たまらん坂(3) 「たまらん坂」「堪らん坂」「多摩蘭坂」 JR国分寺駅と国立駅の中間にある「坂」は 亭主の浮気に抗議して、妻が駈け降りる坂 その坂の名をめぐる話には、意外な展開がありました。 黒井千次氏の「たまらん坂」は、人生の坂の登りと下りの奥深いものを、澄んだ文章で、時には、H気味に、時として、自嘲気味に描くものでありましょう。また、武蔵野の底に秘められた幻想を浮かび上がらせながら、現代人の渇いた生活に目を向けさせるものでありましょう。 ところが、作者の魔力で、私などは、巧みに地名考に誘われたうえに、いつの間にか伝説が成立する道順を説かれるかのように、作者の手の内に引きずり込まれていて、苦笑が絶えません。 そして、さらに、歴史家の小野一之(府中市学芸員)氏に、ガツンとやられて真っ青になるのです。その顛末を記して、ともかく、たまらんことにならないように、ほぞを固めるところです。 この坂の周辺を旧鎌倉街道が通っています。沿線には、新田義貞や太平記の主人公たちの伝承や話題がいくつもあって、それぞれに由緒と自己主張を強めます。例えば、私の住んでいる付近だけでも ・武蔵国分寺は新田義貞の鎌倉攻めの際焼失して、後に、金堂を義貞の寄進により再建した。
分倍河原古戦場 小手指原古戦場
山口観音 新田義貞誓いの桜(所沢市) 八幡神社 新田義貞駒繋の松(狭山市) 長い間の歴史の中で、当初とは違った増幅作用が行われ、その積み重ねが何らかの結果を形成して、現在に伝えられてはいないでしょうか? 小野一之氏は鎌倉街道沿いのこれらの伝承を調べて、「新田義貞伝説雑感」(府中郷土の森紀要 第7号 1994.3)で次のように云います。 『これらは歴史的事実を述べたものである可能性もあり、一概に伝説として片付けられない面もあろう。・・・問題なのは、真偽の二者択一ではなく、伝説発生へのプロセスではないかと思うからである。 伝説の内容が歴史的事実である可能性は残る。そうではあるけれど、真実か否かとは無関係に伝説は二次的、歴史的に形成されていくものだとすれば、伝説が真実であったとしてもそれは結果的にそうであったに過ぎないのではないだろうか。』 として、これまでに紹介した、黒井千次氏の「たまらん坂」の一連の流れをあげます。ただし、坂の名前のルーツではなくて、主人公飯沼要助の認識の変化です。これまでの記述と重複するところもありますが、肝心の所なので全文を引用して紹介します。(前掲 p46−47) 『たまらん坂』 ――むすびにかえて―― 『太平記』の義貞伝説の普及、共有化された『太平記』の知識を前提とした伝説地の成立と波及、伝説の信愚性の問題などについて前稿に引き続き若干述べてみた。最後に、黒井千次の短篇小説『たまらん坂』((一九八二年初出)をとりあげて、このとりとめのない小稿を終わりにしたい。義貞伝説はこのように発生したのではなかろうか。これからもこのように展開していくのではなかろうか。そんな伝説成立のプロセスを思い起させる内容だからである。 ――落武者は叢林の小道を下って逃げたのではなく、腰を折り、地面に向けた顔を小枝に突かれながら残る力を振り絞って喘ぎ喘ぎここを登って行ったのだ。そう考えていると、いつか自分の姿が遠い昔の戦に敗れた武者の影に似て来るように思われた。 と考えるようになり、さらに 「多摩蘭坂」の近くには「白明坂」(しらみ)という坂(府中市北山町・武蔵台)があり、「新田勢が、此所に到着した頃は、東天が白んだ故、かく名つけた」と伝えられていることを付け加えておきたい。』 と結ばれます。これは身にしみることで、観光バスガイドさんの一見本当のようで、どこか脚色された説明をほとんどの客が信じ、うなずいている風景を見るたびに、また、歴史散歩の解説に、伝承とも歴史的事実とも曖昧なままに、大方が了解されている姿に接する度に、これでいいのかな、大丈夫なのかなと思います。 少なくとも自分は、伝承、伝説のねじ曲げた再生産は絶対にすまいと、黒井氏と小野氏に脱帽です。 「白明坂」(しらみざか)
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