たまらん坂(3)
(伝承の成立過程)

「たまらん坂」「堪らん坂」「多摩蘭坂」
合戦に敗れた落ち武者のつぶやきか、多摩特有の蘭の密生地か
それとも・・・・?

JR国分寺駅と国立駅の中間にある「坂」は
忌野清志郎のリズムに乗って
フアンの足が向かう坂

亭主の浮気に抗議して、妻が駈け降りる坂
勤め帰りに喘ぐ坂

その坂の名をめぐる話には、意外な展開がありました。
そして、歴史の落とし穴を突きつけます。


 黒井千次氏の「たまらん坂」は、人生の坂の登りと下りの奥深いものを、澄んだ文章で、時には、H気味に、時として、自嘲気味に描くものでありましょう。また、武蔵野の底に秘められた幻想を浮かび上がらせながら、現代人の渇いた生活に目を向けさせるものでありましょう。

 ところが、作者の魔力で、私などは、巧みに地名考に誘われたうえに、いつの間にか伝説が成立する道順を説かれるかのように、作者の手の内に引きずり込まれていて、苦笑が絶えません。

 そして、さらに、歴史家の小野一之(府中市学芸員)氏に、ガツンとやられて真っ青になるのです。その顛末を記して、ともかく、たまらんことにならないように、ほぞを固めるところです。

 この坂の周辺を旧鎌倉街道が通っています。沿線には、新田義貞や太平記の主人公たちの伝承や話題がいくつもあって、それぞれに由緒と自己主張を強めます。例えば、私の住んでいる付近だけでも

・武蔵国分寺は新田義貞の鎌倉攻めの際焼失して、後に、金堂を義貞の寄進により再建した。
・府中市にある三千人塚は、この時の戦死者を葬った塚である。
・小平市と東村山市の境にある「九道の辻」には、義貞が目印に植えた桜の木があった。
・狭山丘陵の将軍塚は義貞の陣所であった。
・○○神社、○○寺は義貞が戦勝祈願をしたところだ。兜を掛けた松がある。お手植えの桜がある。
・○○塚は・・・
・・・

            分倍河原古戦場                    小手指原古戦場

 などなど、群馬県までずっと続きます。地元では、これらを半ば歴史的事実とし、そう信ずる方も多いです。そして、お国自慢や判官贔屓(はんがんびいき)も重なって、さらに様々な事象が加わって話題が広がります。もし、最初は不確かで、半信半疑であったものが、聞き手が記録にしたり、他の人に話すうちに、時が経って、一定の姿が生み出され、創り出され、それが固まりになったとき、どうなるでしょう。

          山口観音 新田義貞誓いの桜(所沢市)  八幡神社 新田義貞駒繋の松(狭山市)

 いつも、誰かが、この小説の主人公・飯沼要助のような行為をしていれば、その検証も可能でしょう。また、学術的に調査の結果が出るものであれば、その事実が確認されます。ところが、すでに話題は一人歩きして、半ば固定化され、その修正が及ばないことも考えられます。

 長い間の歴史の中で、当初とは違った増幅作用が行われ、その積み重ねが何らかの結果を形成して、現在に伝えられてはいないでしょうか? 小野一之氏は鎌倉街道沿いのこれらの伝承を調べて、「新田義貞伝説雑感」(府中郷土の森紀要 第7号 1994.3)で次のように云います。

 『これらは歴史的事実を述べたものである可能性もあり、一概に伝説として片付けられない面もあろう。・・・問題なのは、真偽の二者択一ではなく、伝説発生へのプロセスではないかと思うからである。

 伝説の内容が歴史的事実である可能性は残る。そうではあるけれど、真実か否かとは無関係に伝説は二次的、歴史的に形成されていくものだとすれば、伝説が真実であったとしてもそれは結果的にそうであったに過ぎないのではないだろうか。』

 として、これまでに紹介した、黒井千次氏の「たまらん坂」の一連の流れをあげます。ただし、坂の名前のルーツではなくて、主人公飯沼要助の認識の変化です。これまでの記述と重複するところもありますが、肝心の所なので全文を引用して紹介します。(前掲 p46−47)


 『たまらん坂』 ――むすびにかえて――

 『太平記』の義貞伝説の普及、共有化された『太平記』の知識を前提とした伝説地の成立と波及、伝説の信愚性の問題などについて前稿に引き続き若干述べてみた。最後に、黒井千次の短篇小説『たまらん坂』((一九八二年初出)をとりあげて、このとりとめのない小稿を終わりにしたい。義貞伝説はこのように発生したのではなかろうか。これからもこのように展開していくのではなかろうか。そんな伝説成立のプロセスを思い起させる内容だからである。

 主人公飯沼要助は、東京の中央線国立駅との間の「多摩蘭坂」という坂道を朝晩歩いて登り降りする中年サラリーマンである。ある日、坂の中途にある「たまらん坂」の看板を見て「堪らん・坂」と連想する。そんな折、『多摩蘭坂』というロックを聴く息子から、

――「昔どこかこの近くで戦があってえ、一人の落武者がここの坂を登って逃げながら、たまらん、たまらん、て言ったのでそういう名前がついたとか、そう言う話じゃなかったかな。」

 と言われたのを契機に、街の図書館に通い地名由来の調査が始まる。昭和になってから土地会社の手で造られた坂とする地名辞典の説明に一度は失望しながらも、要助は落武者の面影をぬぐい切れないでいる。

――落武者は叢林の小道を下って逃げたのではなく、腰を折り、地面に向けた顔を小枝に突かれながら残る力を振り絞って喘ぎ喘ぎここを登って行ったのだ。そう考えていると、いつか自分の姿が遠い昔の戦に敗れた武者の影に似て来るように思われた。

 と考えるようになり、さらに

――落武者を捜そうとする要助の眼は、まず合戦録の類を求めた。武蔵野に限られた都合の良い戦史が見あたらぬまま、彼は関八州の古戦録を手に取ってみた。

――それでも、類似の書物を二冊、三冊と手にするにつれて、要助にも朧げに覚えのある合戦場が浮かび上って来た。

―― 一つは国立の東南方に当る多摩川のほとりで展開された分倍河原の戦いである。その地名は京王線の駅の名前になっているので要助にも覚えがあった。

――中でも名高いのは、元弘三年(一三三三年)、新田義貞が上野国から武蔵国へ兵を進め、鎌倉の北條勢と交えた一戦のようだった。戦いは数日に及んだ模様であり、押したり引いたりの挙句、結局は新田勢の勝利に終っている。

 と知識を得ていく主人公の意識のなかで、「たまらん坂」はほとんど元弘三年の義貞の合戦と結びつこうとしているではないか。

 結局、小説中の主人公による地名由来の探索は意外な結末に終り、「落武者捜しがとんだところに行きついたもんだ。」と要助とその友人に述懐させることになる。

――「そうともいえないよ。また百年か二百年経ったらさ、中年を過ぎかけた物好きな勤め人がふと坂の名を気にしはじめて、いろいろ調べてみるかもしれないぜ。その結果、この坂は昔、一人の疲れた勤め人が『たまらん、たまらん』と眩きながら毎晩登ったためにこんな名がつきました、という説がつけ加わることだってないとは言えない。」

 「二百年先にも勤め人はいるだろうかね。」

 「多摩蘭坂」の近くには「白明坂」(しらみ)という坂(府中市北山町・武蔵台)があり、「新田勢が、此所に到着した頃は、東天が白んだ故、かく名つけた」と伝えられていることを付け加えておきたい。』


 と結ばれます。これは身にしみることで、観光バスガイドさんの一見本当のようで、どこか脚色された説明をほとんどの客が信じ、うなずいている風景を見るたびに、また、歴史散歩の解説に、伝承とも歴史的事実とも曖昧なままに、大方が了解されている姿に接する度に、これでいいのかな、大丈夫なのかなと思います。

 少なくとも自分は、伝承、伝説のねじ曲げた再生産は絶対にすまいと、黒井氏と小野氏に脱帽です。

「白明坂」(しらみざか)
この坂は、勾配、曲線ともに、まさに伝承に相応しい景観が残ります。
この坂を登ると「たまらん坂」の登り切ったところと交差します。

さらに西によることも想定されているようですが、鎌倉街道の枝道の一つであったことが考えられます。
府中市域に属し、根岸病院〜東京都立療育センターの間に位置します。

JR中央線、西国分寺駅からが一番近そうです。ただし、下りになり、歩いての雰囲気を味わうならば
JR武蔵野線、北府中駅から東京都立療育センターを経て登ると抜群です。
坂の途中(画像右最初の電柱の手前)に、府中市が設置した「白明坂」の案内標識があります。


(2001.8.17.記)

たまらん坂1
たまらん坂2

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