晶子歌碑 渋谷・道玄坂の坂上に、与謝野晶子の歌碑があります。 母遠(とほ)うて 瞳(ひとみ)したしき 西の山 渋谷区教育委員会の、役所にしては珍しく、心情をこめた解説の標示が建てられています。 『歌人与謝野晶子が詠んだこの歌は、明治三十五年(一九〇二)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女詩集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、心身の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいが近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。 なお、この歌碑に彫られている筆跡は晶子自身の書簡による集字です。 渋谷区教育委員会』 明治34年(1901)4月、単身、出奔するようにして上京(中渋谷272番地)した晶子の前には、喜びの裏に、鉄幹・寛と別れたばかりの前妻・瀧野、子供・「萃」(つとむ)との間の空気が残されていました。 瀧野を慕う婆やは意地悪く、隣近所には、鉄幹と晶子のプライバシーをささやいたりして反目をしていました。借金返しに追われ、日々の生活にも事欠く状況でした。 どんなに貧しくても、それには耐えられたであろう晶子も、鉄幹が相変わらず前妻やその他の女弟子に手紙を書 くことは耐えられなかったようです。やが、中渋谷382番地に転居しますが、「みだれ髪」を発刊し、自分たちの子供「光」が生まれるまでは、精神的に相当参っていたことが想像されます。その頃、詠まれた歌でしょう。
字体は流れるようです。
晶子が見たら胸をつぶすであろうような姿です。
碑のそばのお菓子屋さんで、銘菓「晶子の詩」が売られているのが微笑ましいです。
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