとされます。 次兄・赤松照幢の立場もあり、結局は鉄幹が学校を止め、町を去ることになりました。 しかし、その後も鉄幹と浅田家とは関わりがあったようで、鉄幹が朝鮮に渡ったとき、信子の父親が事業の展開のため、朝鮮に一緒に行っています。逸見久美「評伝・与謝野鉄幹 晶子」で は 『信子の父の朝鮮ゆきについては、落合直文の弟の鮎貝塊園の「浅香社時代の鉄幹」(「立命館文学」2巻6号)に「木浦に出かけたのは与謝野と与謝野の舅との三人連れであつた。まもなく木浦が開港場になるとの話で舅が与謝野の行く末のためにと土地を買ひに来たのであるが、都合で取止めになつた。与謝野は妻君と別居してゐたのである。」とあり、鉄幹の木浦ゆきは第一回渡韓の、閲妃殺害事件(明28・10/8)の前のことである。』(54) と紹介しています。この通りであったかどうかは、はっきりさせられませんが、父親とつながりをもっていたようです。このような背景から、文壇で名をあらわし、与謝野家を継いだ鉄幹(26歳)は、 今度は違った目で信子(29歳)にも浅田家にも迎えられたことでしょう。 今ぞわが手に と鉄幹が詠(明治31年10月21日読売新聞)むような状況になったようです。信子は身ごもりました。鉄幹は帰京します。信子 も後を追って、内縁のまま上京してきました。永畑道子「憂国の詩」は、明治31年10月22日読売新聞に載った鉄幹の わが恋は 世にはばからぬ沖に立つ たわれの島の たわれはてばや の歌をあげ
『たはれ、すなわち戯れと、わが恋を自嘲している。恋に、身も心も囲われてはならない。めざすものはもっと異なる世界だ。新体詩が象徴する文壇革命ののろし。誰よりもいち早くその峰火を打ち上げることをめざしていた自分ではなかったか。
としています。鉄幹と信子が住んだ跡を訪ねるに際して、この箇所を読むと、信子の心情に胸が押しつぶされそうな気がします。 明治32年5月5日、鉄幹は河野鉄南あてに「荊妻 妊娠、まことに驚くのほか これなく候」と手紙を書きました。 最初の子供が出来て、素直に驚きを表したともとれますが、予定外のような書き方ともとれます。先に紹介したように、信子に対する恋を「戯れ」と自嘲していることを知ると、鉄幹には素直に喜ぶ前に、気がかりなことがあったとも思われます。 それを象徴するかのように、鉄幹は妊娠している妻を置いて、京都に行き、嵯峨の天龍寺で40日間 (月日は不明)の座禅を組んでいます。この鉄幹の行動は様々な憶測を呼びます。鉄幹は、「夏期 思想に懊悩するところあって 京の嵯峨天龍寺で座禅し、苦悶の中に黙想する」と年譜に 書いていますが、妊娠の妻を離れて、座禅を組 むほどの苦悶とは何であったのか気がかりです。永畑道子は「憂国の詩」の中で 『これから自分がやらねばならぬ仕事。正岡子規ら、あるいは関西文壇の『よしあし草』も統合するほどの新しい文学運動をぜひとも、起こす。ここで子が生まれると、妻子ともに日陰の身、世間的にもそのままほっておいてよいものかどうか。鉄幹は憂えた。』(120) と苦悶の中身を分析しています。そのような中で、信子は出産しました。明治32年8月10日付 『去る六日夜 荊妻 女児を挙げ申し 親といふ名儀のものに相成候事 まことにをかしく存ぜられ申候』 と、鉄幹から大阪時代の親友である河野鉄南に宛てた書簡 が残されています。その発信地が「東京下谷区金杉町上町五六 文学書院」となっていることから、この時期の鉄幹の居住地の一つと類推しました。生まれた子供には「ふき子」と名付けられました。 鉄幹は かぐや姫 式部とまでは 祈らねど せめては歌に 千代の才あれ と喜んでいます。しかし、9月17日、「ふき子」は亡くなってしまいました。 戸籍には「明治三十二年九月十七日午後拾弐(12)時東京市下谷区上野桜木町ニ於テ死亡」とあるそうです。鉄幹は
ほほゑみて 死ぬるかあはれ 世の中に 飢ゑても親は 生きむと思ふに と悲しみます。 信子との別れ このように鉄幹・信子との間の子供は40日ばかりで亡くなってしまいました。それが契機だったのでしょうか、鉄幹と信子は別れます。中 晧は「与謝野鉄幹」で 『寛は、明治三十二年三月末から四月初めの間徳山に出かけている。おそらく、八月出産を控えて、サタと自分の身の振り方について相談に行ったのであろう。』(p77) として、出産を前に、鉄幹が信子の実家と相談に行ったことを紹介しています。また、永畑道子が紹介するように『徳山のサダの実家こそ、娘のゆく末をおもい、不安にゆれていた気配がある。出産ひと月前の七月のころ、東京の鉄幹とサダの新生活のようすが、それとなく訪れた郷里のS氏によって浅田家へ、くわしく報告されていた。』ということもあって、いざ、子供が亡くなってみると、実家では信子に離別を勧めたのかも知れません。 もう一つは、先の手紙に、「文学書院」の名があることは、鉄幹はこの地で何らかの文学活動を予定していたことが想像されます。 鉄幹はその活動のため、経済的、人的バックアップを必要としていました。そこから、中 晧は「与謝野鉄幹」で 『谷林博氏「与謝野鉄幹と信子、タキノについて」によると、・・・・父義一郎は江戸時代には町年寄、明治に入って総代、村会議員を勤め、永年徳応寺の檀家総代でもあった。商業で資産を大いに増殖したが、醤油・ビール醸造、煉化製造、汽船会社などの新事業が失敗し、遂に家産を蕩尽するに至った。サタが寛と結ばれた時は浅田家は既に昔日の俤がなく、寛の生活や文学的出版事業を援助する余裕がなかったようである。そのことも離別の一つの理由となったろう。』(p78) としています。この地での生活は、信子との別離によって打ち切られ、次の麹町に移ります。 瀧野との出会い 信子は鉄幹との間に心の溝を持ったのか、親の説得に応じたのか、帰郷します。なお、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では、鉄幹が信子の実家に『借金を申し出て、それが不可能と知ると、信子に離縁の話をもち出した。』 (上 p23)としています。 明治32年(1899)10月、鉄幹は信子の後を追いますが、信子は応ぜず、親も許さなかったようです。意気消沈の中に向かったのが、 近くに住む、かってのもう一人の教え子・林瀧野の家でした。鉄幹の特性でしょうか、ここで瀧野に突如、結婚を申し込みます。瀧野は四人姉妹の長女であったため、 親は躊躇したようですが、鉄幹が入り婿になり、林姓を名乗ることを約束に同意したとされます。(2005.03.04.記) 関連年譜
明治31年(1898) 25歳 明治32年(1899) 26歳
3月20日 鉄幹 堺を訪問
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