石川啄木
(東京の軌跡 1 明治35年 憧れと失意2)

明治35年11月11日

 新詩社の集まりに参加し、憧れの与謝野夫妻とも会うことができ、啄木は有頂天ですが、そろそろ、滞在費が底を突いたのか送金の話題が出てきます。

 『朝、故家より手紙来り 北海道なる山本氏よりの送金切手送り来る。野村兄訪ね来た〔ま〕ひぬ。雑談に時を移し午後一時かへらる。それより外出して日本力行会に金子兄を訪ひ、為替受取て裏神保丁に古本屋尋ねまはり・・・(ラムやバイロン、テニスンなどの英書を買って)・・・』

裏神保丁(現在の三省堂の辺り)

 北海道からの送金は、姉の嫁ぎ先の山本千三郎からのものでした。身内のお祝いなのでしょうか借金の申し込みによるものなのでしょうか?お金が入ると、神田の古本街をさまよって英書を買い

 『道を転じて野村兄の自炊を訪ひ夕飯を認め 小山芳太郎君に逢ひ 夜に入りて清明の月に促されて 野村兄と共に散歩にとて出づ。

 池の端に至りて漂渺たる夜色に沈々する対岸の燈火 まづ吾心をうばひ 月色限りもなく愁ひて 胸中讃嗟の声低し。ビーヤホールに入りて 美しき油絵の下に盃を傾け 陶然たる微酔を秋池の清風に弄せられて、上野の山内に入る、・・・』

 夜には、野村長一と池之端から上野公園を歩くさまが描かれます。上野駅寄りの池之端は、現在もそうであるように飲食店が軒を連ねていたようですし(画像左)、畔を歩いて森鴎外の住んだ池の北側(画像右・鴎外荘)には、また違った大人の雰囲気がありました。

 ビヤホールに入って「陶然たる微酔を秋池の清風に弄せられて、上野の山内に入る」と云っているところを見ると、両方を歩いたようです。森鴎外が最初の奥さんと離婚してこの家を出て千駄木に移ったのは明治23年です。一高の野村長一と早熟の啄木がどんな話題でここを通ったのか知りたいものです。

 それにしても、この話は、ビヤホールが日本に入って1年たつかたたないかの頃ですから、いわば流行の最先端を実行しています。啄木には、恋も、ビヤホールも、油絵展覧会で下谷署が裸婦画を撤去させたことを日本の「滑稽」と断じるような時代の先読みも、皆、一緒に、「ませ」の中に同居しているようです。

大橋図書館

11月13日

 『午前英語。
 午時より 番町なる大橋図書館に行き 宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み  連用求覧券求めて  四時かへる。』

 この日から大橋図書館」通いが始まります。当時の麹町区六番町44番地にあり、博文館主大橋佐平氏がつくった日本最初の民間図書館です。明治35年6月開館ですので、啄木は真新しい図書館を利用したことになります。

 大正14年部分修正図によって位置を復元すると、町割りは現在もそのまま残されています。啄木の住んだ下宿からは若干距離はありますが、結構便利で、ほぼ直進の道があり、当時の払方町、砂土原町、田町を通って来て、外濠を「新見附橋」で渡ると間もなく着きます。

 左、現、麹町社会保険事務所、右、東京家政学院、この両者は隣接していて、その一部に大橋図書館があったものと思われます。ここで、時の内外の文学書を手当たり次第読んだようです。恐らく、時流の行く先も、無意識であったかも知れませんが、シコタマ詰め込んだものと思われます。

11月14日

 節子に手紙を書き、野村長一と結婚観について話します。

 『午前。
 杜陵なる美しの人のもとへながき文認む。

 暮頃 夏村さま董舟様きたる。夏村さまは七時ごろかへらせ玉ひたり。董舟兄夜丑三つの頃まで物語らせ玉ひたり。世の中の愛とは何ぞ、はた結婚とは如何、女と云ふ者は如何なる者ぞ、など

11月15日

細越白螽兄へ久し振りにて手紙認め 阿兄への葉書と共に投函し来る。中西屋より美しき絵葉書求めきたる。かへれぱ机上にのこしたる菫舟兄、岩動孝久兄の文あり、余が留守中に来られたる由なれど、まこと残り惜しき事したりと思ひ居る折柄、童舟兄来りて細越夏村兄の許にゆかずやと云ふ、直ちに訪ひしに露子兄も座にありたり。』

 として、宗教や哲学の話に燃えます。この一両日、野村長一や岩動孝久が訪ねて来たり、そろって夏村のところへ行ったりで、この頃の友好の様子がよくわかります。

 『八時ごろ 露子兄の青山にかへるを送りて  夏村兄と共に牛門のほとりまで散歩す、十六夜の月初めは鮮かなりしも 漸く雲を含み来れり。帰路また夏村兄の室に入りて 焼芋に腸ふくらす。・・・』

  恐らく、神楽坂を経てここまで来たのでしょう。JR飯田橋駅を牛込橋方面に降りると、現在も当時の牛込見附跡が保存されています。気楽に午後8時頃から小日向台からここまで出かけて来るのには驚きです。

11月16日

 『大橋図書館に一日を消す・・・。』

 

 大橋図書館へ行く道すがらの「新見附橋」の下を、中央線の列車が走っています。大きな期待を背負って来た故郷への距離と、まだ何も手に付いていない落差に悩まさせるような場所です。

 また、左彼方には理科大が見えて(当時もありました)、その隣の城北倶楽部で行われた新詩社の集まりがどっと思い起こされたのではないでしょうか。上京して半月、生活の道筋も文学的自立も見えない自分に、何か必死なものを込めて図書館へと急いだ啄木が後に立っているような気がしました。

11月17日

  『午前は読書。午後は日本橋の丸善書店へ行って、"Hamlet By Shakespear" "Longfellow's poem" の Selection とを買って来た。

 若い者が丸善の書籍室に這入つて、つらつら自分の語学の力をはかなむ心の生ずるのは蓋し誰しもの事であらふ。あゝ自分も誠に羨ましさに堪えられなかった。』

 日本橋丸善で、シェークスピアのハムレットを買っています。

 現在、丸善は日本橋でますます大きくなり、洋書は4階にオ−プンで展示されています。種類も豊富で、啄木が見たら涙を流さんばかりに喜ぶのではないでしょうか?

母の夜具が届く

11月18日

 『午前 花郷兄への手紙かいてしまつて、渋民への絵葉書と共に投函した。 午後は図書館に「即興詩人」よむ。飄忽として吾心を襲ふ者、あゝ何らの妙筆ぞ。

 渋民より夜具来る。お情けの林檎、あゝ 僕 たゞ感謝の誠を以て味つた。明星。掛物。足袋。この夜は温かな母君の手になつた蒲団の上に安らかな穏かな夢を恋人の胸にまで走した。』

 東京の寒さと心の寒さを案じての母からの贈り物、マザコンぽい啄木には堪らない感激だった様子が伝わります。

翻訳家を目指すも、売り食い

11月19日

 『近頃 余が日課は殆んど英語のみとなれり。書はロングフェロー、ウヲルズヲルス、トリルピー等也。

 この日一日 小説の構想と落光記(校友会雑誌へ)の考案にて日をくらす。人は安閑として居るうちに己れの才を失ふことあり注意せざるべからず。・・・』

 この日に書いた、瀬川深あて書簡には

 「今イプセンのJohn Gabriel Borkmanてふ戯曲の和訳をなし居候。これ吾に当分の衣食を供すべき者なり」

 と書いています。翻訳で身を立てようとしたことがわかります。

11月20日

 『・・・午後菫舟兄来訪せらる。夕方かへる。今日は格別のはなしもなかりき。

 せつ子様の封緘葉書きたる、友と話しつゝある時なりければ秘せんとしてかへつて顔ほとるを覚へぬ。・・・』

11月21日

 この頃になると、滞在費もなくなり、売り食いをしていたことが想定されます。

 『夜、中西屋、丸善等をたづね、せつ子様に送るべきネスフイルド グランマーの一、及びウオルズヲースの詩抄、イプセンの散文劇詩 John Gabriel Borkman のオーサー英訳買ひ来る。

 ・・・吾は近頃蔵書の多くを英語をのぞいては大底売り払ひたり。甚だ気持よし。床の間には余がこの夏嘗つて渋民に居て掛けたる勿来の関の碑の一軸を下げたり。こはかの君きたりし時も白菊の鉢置きたる床にかけし者也。

 なつかしきは 吾に文玉ふ人々とこの掛物、母が手づからせし夜具、と自分の体也。』

健康の衰え

11月22日

 栄養失調か風邪か持病か、図書館で具合が悪くなります。

 『午後 図書館に行き急に高度の発熱を覚えたれど 忍びて読書す。四時かへりたれど悪寒頭痛たへ難き故 六時就寝したり。折悪 坂下の小社の縁日の事とて 雑駁の声紛々として耳を聾せしめんとす。かくて妄想ついで到り苦悶のうちに眠れるは九時すぐる頃なりき。終夜 たへず種々の夢に侵さる。・・・』

都会のまちの合理性は、ひとたび、一人のオリジナルの人間に返ると
止めどなく孤独を増幅します。岩手の人啄木は、縁日までがおっくうになりました。

11月25日

 『午前 安村省三兄、野村兄来訪せらる。猪川兄等のことに就いて野村兄より詰らなき「大事」をきゝたり二時かへる。イブセンのポルクマン訳す。

 余はこの頃健康の衰へんことを恐る。』

11月28日

 『この頃の起床は八時すぎ就寝は十一時すぎ。イプセン訳述。

 一昨日認めたる絵葉書投函す。珈琲をかひて 独り寂しくも 草堂に味ふ。友藻外へ絵葉書認む。・・・』

11月30日

 『朝めさむれば、枕頭に匂ふ白百合のみ姿あり、せつ子の君 杜陵より新らしき写真たまひぬ。

 午砲の頃またその美しきみ文来る。み手づから編ませしてふ美しの枝折、歌さへ添えて。・・・

 今日にて吾はこの地にきてより正に三十夜の夢結ばんとす、飄々として遊子孤袖寒し、前途を想ひ恋人を忍びでは万感胸に溢れて懐泣の時を重ぬること三時までに及びぬ、あゝそれ何地にか天籟の響を風骨にたゞよはさん者ぞ。

 都府とや、あゝこれ何の意ぞ。吾関を出でゝ相交はる髑髏百四十万。惨たる哉、吾友は今、吾胸に満足せしむべくあまりに賢さを如何せん、咄、天地の間、吾道何ぞ茫漠たるや。・・・

 今訳しつゝある「死せる人」(イプセン)は早く脱稿して出版せしめん。「活動」の意義は決して忽せたる者ならず。吾は吾信ずる所に行かんのみ、世の平凡者流の足跡を迫るが如きは、高俊の心ある者の堪えうる所に非ざるなり。

 出でゝ銀河を仰げ、北に走る三千丈の壮姿、猶且つ恋てふ星の涙に非ずや、北斗光閃として不動、吾希望の明りも亦そこにあり。』

 健康の衰えを気にしながら、下宿代も払えず、食事もままならない中で、翻訳の仕事が収入になることを願って脱稿を急ぎます。節子からの手紙が支えになっています。そして、東京が何であるかを「髑髏百四十万。惨たる哉、・・・」として、切々と自己の茫漠を訴えます。

 地下鉄を乗り換えるとき、突如啄木の声が吹き上がってくるような錯覚をしました。

望郷と病気

12月1日

郷を去りて月一度めぐりぬ。満都風寒し、旅情自らこまやか也。
 堀内錬三君より端書来る。

 あゝ汝故郷よ。岩峯の銀衣、玉東の白袖、夫れ依然として旧態の美あるか。江東嘗而、故郷を論じ 「形逝いて 神遊ぶ」と云へり。宜なる哉。郷村不段の自然の霊、今尚ほ、清秀の趣を堪えて、初冬のこう(シ+景+頁)気、朴直の農人の胸に呼吸せらるか。吾たえずあゝ吾堪えず。・・・

 地に下りて秋の霜ふむ蝶や身やかくて寒さのたえ難き世や。

 注 こう気=天上の清らかな気

 故郷を離れて1ヶ月、望郷の念もさりながら、「・・・巷街の塵に歩むを如何せん・・・」として夢の実現の遠さと、実現できない惨めさをかこち、「・・・寒さのたえ難き世や」とうたいます。

 翻訳で自立したい願いも砕かれ、恐らく、下宿代の催促もあったでしょうし、お金の工面も底をついてきて、17才の身に、愛しく思える故郷が、あまりにも遠くにあって、堪えられない淋しさをかき立てます。

 啄木に樋口一葉は現れませんが、野村長一の下宿の近くに法真寺があり、故郷の宝徳寺のことをいやが上にも偲ばせたのではないでしょうか。

12月2日

 『午前 恋しき君への文かき了へて投函す。
 田村の姉方より 杜陵の端書きたる、転居せる趣 しるしたり。』

 田村の姉に、お金の工面でも頼んだのでしょうか、ただ「転居した」というだけの便りに、心が萎える様子が目に浮かびます。

12月3日

 『イプセン集ひもとく。
  午後 一人 散歩す。』

12月19日、夜。

 『日記の筆を断つこと茲に十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり。』

☆☆☆☆☆★★★★★

 ここで、秋らく笛語(しゅうらくてきご)=(白蘋目録)は終わります。

 翻訳の仕事は実らなかったようです。健康を害すると同時に、食事もろくにできなかったのでしょうか? 日記を書く気力も体力も及ばなかったのでしょうか?

年末の就職運動

12月28日

 啄木は身を立てるため、年も押し詰まって、就職運動をします。日本橋の金港堂へ、雑誌「文芸界」の編集員に採用してもらおうと、主幹(筆)の佐々醒雪(さっさせいせつ)に面会を求めます。金子定一の尽力により、同じ力行会の紀藤方策に紹介状を書いてもらって訪ねたのでした。

  (金港堂のあった場所は、区画整理、町名変更が行われ、現在の地割りと異なっているので、常磐橋、日本銀行の位置をもとに復元しました。日本橋通りを北にして、現在の千疋屋総本店の斜め右を入った周辺と思われます。)

 しかし、頼りの人は面会もしてくれませんでした。失敗に終わった帰路、金子定一に宛てた次のような手紙(口上書)が残されています。

 『十二月二十八日神田の日本力行会にて
                         金子定一宛
  口上

 先刻 金港堂へ参りましたが 佐々様は居るには居られたけれど 大繁忙で逢はれないとの事、それで あの紀藤様の御紹介状を出しましたが 何しろ年内には種々の用事が重なつて居るので とても面会する機会があるまいとの取次の語に 不止得(やむをえず)また空手でかへつてまゐりました。

 万有は絶望の歌を囁きます。電燈の光 淡くうつろふ夜の空に どよむ市の叫喚は、頼りない身に 戦の合図を示すけれども、あゝ この遊子 何の敵に向つてその征矢放さふぞ? 

 何時も乍ら千万の御世話恭けない程恩ある紀藤さまへよろしう御伝へ下さへ。

     廿八日                         一拝

香音児サマ
 かくて今夜もかへります。何かよさそうな事でもあつたら何卒端書をとばしてくださへ。』(筑摩書房 石川啄木全集 第7巻 p385) 

金港堂のあったと思われるところ

 佐々醒雪が啄木に会わなかった理由を嵐山光三郎氏は文士放湯記・ざぶん」で
 『半年前、「岩手日報」に『五月乃文壇』という文芸時評を書き、「『文芸界』は材料豊富な代り、雑駁の誹を免れない」「主筆醒雪さても胆の小さい人」と酷評したためである。醒雪は、地方新聞の、聞いたこともない若造にけなされて腹をたてていた。』 としています。参考 嵐山光三郎氏の 【ざぶん 文士放湯記 第十六話 湯島の別れ】

 暮れの押し詰まった28日がこの状況です。年が明けても、この就職活動は実りませんでした。借金するにも、友人達は帰郷して、東京には居なかったでしょうから、その年をどのようにして越したのでしょうか?

 啄木研究家で仙台啄木会顧問の相沢源七氏は次のように書いています。

 『啄木が力行会内の金子定一の部室に転がりこんだのは、この「口上書」を書いた直後のことといわれる。そして明治三十六年の元旦を「ムサ苦しい神田錦町三丁目の、力行会の破れ障子の裡で」迎えたのである。

 島貫はこの金子と啄木の交流を知悉していたに相違ない。彼はキリスト教的な寛容の精神をもってこの窮鳥を温かく見守っていたのではなかろうか。

 啄木はその後、飯岡三郎の親戚筋を回ったり、錦町の下宿や湯島の紅梅館に宿をとったりしていたが、生活に窮し、果ては病にたおれてしまう。そして二月二十六日には、父一禎の迎えで帰郷し、病を養う身となってしまう。』
  (相沢源七 島貫兵太夫伝 日本力行会の創立者 教文館 p113 1986)

明治36年の年賀状

 明治36年1月1日の野村長一宛て年賀状は

  『明計満志天御目出度宇御座以満須。
  先日者御端書難有。
  何日頃御出京仁矢?
    三六年一月一日

 野村長一様
                             東京 白蘋』

 「いつ頃、東京に来られますか」の文面に、切迫して待ち望んでいることがうかがえます。また、差出人の住所の記載がありません。年末から金子定一の部屋に泊まり込んでいた啄木には、住所が書けなかったのでしょう。

下宿を追い出され、神田で放浪

 ついに、啄木は、下宿(小石川区小日向台町3−93 大館みつ方)を追い出されたようです。あるいは、黙って飛び出したのかも知れません。この辺の事情を、啄木は「樗牛死後」で次のように述べています。

『樗牛死後

 思起せば隔世の感がある。日露戦争前の事で、私が十八の歳――今から六七年も前だ。神田錦町のとある通りに、二階建の、入口の格子戸だけが真新しい、薄穢(うすぎたない)い安下宿があった。入口に掲げた止宿人の人名札は大抵裏返しになってゐて、名前の出てるのは四枚か五枚――その数少い止宿人の中に、京橋辺の或鉱業会社の分析課に勤める佐山某といふ人がゐた。

 小石川の先の下宿を着のみ着の儘で逐出(おいだ)された私は、東京へ出て三月とも経たぬ頃ではあり、年端も行かぬ身空で経験も無ければ智慧もなし、行処に塞(ふさが)って了つて、二三日市中を彷徨(うろつ)き巡った揚句に、真壁六郎といふ同年輩の少年と共に、その人の室に二十日許りも置いて貰った事がある。・・・(中間省略)

 ・・・何処か人のゐない処へ行って、思ひきり泣いて泣いて、泣き通して見たい様にも思つたが、立てば矢張寒いので、私はじつとして膝頭を抱いてゐた。そして午頃(ひるごろ)になると、前日あたりに着てゐた木綿の紋付を質に入れて得た金の残額で、真壁と二人、一町許りしかない一膳飯屋へ行った。

 ――其頃、二人は毎日二度宛(づつ)、時としては一度宛、其処へ行って腹を拵へたもので、たしか三河屋とか言つた様に記憶してゐる。香の物をシンコ、大根やら何やらの煮込をゴツタと呼ぶことなどは、私は初めて其処で知つたのだ。

 降りしきる雪の中を、其日は私は元気よく歩いた。二人共傘も翳さず帽子も冠らず、真壁は葡萄茶色の毛糸の首巻をしてみたが、私にはそれも無く、綿の様な雪が首筋から襟元に入り、額に融けて眼に流れ、地味な地織の古綿入の袖に降りかかっては融け、降りかかっては融けしたが、然うして雪の中を歩くのが、私にはつくづくいやになった。

 東京の街を歩いてる様な感じがしなかったのだ。そして、雪に濡れて重くな(以下断絶)』

 (筑摩書房 石川啄木全集 第4巻 p149−150、岩城之徳氏は、この文を明治41年2月1日に起稿されたものとしています。同上 p486)

 神田のまちも湯島のまちも、一つ路地を入ると当時の下宿が新しく名を改めて、方法も変わって営業しています。この辺りを啄木がさまよったのかと思うと、日陰部分が余計寒く感ずる一日でした。

借金メモと日記の摘要

 この間の事情を説明する啄木自身の記録があります。一つは借金メモで、その中には

 「東京 大館 下宿 30円」

 の記載があります。いつか成功したら返済するとの意思が書きとどめさせたのでしょう。

 もう一つは、明治42年1月6日の日記です。日記の「摘要」に、カルタ会に行った帰りに、

 『小日向台の下、水道町に救世軍の女三人、男一人に出会って、

 ト見ると大館光』

 と書いてあり、びっくりして、いかにもあわてふためいている様子がうかがえます。顔を合わせると間の悪いことがあったのでしょう。下宿代を踏み倒して出ていったか、追い出されたかの負い目を物語るようです。

五十年の苦痛

 明治37年1月21日 野口米次郎宛手紙に、啄木は次のようにこの時期の状況を綴ります。

 『私は十七歳の年、学途半ばに袂を払ふて、盛岡の校舎を退き、瓢然として希望の影を追ふべく東京に走りました。詳しい事を申し上げるのは失礼にあたりませうから、申しますまい。たゝその数閲月の間に、他人が五十年もかゝつて初めて知る深酷な人生の苦痛を、鋭く胸に刻みつけられたのです。・・・』

放浪から帰郷へ

 放浪の状況は、2月26日頃まで続いたようです。2月26日付、野村長一宛の次のような葉書が残されています。 

 『 前略
 急に風雲変りて 本日立つ事になりました 後から手紙差上ます。                      
 
                                 白ヒン
 野村長一様 』

 思いも果たさず、世話になりっぱなしで、面目もなく、何も書けずに、「後から手紙差上ます」に一切が込められているようで、切なさが伝わります。野村長一=野村胡堂は後に、『胡堂百話』で次のように当時の様子を書いています。

 『私が卒業して東京へ出ると、あとを追うように啄木も上京した。そして二度目の交際がはじまった。彼は歌は作るが俳句は駄目。こっちは俳句に没頭して、歌を相手にしないから、芸術論などたたかわせた覚えはないが、それでも可なり交渉があった証拠には、啄木の書いた手紙が二十四通たまっていた。今では十二、三通しか残っていないが、その中の一通に借金の詫び状がある。

 啄木が病んで郷里の渋民村に帰る時、三円だか五円だかを貸した時のである。字も立派だし、表装して保存しているが、今となっては、私のあらゆる骨董品よりも尊いものになってしまった。』
  (野村胡堂 胡堂百話 中公文庫 p11)

 ついに、啄木は帰郷を決心したようです。小学生時代からの友人 伊東圭一郎は「人間啄木」に、『・・・郷里の父に電報を打ち、父に連れられて渋沢村に帰ってきた。・・・』と書いています。(p69)

現在の上野駅に、北に向けての線路をじっと見つめる人が居ました。

明治36年(1903)18才 
 2月27日、迎えに来た父に伴われて帰郷しました。

 この4ヶ月の東京滞在は、まさに「憧れと失意」のまぜこぜでした。当時を思いながら跡をたどる者に、あの端正な顔が、栄養失調に歪んで、よれよれの紋付きもなく、悄然としていたであろう姿と重なって、ほとんど原形を留めない即物的な現在の諸々に、逆に強烈な印象を残します。

 2月28日、故郷に着いた啄木は野村長一に次の葉書を出します。

  昨日無事着郷仕候在京中の御厚情幾重にも御礼仕候
  あとから手紙にて差上べく候 草々
   廿八日
                      陸中岩手渋民村 白蘋生
  野村長一様

 幾重にもお礼を云いながら、「あとから手紙にて差上べく候」と、なおも中身が書けない苦衷が重く伝わります。

故郷の癒しと再上京

 僅か4ヶ月足らずで遭遇した「他人が五十年もかゝつて初めて知る深酷な人生の苦痛」と一緒に、父に伴われて汽車に乗った啄木を、癒して元気にしたのはやはり故郷であり、故郷の人々でした。

 伊東圭一郎は「人間啄木」に、失意の元に帰郷した啄木の復活を次のように書きます。

 『啄木の第一回上京の唯一の収穫は、与謝野鉄幹夫妻と親しく知り得たことだった。鉄幹は「今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓に努むべきだ」と示唆してくれ、その後も「君の歌は何の創意もない、失礼ながら歌をやめて、他の詩体を選ぶがよかろう。そうしたら君に、新しい世界が開かれるかも知れない」と厳しく批判し激励してくれた。

 それで彼は更に発奮精進し、独得の四・四・四・六調の長詩の新形式を発見したのだった。「啄木」という雅号も師匠鉄幹から与えられたものだ(この年十二月)。鉄幹は彼の「秋調」と題する五つの詩篇の中にある「啄木鳥」が佳作だと見て「明星」の十二月号に「啄木」と署名して発表してくれたのだった。』(p71)

 併せて、苦学生の渡米に力を入れていた「力行会」で知った渡米への魅力がいっそう再生を速めたのではないでしょうか。相沢源七氏は次のように書きます。

 『啄木が日本力行会の苦学部に身を寄せたことのあるこの事実は、幼い時より持っていた「渡米熟」に、再び点火させることとなったと言ってよい。

 病状も小康を保ち、だんだんに元気をとり戻した啄木は、同年の暮れに、野口米次郎の詩集『東海より』(From The Eastern Sea 1903)に接し、十二月二十四日夜、徹宵で書きあげたのが、「詩談一則『東海より』を読みて」である。明治三十七年一月一日の「岩手日報」紙上を飾った。

 野口あての啄木の手紙は二通ある。第一信(一月十四日付)は、「詩談一則」について報じ、「御交誼」を仰ぎたいが、暇がなくて未だその時を得ていないので、とりあえず「岩手日報」を送る旨を記した簡単なものであるが、第二信(一月二十一日付)は三千余字に及ぶ長文のものであった。・・・』(相沢源七 島貫兵太夫伝 日本力行会の創立者 教文館 p113 1986)

 東海の小島・・・の作詩の背景を暗示し、ゾクゾクします。

 どんなに失意や苦衷があっても、この明治35年の上京は、啄木に大きな収穫をもたらし、次の活動のエネルギーを貯えたのだと思います。そして、故郷は癒し、次の胎動を用意したようです。

 明治37年10月31日、「あこがれ」を持って、再度上京します。

 以上、日記、手紙などは、全て「筑摩書房 石川啄木全集」によります。HPという限られた媒体なので、読みやすくするため、原文の雰囲気を壊さない範囲で、ところどころふりがなを付け、区切りを入れました。未熟な点お許し下さい。勉強して埋めて行きます。

 参考 明治35年の上京と帰郷について、金田一京助氏と三浦光子氏の資料
 参考 金子定一と日本力行会に関する資料(浦田敬三 啄木その周辺)

丸善のショウウインドウには、各国のクリスマス絵本が飾られていました。

(2001.12.19.記)


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