武蔵野インディアン
(三浦朱門)

「昔はなあ、江戸なんてのもなかったのよ。
中心は鎌倉で交通網は鎌倉街道よ。鎌倉からの道が、・・・

江戸はなあ、新開地でね、それもよそ者の作った城下町よ。・・・

と榎本が侮辱的に云うと、砂川市長の村野は具合悪そうに、頭をかいた。」

榎本も村野も、武蔵野の地付きの豪族の末裔
現在も、多摩地域で多方面に活躍する現役のバリバリ・多摩ネイティブ。

その原住民と作者=新参者・東京白人との交流を通して
武蔵野が描かれる。

それは、武蔵野インディアンが東京白人によって追いつめられる行く末なのか
たくましい武蔵野ネイティブによる新しい場つくりなのか?



河出書房新社 昭和57年


「武蔵野インディアン」

 「武蔵野インディアン」は三浦朱門氏の連作小説の題名です。ところが、この魅力的というか、奇妙というか、何とも極めがたい言葉は、著者・三浦氏によれば、多摩の豪族の末裔、砂川新田の開発者の子孫である「砂川昌平氏」自身が言い出して、仲間に語ったのものを書名にしたのだそうです。

 そこには、江戸以前からの多摩の土着民の自負と自嘲が含まれているようで、紛れもなく多摩原住民の存在を感じます。同じように、近くでは、戦後の農地解放以後の地元有力者が、耕地を取り囲むように進み行く宅地開発を前にして、

 「とうとう、俺らも、アパッチよ・・・。」

 と乾いた声で口を衝く嘆きの言葉を耳にして、思わずハッしたしたことが思い起こされます。「オレーらも」と「オ」にひときわ力が入って、その思い入れの深さにたじろぐのです。

 そして、一方、現在の多摩をリードしているのが、まさにその末裔達で、連綿と続く底力の凄さがもう一つの姿です。作品「武蔵野インディアン」は

  ・先祖代々
  ・武蔵野インディアン
  ・敗戦
  ・解剖

 から成り立ち、様々な話をちりばめながら、市長や神官に地元の言葉で語らせて、そのところをつきます。

 作者自身である主人公「久男」は、昭和2年(1927)、2才で中野から武蔵境に引っ越してきました。そして、昭和13年(1938)、現在の都立・立川高校(東京府立第二中学校)に入学します。そこで、知り合ったのが、砂川昌平、田村半十郎、山下光一、石川要三、青木久などなどの面々です。彼等は高校の授業の合間に、

 『お前たちは、御維新後、都になった東京にやってきた東京白人よ。おれたちは原住民武蔵野インディアンよ

 と、多少学力が自分たちより高い久男を東京白人と呼び、自らを武蔵野ネイティブ、武蔵野インディアンとして位置づけます。武蔵野を語るのに、明治維新後の移住民と原住民の視点をステレオに持つべきことの示唆です。そしてさらに遡ります。

 『「昔はなあ、江戸なんてのもなかったのよ。中心は鎌倉で交通網は鎌倉街道よ。鎌倉からの道が、厚木や、武蔵の府中、八王子、秩父、足利なんかをつないでいたのさ。これが昔のシルク・ロード。だから明治になって、横浜とをつなぐルートは新シルク・ロードさ。みんな絹と関係のある町さ。

 今でもナイロンで女の靴下を作ってる町もあるけど、とにかく、道は山ぞいについてたのさ。江戸はなあ、新開地でね、それもよそ者の作った城下町よ。村野なんてのは、尾張のお鷹場の管理人というんで、捨扶持をもらってたもんで、徳川さまさまだけどさ」

 と榎本が侮蔑的に言うと、砂川市長の村野は具合悪そうに、頭をかいた。

 「うん、そういう所あるなあ。おれが歴史の教科書で、十五代将軍、徳川慶喜は、なんて読むと、『公』の字を補って読めと叱られたもんなあ」

 「だからな、明治の三多摩の自由民権なんてのは、つまりは名目でな、要するに東京ぎらいということでな、大体が、あの時、藩閥政府にたてついた自由党員というのは、新撰組の生き残りや、その息子だもん」

 と土方が言った。

 「そう言えば、新撰組に土方歳三という副隊長がいたな。あれは、お前の一族か」
 と久男がたずねると、

 「ああ、そうだよ。知らんかったか。村野の曾祖父だって新撰組よ。流山で負けてから、銚子に逃げてほとぼりをさまして、いつの間にか、舞い戻って、第一代の村長になったんだもの。ま、代々、名主だった家の長男が名主か村長になり、その曾孫が市長になる、というのは、言ってみれば、時代の変遷だなあ。おれの家も味噌や醤油つくるのをやめて、軍需工場に貸していた土地に家やアパート作って、不動産屋になったけど・・・」』

 まさに、原住民武蔵野インディアンは江戸以前に自らの原点を置き、意気軒昂です。

甲武鉄道、砂川闘争

 『「だから言ったろ、武蔵野インディアンだって。おれの祖父なんかだって、駅を通りぬけるのに切符を出せと言った国鉄の駅員をステッキでなぐりすえたもんな」
と村野がすっかり酒の廻った赤い顔で言う。土方は最初は一番おとなしかったのに、新撰組の子孫だと言いだしたころから、過激な言い方をするようになっていた。榎本が解説してくれる。

 「今の中央線は、昔、甲武鉄道といって、私鉄よ。明治二十二年かな、八王子と新宿間にできたんだ。土方とか村野の家なんかが金を出しあって作った。生糸と絹を東京に送り出すためさ。それを、日清戦争のためということで国鉄にとられたから、村野の祖父は怒ってな、甲武鉄道時代の駅の看板を外して、自分の家の倉にしまいこんだ。

 駅だって改札御免さ。北口から南口に行くのだって、遠廻りして踏切なんか使わずに、駅を突っきって歩いたものさ。昭和になって、そんなことを知らない若い駅員が、『じいさん、切符』とやったから、頭にきたんだな、村野のじいさん。やにわにステッキでなぐりかかった。当時、有名な話だよ」

 「有名かもしらんが、野蛮じゃないか。なぐられた駅員こそ、いい迷惑だ。単に職務を遂行しただけじゃないか」

 「そりゃ、お前、東京白人の言うことさ」
 榎本があっさり片付けた。

 とにかく、東京の政府は甲武鉄道をとりあげた。三多摩を神奈川県から東京府に移管した。すべて、住民の猛反対にもかかわらず、政府が決め、帝国議会が賛成した。

 「しかしなあ、地形的には自然だろう。今の都内だけの東京府なんて方がおかしいよ、真中に中央線も走っているんだし、その沿線が東京というのが自然だ」
 と久男が言ったが、土方は首を振った。

 「お前、東中野あたりから、立川まで、線路が真直ぐなのを知っているか。北海道あたりに、あれより、ちょっと長いか短いかという直線の鉄道があるそうだけど、どっちの場合も、土地が平らで人がいなかったから、線路がしけた。甲武鉄道の場合は、旧甲州街道ぞいに作るのが常識だろうが、いろいろ面倒な事情があって、いっそ、人のいない所を真直ぐ通そうということになった」

 「江戸時代に作られた玉川上水と同じよ」・・・・』

 久男の友人に神官の木下がいます。木下が久男に砂川闘争の支援を要請します。

 『砂川事件は立川の米軍の空軍基地の滑走路の延長のために、民有地を買収する必要が生じた際におこった反基地闘争で、朝鮮戦争も終りかけたことだし、米軍の兵力増強を阻止しようという含みも持った事件だった。滑走路の延長予定地が砂川なのである。この地区を含めた、今の立川市一帯を元禄時代に開拓した一族の本家の当主も、久男たちの中学の同期生で、彼も反対闘争に参加して、公務執行妨害か何かで留置場に入れられたはずだった。

 「あの戦いの輪を拡げる運動に、文壇の大家である先生に発起人になってもらおうと思ってね」
 「だって、あの先生はおよそ政治とは関係のない人だぜ。そりゃ教養はあるし、強い人だけど……。第一、話を聞くと君のとこの天満宮は砂川地区の天神様じゃないじゃないか」

 「うん、そこなんだよね。しかし今や従来、政治とは関係のない文化人として、国民の信望を集めてきた文壇の大家に、反対闘争の応援団長になってもらい、砂川の戦いを多摩全域にひろめる段階なんだ。立川、横田基地にいる米兵による風紀事件、交通事故、無銭飲食、婦女暴行。もう、これは植民地ですよ。こんなことが続くと、われわれの子弟は奴隷根性になる。女の子は早く大きくなって、米兵に可愛がられる娼婦になろうとする。男の子は米軍バーのバーテン、ポン引き、パンドマン。君、三多摩は我々の中学時代のような農村地帯ではない。東京都内に働きに出る堅実な市民の街ですよ……」

 木下の言うことは、それなりに筋が通っていたが、彼の考えや、参加している運動と神官という仕事がどう結びついているのかわからなかった。

 「今や、国家宗教としてではなく、一宗教法人として出発した神道は、氏子の中の宗教心、生活感情を汲みあげ、それを結集しなければならない。それでこそ産土(ウブスナ)の神なのだ。昔から人々は出陣をはじめ大きな杜会的行動や農民一撲に際して、鎮守の森に集った。わけても天満宮は菅原道真公を祭る。公は文化人であり、その教養故に体制の権威を超越し、体制から拒否された方だ……」

 そういう話を聞くと、杜会主義革命が成就しても、神杜は地区住民の集合場兼、革命精神をふるいおこす場所として存続できそうな気が久男にはしてくるのだった。・・・』

 何年か後の話に転じます。

 『・・・何年かして、ある朝、新聞を開いてみて、久男は驚いた。木下の顔写真と名前が出ていたのだ。彼は落選した保守系無所属の政治家の選挙事務長をしていて、違反容疑で逮捕されたのに、御本尊の侯補者の方で自分は違反には無関係だと公言している新聞記事を読んで怒りだし、積極的に候補者が中心になって行なった選挙違反の実態を自白したというのであった。

 木下が革新系の選挙運動に加わるというのならわかる気がするのだが、保守系というのが不可解だった。しかし久男は新聞記事を読んだ結果、一つの仮説を作った。その立候補者は自民党の公認をえられなかった。そこで保守系の堅い票を当てにできないと思って、木下のような、革新的ではあるが、はっきりした組織に属さない人間の人脈や、彼らの政治意識に訴えて選挙に勝とうとした。しかし、木下的な選挙民は数は多いが、そのほとんどは投票せず、候補者は惨敗した。

 彼は選挙事務長の木下に裏切られたと思い、選挙違反の容疑で捕えられた木下を見棄てるような言行をとった。そして裏切られたと怒るのは、今度は木下の番、ということのようであった。

 木下を選挙事務長に選んだ時、この候補者は、うまい人物を選んだ、と思ったに違いない。先祖代々の神官として、各地の神杜とその熱心な氏子という最も保守的な層――戦前からこの土地に住みついている階層をつかむことができるし、木下の進歩的な運動は、戦後この土地に移り住んできたサラリーマン層にもアピ―ルする、と考えたのだろう。

 しかし恐らく、木下は天満宮の神主ということで、新住民からは排他的な原住民の代表のように思われ、一方、古い住民からは、はねかえりの、新しがり屋の神主と思われて、そっぽを向かれたのだ。

 明治十八年ころに書かれた民間の、しかも進歩的な憲法草案を色川大吉教授が五日市で発見したことが新聞に大きく報道された。その時、多摩自由党研究会事務局長という肩書で、木下がコメントをよせているのを見て、選挙違反事件以来、何年かぶりで、久男は木下を思いだした。木下は三多摩の自由主義的、民主的伝統を語り、その輝かしい精華として、この憲法草案を評価し、発掘した色川教授の功績をたたえていた。・・・』

 これは「解剖」の中の話です。『この地区を含めた、今の立川市一帯を元禄時代に開拓した一族の本家の当主も、久男たちの中学の同期生で、彼も反対闘争に参加して、公務執行妨害か何かで留置場に入れられたはずだった。』の当主は村野こと砂川昌平氏で武蔵野インディアンの名付け親でした。

 また、その武蔵野インディアンの心のよりどころであった神社の神官の微妙な立場と行動が木下を通じて描かれます。『古い住民からは、はねかえりの、新しがり屋の神主と思われて』いた木下の五日市憲法の評価など、まさに五日市街道が多摩を結ぶ絆の表れでしょう。

武蔵野論

 「武蔵野インディアン」は、また、武蔵野論でもあります。そこで、武蔵野を題材にする作家から、沢山居られる中で、国木田独歩と大岡昇平の二人を選んで言い分を聞いてみたいと思います。

 国木田独歩は「武蔵野」を武蔵境での「信子」とのできごとから始めました。それは、「欺かざるの記」によれば、明治28年(1895)から31年(1898)の頃です。そこでは、

 『昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。

 林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴るはかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するその妙は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである。・・・

 林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視
(ていし)し、黙想す・・・。

 林に座っていて日の光の尤も美しさを感ずるのは、春の末より夏の初であるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。半ば黄ろく半ば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け、その美さ言いつくされず。

 日光とか碓氷とか、天下の名所はともかく、武蔵野の様な広い平原の林が隈(くま)なく染まって、日の西に傾くと共に一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。若し高きに登て一目にこの大観を占めることが出来るならこの上もないこと、よしそれが出来難いにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、殆(ほとん)ど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向て黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなに面白かろう。林が尽きると野に出る。・・・

 畑は重に高台にある、高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑の三方は林、という様な具合で、農家がその間に散在して更らにこれを分割している。

 即ち野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るという様な風である。それが又た実に武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道の様な自然そのままの大原野大森林とは異ていて、その趣も特異である。

 稲の熟する頃となると、谷々の水田が黄(きば)んで来る。稲が刈り取られて林の影が倒さに田面に映る頃ろとなると、大根畑の盛で、大根がそろそろ抜かれて、彼方此処の水溜又は小さな流のほとりで洗われる様になると、野は麦の新芽で青々となって来る。

 或は麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれている。萱原の一端が次第に高まって、そのはてが天際をかぎっていて、そこへ爪先あがりに登て見ると、林の絶え間を国境に連る秩父の諸嶺が黒く横わッていて、あたかも地平線上を走ては又た地平線下に没しているようにも見える。

 さてこれより又た畑の方へ下るべきか。或は畑の彼方の萱原に身を横え、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避けながら、南の空をめぐる日の微温き光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煙き輝くのを眺むべきか。

 或は又た直ちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分は斯くためらった事が屡々ある。自分は困ったか否、決して困らない。自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを撰で行っても自分を失望ささないことを久しく経験して知ているから。・・・』

 きりがないので、この辺で止めましょう。どこまで行っても林があり、原野があり、畑があり、ぽつぽつと農家が点在する、美であり、
四顧し、傾聴し、睇視(ていし)し、黙想する「武蔵野」です。

 大岡昇平の「武蔵野夫人」は、作中に「・・・さてこれが終戦三年目の六月、この物語が始まる時の・・・」ということわり書きがあることから、昭和23年(1948)の武蔵小金井のハケの家をもとにしての話でしょう。

 様々に解釈がありましょうが、勉が愛したハケの精の道子は、沼の恋ヶ窪でいたたまれなくなり、人造湖の村山貯水池で嵐にさいなまれ、ついに己に堪えられず死に直面します。そして、道子を失った勉は狭山丘陵から武蔵野を見ます。

 『・・・しかしその森と田圃はそれぞれ美しい秋の装いを凝らしていた。紅葉した落葉樹の間に梢の薄くなった樺が空を掃くように並び、一杯実の熟れた柿の木に黄立羽(きたては)が群がっていた。少し黄味を帯びてすんなり垂れた竹は、やさしく風に揺れていた。一帯の紅と黄の間に一段と黒ずんで見える茶の木の低い列のあわいに、陸稲の稲架がそこここにおき忘られたように立っていた。

 碧の濃い秋空にはどこを飛ぶのか飛行機の爆音に充ち、航空戦の演習の飛跡を残して、高く飛行雲が白い巨大な円を描いていた。そして高いところを吹く北風にあおられて、次第に南の方へ動いて行った。

 勉は歩き出した。「将軍塚」から村山貯水池へ連なる丘の稜線を伝う小径には樹は少なく、低い叢
(くさむら)が両側を麓まで覆っていた。ヌルデ、漆が際立って紅葉した間に、時々思いがけなく山茶花(さざんか)の固い花が隠れていた。・・・

 俺が幾度も狭山に登って眺められなかった広い武蔵野台地なんてものも幻想にすぎないじゃないか。俺の生れるどれだけ前にできたかわからない、古代多摩川の三角洲が俺に何の関係がある。あれほど人がいう武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植えたものじやないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。

 自分の地理学的迷妄を打ち殿しながら、勉はいつか死の幻想からも逃れて行った。俺のような者でも、どうしても生きて行きたいとすれば、すべてそういう新しい基礎から出直さねばならぬ。・・・』

 として、『あれほど人がいう武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植えたものじやないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。』
と喝破して、新しい基礎から出直さねばならぬ決心をします。その方向は寒々しいものかも知れません。

 明治から昭和(戦後)にかけての武蔵野はこのようにとらえられてきたように私には思えます。そして、この国木田独歩も大岡昇平も、武蔵野インディアンの立場からは、東京白人で、その武蔵野は東京白人の見方、とらえ方に過ぎません。市長や国会議員や諸々の世界で活躍する武蔵野インディアンの末裔には、もっと土着の違った武蔵野がいきずいているはずです。それを是非とも知りたいものです。

 引用は新潮文庫「武蔵野」「武蔵野夫人」からしました。

 これからの武蔵野インディアンの方向は?  

 武蔵野インディアンの元祖は、古代東山道武蔵路で古代国家と交流して武蔵国を造り、中世には、鎌倉街道で本拠鎌倉と直結して、武蔵武士の本領を発揮しました。大石氏、後北条氏の時代には、早くも、村々の原型をつくり、家康の江戸入府後は、一気に青梅街道をつくり、玉川上水を掘り、新田開発を進めて近世の村の基礎をつくりました。

 幕末には新撰組の指導者が生まれ、明治には、甲武鉄道を敷き、それを取り上げられた元祖は明治の新政府に反抗し、国会開設、憲法制定を求めて自由民権運動を高揚させました。

 その末裔には、こんなにゆがんでしまった東京の郊外について、土着民としての抱負を語り、新しい方向を示して行動を起こす覚悟があってしかるべきでしょう。それはどのようなものか? 是非とも知りたいものです。作品「武蔵野インディアン」は淡々と次のように結びます。 

 『・・・村野がインディアンという表現をしたのは、土地に根を生やした者、というのではなく、現実に立脚して生きている者ということかもしれなかった。そうすれば、・・・先祖がどの土地の出身であろうともインディアンだし、暴力的な・・・ヤミ屋から、堅実な商人になった・・・だってインディアンだろう。

 理想郷を求めて放浪している白人とは、・・・や久男たち、紙とインクの世界しか知らない者のことなのだ。当人たちは悲愴感にあふれて旅を続けていても、彼らが通過する土地の自然に適応して生きているインディアンからすれば、愚かしく、滑稽な存在なのかもしれない。・・・』

▽▽▽

 作者である主人公久男は東京白人でした。東京白人の自問自答としては「愚かしく、滑稽な存在」であることも仕方ないでしょう。むしろ、これからの方向を示すのは、武蔵野インディアンの末裔そのものだと言っているに違いありません。

 とすれば、あれほど覇気があった中世からの武蔵野インディアンの元祖は大忙しで何かのサインを出して、末裔に今後のことの督促をすべきでありましょう。待ち遠しい限りです。今回はあえて画像を入れませんでした。『』内は引用、・・・は一部省略を意味します。インディアンやアパッチは差別用語との話も聞きましたが、ここでは作品に沿って使っています。

 同じ作家の「武蔵野ものがたり」(集英社新書 2000年5月)があって、歴史や作中にでる人達の現在の動きがよくわかります。                      

                      (2001.9.10.記 60年間東京白人の夢)

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