大橋図書館

新詩社創設・明星創刊の地に隣接して「大橋図書館」がありました。
日本の図書館、ひいては社会教育の先駆けを果たしたのがこの図書館でしょう。

石川啄木や菊池寛が利用し、多くの文学者が育って行きました。
その意義や歴史的価値を考えていると、この前を去りたくなくなります。

明治35年(1902)6月15日開館
大正12年(1923)9月1日、関東大震災により焼失
大正15年(1926)6月、復興開館
昭和28年(1953)2月29日、閉館、蔵書は三康図書館に引き継がれる。

 出版社「博文館」の館主・大橋左平によって博文館創業15周年事業として建設されました。大橋左平は明治26年(1893)、出版事業の視察にヨーロッパ、アメリカに出かけます。その旅行中に目にしたのが、各都市に備えられて、多くの人々に利用されている図書館でした。帰国後、上野図書館の館長・田中稲城などに相談して、自らの手による図書館建設に着手したとされます。

 その経過は、HP「三康図書館」「大橋図書館のこと」に建設の趣旨とともに記され、同「大橋図書館写真集」には、創立当時、関東大震災後の建物、内部が紹介されています。 また、千代田区立四番町歴史民俗資料館では図書館のデザインや部屋の様子を展示しています。 (平成16年度企画展「番町界隈のにぎわい」のパンフレットの引用をしましたが不適当な引用であったため、2005年2月7日削除しました。千代田区立四番町歴史民俗資料館には心からお詫び申し上げます。)

まだ市電が通っていなかった、利用者は?

 当時の交通状況と全く違うため、利用者はどのようにしてこの地へ来たのか不明ですが、幸い主な道路は現在も路型がそのまま使われていますので、ここでは、市ヶ谷停車場からのルートをたどってみます。なお、現・家政学院前交差点に達する外濠から新見附を通る道路は当時とほとんど変わっていないようです。神楽坂方面からの利用者はこのルートを通ったことが考えられます。

 市ヶ谷停車場は現在、JR市ヶ谷駅になっています。見附と直通であった帯坂は現在では次のように変わっています。

 「市ヶ谷駅」 A1口に出て、一度、靖国通りを渡り、山脇美術学院・日大の方向に出て、図のように最初の細い路を右折します。あとは将棋会館を右手に見て水道会館の角を左に曲がれば、二七不動尊を通り、家政学院前の交差点に出ます。

 最初の画像は家政学院前交差点の信号機を入れて、かっての大橋図書館があった位置を撮影したものです。手前は現・麹町社会保険事務所で、奥が東京家政学院中学校・高等学校です。上の図に置き直せば麹町社会保険事務所が43番地で、大橋左平宅にあたります。東京家政学院は、44番地と45番地で、大橋図書館が44番地になります。

 開館当時の大橋図書館の写真では、手前に瓦屋根の大橋邸があり、大きな松の木が境にあって、その向こうに瀟洒な木造モルタル2階建の本館が見えます。明治30年代の麹町のたたずまいを象徴するようで見とれます。

番町皿屋敷の跡?

 面白いのは、この用地の取得過程がいかにも麹町的で、伊藤整(日本文壇史 6 明治思潮の転換期 講談社)が次のように書いています。

 『彼(創設者博文館主・大橋左平=安島注)はその前年まで小石川戸崎町に住んでゐたが、そこが手挾になつたの で、引つ越すことにした。その頃、麹町区上六番町四十三番地にあつた川上操六の邸宅が売りに出 てゐた。陸軍大将川上操六は、その二年前の明治三十二年に死んだ。

 死んだ川上操六の邸宅は、番町皿屋敷のあとと言はれ、幽霊屋敷の噂があつたので、売りに出た 値段が安かつた。大橋佐平はその噂を笑つて、川上の旧邸を買ひ受け、明治三十三年十二月に移転 した。この屋敷は道路に面して旧式な長屋塀がついてゐたが、門構へは洋風で、門内には美しい松 が植わつてゐた。日本風の建坪二百坪の邸宅で、敷地は千坪以上あつた。大橋佐平はその五六年前 から、生涯の事業として大きな圖書館を建てたいと望んでゐた。明治三十五年は博文館の創立十五 周年になるので、その記念日にこの計画を発表するつもりで、彼は書物を集めてゐた。集められた 書物はこの時までに三萬冊余に達してゐた。』(p61〜62)

 とあります。番町皿屋敷は麹町に住んだ岡本綺堂の当たり作ですが、近くの帯坂にもその伝承が残り、当時の麹町の人々には身近な話題だったようです。社会教育との関わりについては、斑目文雄「江戸東京街の履歴書 番町・九段・麹町あたり」に詳しいので引用します。

 『大橋図書館は大橋佐平の屋敷であった上六番町四四番地、いまの東京家政学院のあるところに建てられた。木造二階建て、書庫はれんが造り三階建てで、閲覧室は一階と二階にあり、二階には小さな婦人室があった。

 明治三六年(一九〇三年)には夜間開館もし、また館外帯出もできるようにした。大橋図書館ができた当時は、まだ図書館という名称は耳新しいもので、明治三五年には全国に五〇ぐらいしかなかった。しかもその大部分は大学か官庁付属のもので、一般に公開していたものは東京府書籍館ぐらいしかなかった時代である。近くにあった塙敬次郎の書籍館や山本胖の書籍館が個人の蔵書を便宜的に他人に見せたのに対し、大橋図書館は本格的に図書を収集し、分類目録や力ードを作り、司書をおいた、西欧的ライブラリーの第一号であった。

 大橋図書館の出現は、民衆にとって大きな光がともされた感じであった。おくればせながら、学校教育偏重で出発した日本にも社会教育の世界が開けてきた感じである。大橋図書館の開館がひとつの引き金になって、東京市でも公共図書館を作る動きが促進された。・・・』(p93〜95)

公共図書館建設の火付け役

 大橋図書館の理事に坪谷善四郎がいました。 博文館の執筆者、編集者として活躍し、明治32年(1899)、東京市牛込区議会議員、明治34年(1901)〜大正11年(1922)まで東京市会議員をつとめました。この在任中、市(現・都)立図書館の建設を発議し、東京市議会は明治37年(1904)通俗図書館の設置を決議しました。

 明治39年(1906)11月、東京市立日比谷図書館が設立され、続いて明治42年、深川図書館が2番目の東京市立図書館として誕生しました。 明治43年(1910年)には、京橋、浅草、小石川など各地域の図書館建設が進み、大正4年(1915)、日比谷図書館を中心とする19館の東京市立図書館体制が成立しました。いわば、今日の図書館整備の火付け役をしたのが大橋 図書館だと云えます。 

石川啄木の利用

 上京後間もない石川啄木が、明治35年11月1 0日、渋谷の新詩社・与謝野鉄幹宅を訪ねて「・・活動のちから胸にみちたる心地せり。」と東京での今後の生活を夢見て、翌々13日、初めて大橋図書館に来ます。

 『午前英語。午時より 番町なる大橋図書館に行き 宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み  連用求覧券求めて  四時かへる。』

と日記に書き、3日後の11月16日には『大橋図書館に一日を消す』とあるように、もっぱらこの図書館に備えられた外国文学書を読み耽ったようで、その後も通い続けます。 当時の啄木の下宿は小日向台丁三ノ九三の大館方 (現在・文京区音羽町1−6−1)で外堀を新見付橋を渡って通ったものと思われます。

 また、樋口一葉が生きていれば、上野の図書館ばかりでなく、三宅花圃の家への道すがら、ここにも通って、 話も弾んだろうに、時には、石川啄木と鉄幹や晶子の批評をし合ったかも知れないと、とても残念です。 菊池寛、尾崎一雄など多くの文学者が利用しています。全容は「復刻版 大橋図書館四十年史」に期待できそうです。網野菊は近くに住んでいたことから

 『うちから仕立屋への道の途中の二七通りの東端近くに大橋図書館があつた。出版業の博文館主の大橋新太郎邸の門の向つて右手に其の図書館はあつた。大きい建物ではなかつたが、文学書が沢山あるのと、婦人室が特に設けられて居るので、私には気やすかつた。』と、大正5年頃の様子を書いています。(網野菊「仮入学生」)

 不動尊の縁日で、お参の人々がごった返した 二七通りは、今ではビルに囲まれていますが、一番東側から永井荷風、大塚楠緒子、和学講談所(塙保己一)、平塚らいてふ、与謝野鉄幹、大橋図書館、東郷邸、寺田寅彦、中江兆民と訪ねるところが満ちています。 (2004.11.23.記 11.28.追記)

ホームページへ