独歩の碑

 桜橋から上流もいいのですが、逆に、三鷹駅に向かっても、静かな遊歩道が続きます。今回は「国木田独歩詩碑」をご紹介するため、三鷹に向かいます。時折「鳩」が出迎えてくれるような上水が続きます。

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 玉川上水は三鷹駅で一旦地下に潜ります。写真、右上のように、
処理の仕方が現代的で、遊水公園化されています。
これをつめて、三鷹駅北口に立つと、左奥に
「国木田独歩詩碑」があります。

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山林に自由存す

 
地価の最も高い駅前広場に雑木林を設けて、そこに独歩の詩碑がある。立川の駅前にある牧水の歌碑とともに、武蔵野の全ての人の誇りでしょう。
 碑面には「山林に自由存す」と彫られています。武者小路実篤の筆によるものです。独歩を象徴する詩といわれるだけに、今の若者には時代がかって、「チョット」ということになりそうです。しかしそれが、明治、大正、昭和の若者の心をとらえ続けて来たのでしょう。

 山林に自由存す 
 われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
 嗚呼山林に自由存す
 いかなればわれ山林をみすてし
 
 あくがれて虚栄の途にのぼりしより
 十年の月日塵のうちに過ぎぬ
 ふりさけ見れば自由の里は
 すでに雲山千里の外にある心地す

 眦(まなじり)を決して天外を望めば
 をちかたの高峰の朝日影
 嗚呼山林に自由存す
 われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

 なつかしきわが故郷は何処ぞや
 彼処にわれは山林の児なりき
 顧みれば千里江山
 自由の郷は雲底に没せんとす

 碑文に次いで、「叙情詩」はこのように続きます。明治の詩人・独歩のあこがれと挫折がそのまま出ているようです。 また、「十年の月日塵のうちに過ぎぬ」「自由の郷は雲底に没せんとす」とうたっているように、実際には、自然の児とはなりえなかった独歩の呻きをそのまま露わにするかのようです。

 恋に破れ、信子と離別し、武蔵野の野趣に囲まれた渋谷での生活の中で、自然の本質にふれた独歩の、心からのつぶやきなのでしょう。独歩の日記「欺かざるの記」明治30年1月22日の条に、この背景が書き込まれています。

『北海道の山林に自由を求めたる此の吾、今如何。ひたすら自然の懐に焦れたる此の吾、今如何。恋愛の中に自由を願ひし此の吾、今如何。鳴呼、自由と恋愛はわが熱情なりき。今は如何。今は如何。
 恋は果敢なき夢と消え去り、而かも此の身何時しか浮世の波に漂はされつつあり。
 ・・・何故にわが自身から此の都会虚栄の中心に繋がれて満足し居るかを知らざる也。ああ山林自由の生活、高き感情、質素の生活、自由の家。ああこれ実にわが夢想なりしものを。
 われ自由をすてて恋愛を取りしものを、恋愛更に此の身を捨てたり。
 ・・・鳴呼、元越山よ、阿蘇の峰よ。蕃匠(ばんしょう)の流よ。高叫山よ、周防洋よ。空知太(そらちぶと)の森林よ。那須の原よ。千房の峰よ。岩城山よ。箕山よ。琴石山よ。凡ての是等のなつかしき自然よ。
 願くは吾を今一度、自由の児、自然の児とならしめよ。』

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渋谷の丘の上の家

 独歩が住んだ渋谷の家とは、どんな家だったのでしょう。もう復元する手だてはないでしょうが、幸いにも、田山花袋の一行が訪ねて、独歩と過ごしたことを書いた作品があります。それによると

 『澁谷の通りを野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、向こうに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍らの土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。・・・ふと、丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がじっと此方を見て立っているのを私達は認めた。』                       
 
 『・・・縁側の前には、葡萄棚があって、斜阪の紅葉や穉樹を透かして、澁谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。
 その家は六畳一間、その次が二畳、その向こうが勝手になっていて、何でも東京の商人が隠居所か何かに建てたものであるということであった。
 ・・・このさびしい丘の上の家に、かれは、お信さんにわかれた後の恋いの傷疾を医していたのであった。
 ・・・「今、ライスカレーをつくるから、一所に食って行き給え」こう言って、国木田君は勝手の方に立って行った。
 ・・・大きな皿に炊いた飯を明けて、その中に無造作にカレー粉を混ぜた奴を、匙で皆なして片端からすくって食ったさまは、今でも私は忘るることが出来ない。
 「旨いな、実際旨い。」こう言って私達も食った。 』
 (田山花袋 東京の三十年 丘の上の家 一部当用漢字 明治大正文学回想集成2 日本図書センター)

 今では、信じられない渋谷やカレーの様子ですが、「山林に自由存す」はこの中で生まれたようです。
  ポックリのような靴に、下着かと見間違う衣装で闊歩して、政治的には無党派といわれながら、いざという時、見違えるようなエネルギーを発揮する現代の若者たち。
 そう年齢の変わらない独歩、明治20年代初めの頃の自由民権運動や国会開設に、どのように関わっていたのでしょう。


独歩のレリーフ

 三鷹駅前の詩碑には、独歩のレリーフがつけられています。 写真で見る優形の美青年もいいですが、このレリーフには、ごつごつしたところがあって、いかにも武蔵野に相応しく思えます。

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 碑のある小さな自然空間は、日影を利用して、弁当を食べる人、寝ころぶ人、さまざまです。人通りの途絶えるのを待って、写真を撮っていると、若者たちが何してるんだと言わんばかりに近寄ってきます。すでに遠くなった明治の「昔話」がひとしきり咲いた後

 「俺たちも、このくらいゴチッタ方がイイナ・・・」 と、訳の分からない言葉でうなずきあって
 「オジサン アリガトネ ドッポってとぼけてんじゃねーえんだ・・・」

と言いながら、リュックの中から凍ったドリンクを取り出して、器用な手つきで渡してくれました。

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